第五話:月
アルクライド公爵家の庭園は、王都随一と謳われるほど、美しく手入れされています。
ですが、それは表の庭園の話。
幽閉されていた北の塔は屋敷の裏手にあり、その周辺は使用人の往来も少なく、手入れの行き届いていない茂みが広がっていました。
(…はぁ…っ、はぁ…)
わたくしは、この屋敷で最も日当たりが悪く、誰も近寄らない茨のアーチの奥深くに、転がり込むように身を隠しました。
二年ぶりに全力で神経を使ったせいで、ただでさえ痩せこけた体は、限界寸前でした。
(…先生。少しだけ、息を…)
『《フン。やむを得んだろう。》』
先生は、わたくしの状態を理解しているのか、それ以上は責めませんでした。
『《だが、時間は無いぞ、小娘。あの衛兵の予測起床時間、残り40分だ。》』
(…承知、しています。)
わたくしは、茨の茂みの陰、庭師が道具を隠しておく場所に、水差しが置いてあるのを見つけました。
(先生…!)
『《焦るな!飲む前に【
先生が、わたくしの逸る心を見透かしたように叱咤します。
『《万が一、庭師が薬品でも混ぜていたらどうする!貴様のその非力な体では、微量の毒でも致命傷だぞ!》』
(…!はい!【
わたくしは、祈るような思いで、左目の意識を水差しに向けました。
[対象:水差し(水)]
[状態:飲用可能(微量の土埃を含む)]
[特記:腐敗なし、薬品(毒物)混入なし]
(…飲めます!)
『《よし!飲め!》』
わたくしは、震える手でその水差しを傾け、水を喉に流し込みました。
乾ききった砂漠に、水が染み渡っていくかのような感覚。
冷たい液体が、食道から胃へと落ちていく感覚だけで、涙が出そうになりました。
(…ああ…)
わたくしは、次に懐の乾パンを取り出しました。
石のように硬いそれを口に含み、今しがた手に入れた水で流し込む。
身体の奥底から熱を感じました。
(…おいしく、ない。)
公爵令嬢として味わってきた、一流シェフの料理とは、比べ物にもならない。
(…けれど。)
わたくしは、もう一口、塩辛い干し肉をかじり、再び水で流し込む。
(…けれど、温かい。)
涙が、ポロリとこぼれました。
(…生きて、いる。)
その実感が、乾パンの味の無さや、干し肉の硬さなど、どうでもよくさせてくれました。
『《…フン。随分とみっともない
先生が、どこか呆れたように、しかし、わたくしの覚悟を確かめるように言いました。
(…いいえ、先生。)
わたくしは、涙を袖で拭い、残りの乾パンを必死で胃に詰め込みながら、毅然として答えました。
(これは、わたくしが、わたくし自身の力で勝ち取った…『晩餐』ですわ。)
『《…ハッ!》』
先生が、短く、楽しそうに笑いました。
『では、この敷地を脱出するぞ!》』
(はい!)
わたくしは、残りの干し肉を懐にしまい、力が入るようになった膝に手を当て、立ち上がりました。
もう、死を待つだけのわたくしではありません。
(先生。次は、あの壁ですわね。)
わたくしは、茂みの隙間から、月明かりに照らされる、屋敷の外壁を睨みつけました。
『《そうだ。アルクライド公爵家の第二の牢獄だ。》』
先生の声が、わたくしの思考と共に、冷たく、そして鋭く、研ぎ澄まされていくのが分かりました。
『《——だが、今の
先生の力強い言葉が、脳内に響きます。
アルクライド公爵家の威光と、侵入者を拒む物理的な拒絶の象徴。
今のわたくしでは、よじ登ろうとした瞬間に力尽きて滑り落ちるのが関の山です。
(…先生。ですが、どうやって。壁は滑らかで、掴む場所が…)
『《この愚か者!》』
先生の叱咤が、わたくしの弱気を打ち砕きました。
『《見る前に諦めるか!貴様のその左目は何のためにある!【
(…はい!)
わたくしは、叱責に身を縮ませながらも、即座に意識を集中させました。
左目が熱を持ち、石壁の情報が脳内に流れ込んできます。
[対象:アルクライド公爵家・外壁(北側)]
[状態:堅牢(大部分)]
[構造:花崗岩の切り出し積み]
[弱点(1):築120年。一部の目地に風化による隙間多数]
[弱点(2):壁面を覆う古茨。根が深く、複数の箇所で足場にすることが可能]
[魔術的干渉:対侵入者用・警報結界(広範囲)]
結界の穴:北側第14〜16支柱付近(茨の根による魔力回路の物理的破損)]
(…!)
(先生!いくつか登攀できそうなルートが!それに結界に、穴が…!)
『《フン。見たか、小娘!》』
先生が、得意げに鼻を鳴らしました。
『《どれほど完璧に見える守りでも、必ず綻びは存在する!自然の侵食は、人間の作った術式よりも強いということだ!》』
【
風化して指の入る隙間。
体重を支えられる、太い茨の幹。
そして何より警報結界が、唯一機能していない安全なルート。
(…それでも、この高さは…)
『《まだだ、小娘。貴様のぎりぎりの魔力は、その登攀に必要となる。》』
先生は、わたくしの焦りを制します。
『《貴様が取得した術式を思い出せ。第四章…「生命力の基礎循環」、そして第六章…「風の基礎制御」!》』
(…!【
どちらも、魔術書に記されていた、基礎中の基礎魔術。
『《そうだ!全身に使う魔力は無い!だが、登攀に必要な最低限の筋力だけを【
(最小限の
先生の教えが、再び実践へと繋がりました。
わたくしは、息を殺し、茨の茂みから飛び出しました。
月明かりの下、無防備な庭を横切り、解析した結界の穴へと駆け寄ります。
(…はぁっ…!)
痩せた肺が悲鳴を上げますが、構いません。
石壁に手をかけ、解析した最初の隙間に指をねじ込みます。
(術式起動—【
登攀に必要な力だけを強化する。
同時に、体がフワリと、まるで羽のように軽くなる。
『《よし!行け!次だ!右上、茨の幹!》』
先生のナビゲートに従い、わたくしは壁を登り始めました。
公爵令嬢としての礼法訓練で培われた、体幹のバランス感覚。
【
そして、【
二年間の虐待で失われた筋力。
ですが、今のわたくしは、知性と魔術、そして先生という最強の補助を得て、この絶壁と対峙していました。
しばらく登った頃。
足をかけた茨が、ミシリ、と嫌な音を立てました。
(…っ!)
『《慌てるな!体重を左に移せ!》』
【
わたくしは、先生の叱咤と予測を信じ、体が滑り落ちるよりもコンマ数秒早く、右足を伸ばし、新しい足場に乗せました。
(…はぁ…っ、はぁ…!)
心臓が、耳元で鳴っているようでした。あと、少し。
ついに、指先が、壁の上端に届きました。
【
——そして。
わたくしは、ついに壁の上に、転がり込むようにしてたどり着きました。
(…やった…)
眼下には、わたくしが二年もの間、閉じ込められていたアルクライド公爵家の広大な敷地が、月明かりの下に広がっています。
わたくしを汚点と断罪したお父様とお母様、それにイリスがいる、豪奢な本館。
そして、わたくしが今しがた脱出してきた、冷たい北の塔。
『《感傷に浸るな、小娘!》』
先生の声が、わたくしを現実に引き戻します。
『《まだ終わってはおらん!衛兵が塔の異常に気づけば、すぐに追っ手が送られるぞ!》』
(…はい!)
わたくしは、名残惜しむ気持ちなど微塵もなく、その景色に背を向けました。
壁の向こう側には、ただ、どこまでも深い闇が広がっていました。
王国の禁足地。魔物が闊歩すると言われる、黒の森です。
『《飛び降りろ!茂みに向かってだ!【
わたくしは、躊躇なく、その闇へと身を投げ出しました。
風が、全身を包み込む。
…ふと、空に輝く月が目に入った。
(…あぁ、とても綺麗な月ですね。)
公爵令嬢セレスティナ・フォン・アルクライドは、この瞬間、確かに死にました。
そして、茂みの中に音もなく着地したわたくしは、ただ生き延びるための一人の少女として、先生と共に、黒の森の奥深くへと、その一歩を踏み出したのです。
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