第四話:外へ
扉は、重い沈黙を保ったまま、人間一人がようやく通れるだけの隙間を開けました。
二年ぶりに踏み出す、牢獄の外。
北の塔の内部は、月明かりすら差し込まない、完全な闇でした。
(…先生。何も見えません。)
わたくしは、闇に慣れていない目で、必死に周囲を探ろうとしました。
『《この程度で慌てるか、小娘。貴様の頭には、さきほど解決策が提示されたはずだが?》』
先生の皮肉が飛びます。
(…!そうでした。)
わたくしは、脳内の知識を呼び起こしました。
ですが、松明のように明るい光は、寝ている衛兵を起こしてしまいます。
(先生。魔力を、最小限に…)
『《フン。ようやくワガハイの教えが身についてきたか。そうだ、指先に集中しろ。この闇夜に必要なのは、太陽ではない。足元を照らす、微弱な光だ。》』
わたくしは、言われた通り、人差し指の先端に、魔力の粒を集束させるイメージを持ちました。
(術式起動—【
ポッ、と。
わたくしの指先が、蛍のように、ごく微かな青白い光を放ちました。
最小限の光量ですが、この完全な闇の中では、足元数メートルを照らすには十分すぎるほどの明るさです。
(…見えます。)
指先の光が、埃にまみれた、長い螺旋階段を照らし出します。
そして、その階段の真下、折り返し地点の踊り場に、椅子に座ったまま首を垂れる、衛兵の姿も。
(…先生、【
わたくしは、音を立てぬよう、息を殺したまま衛兵に意識を集中させます。
[対象:
[状態:睡眠(深)、軽度のアルコール反応]
[弱点:左耳(聴力が弱い)、右膝(古傷)]
[特記事項:近辺に掲載されている行動表から推察→約55分後、交代のため起床]
(…お酒を飲んでいます。眠りは深いようです。)
『《愚かな番兵め!だが、好都合だ。…小娘、行くぞ。》』
先生が命じます。
『《貴様の礼法の授業を思い出せ。ドレスの裾を鳴らさず、床板を軋ませず、王妃の前を音もなく退出する、あの歩き方だ!》』
(…!はい!)
公爵令嬢として、王族の前で粗相のないよう、幼い頃から叩き込まれた「音なき歩行術」。
まさか、こんな場所で役に立つとは。
わたくしは、指先の【
衛兵の寝息が、すぐ近くで聞こえます。アルコールの混じった、不快な匂い。
痩せこけた体は、こういう時、体重が軽い分だけ有利でした。
衛兵のすぐ真横を、通り過ぎる。心臓が、喉から飛び出しそうでした。
もし、ここで、彼が目を覚ましたら——?
わたくしには、痩せた腕で彼を打ち負かす力など、万に一つもありません。
『《…落ち着け。》』
先生の声が、わたくしのパニックを抑え込みます。
『《奴の眠りは深い。ワガハイ…貴様の【
(…はい。)
わたくしは、最後の階段を降りきり、ついに塔の一階、外部へと通じる、大きな鉄の扉の前に、たどり着きました。
塔の一階は、武器や防具が乱雑に置かれた、物置兼詰め所になっていました。
鉄格子のはまった小さな窓から月明かりが差し込み、床を縞模様に照らしています。
衛兵の詰所だけあって、酒と、わずかな食料の匂いがしました。
『《…止まれ、小娘。》』
わたくしがまっすぐ出口の扉に向かおうとすると、先生が制止しました。
『《ここを物色し、必要なものを探せ。》』
(ですが、先生。今は一刻も早く…)
『《非合理的だ、小娘!》』
先生が、わたくしの焦りを叱咤します。
『《ここは詰め所だ。衛兵どものための食料があるはずだ。壁際の棚を【
(…はい!)
わたくしは、先生の指摘に頷き、壁に積まれた木箱や棚に、左目の意識を向けました。
[対象:古い槍の束] → [価値:なし]
[対象:木箱(小)] → [中身:予備のロウソク、火打ち石]
[対象:木箱(中)] → [中身:軍用保存食(乾パン、干し肉)]
[状態:食用可能(品質:低)、高カロリー]
(…!先生、ありました!干し肉と乾パンです!)
『《よし!幸先がいいな!》』
先生が、満足げに言います。
『《だが、欲張るなよ、小娘!音を立てず、懐に入る分だけだ!》』
わたくしは、音を立てないよう、慎重に木箱の蓋をずらしました。
中には、カチカチに硬くなった黒パンと、塩辛そうな干し肉の塊が。
わたくしは、そのうちの数個を、粗末なワンピースのわずかな隙間に、ねじ込みました。
食料を手に入れたという事実が、わたくしの心に、魔術とは違う、原始的な力を与えてくれました。
(行きます。)
わたくしは、改めて、目の前の出口と向き合いました。
『《フン。では、本題だ。まず解析しろ。》』
[対象:北の塔・通用門]
[状態:施錠済み(二重)]
[構造1:鉄製シリンダー錠]
[構造2:魔術式ロック(
[弱点:魔術式ロック(術式構造が古く、脆弱)]
(…魔術の、錠前!)
これは、想定外でした。
『《…フン。さすがに公爵家の施設だ。
(先生、どうしますか。わたくしの【
『《落ち着け、小娘。そのための魔術だろう。》』
先生は、まるで家庭教師がわたくしにヒントを与えるかのように、冷静でした。
『《貴様が先ほど読み込んだ『基礎魔術の構造と実践』。その第七章のタイトルは?》』
(第七章…)
わたくしは、脳内の知識を検索します。
(…「簡易結界の構造と、その解除法」…!)
『《そうだ!》』
先生の声が、熱を帯びます。
《あの
(…やれます!)
【
すべてが、今、噛み合いました。
わたくしは、鉄の扉に手を触れました。
【
(…見えました。結び目は、ここです。)
扉の中央、護符が貼られた場所から、わずかにズレた一点が、ひときわ強く光っています。
『《よし!そこに、先ほどと同じく、魔力の針を突き立てろ!》』
(術式起動—【
わたくしは、指先に全神経を集中させ、その結び目に向かって、魔力の刃を叩き込みました!
ピシッ…!
小さな、ガラスが割れるような音が響きました。扉から発せられていた、かすかな魔力の圧が、フッと消え失せます。
(…成功です!)
『《当然だ!次!物理錠だ!》』
わたくしは、立て続けに術式を行使しました。
(術式起動—【
わたくしのいた部屋のものと構造が似ていたので、スムーズに行使できました。
ガチャン。
『《…よくやった、小娘。》』
先生が、初めて、わたくしを褒めました。
わたくしは、痩せた腕に力を込め、鉄の扉を、外の世界へと押し開きました。
二年ぶりに、全身に浴びる、冷たい夜風。
そして、目の前には、広大なアルクライド公爵家の、庭園が広がっていました。
(…出られた。)
『《感傷に浸るな、小娘!》』
先生の叱咤が、わたくしを現実に引き戻します。
『《塔を出ただけだ!まだ屋敷の敷地内だぞ!見つかれば、今度こそ地下牢行きだ!》』
(はい!)
わたくしは、背後で静かに扉を閉め、公爵令嬢が歩くべきではないとされる、庭園の茂みの中へと、懐の食糧を握りしめながら、身を滑り込ませました。
目指すは、敷地の外れ。
そして、その先にある黒の森だけでした。
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