1907年1月16日の列車

海野藍(うんの・あい/24)は、小さな古書店の奥で埃をかぶった地図帳を閉じた。

明治末期の鉄道路線を記録した貴重な資料——のはずだが、どうしても“その日”だけが曖昧なのだ。


1907年1月16日

当時の新橋駅を出た汽車に関する文献には、必ず奇妙な空白がある。


何があったのか。

それとも、何もなかったのか。


歴史研究家を志す藍には、その「穴」がどうしても気になっていた。


そして今、噂に聞いた“赤い電話ボックス”の前に立っている。


「行きたい西暦日付を押してください」


受話器から流れる声は、未来的なのに妙に温かい。


藍はゆっくりと、指でボタンを押した。


1

9

0

7

0

1

1

6


最後の 6 を押した瞬間、灯りが弾けるように広がり、足元の感覚が消えた。


気づくと、喧騒と石炭の匂いに包まれていた。


「……新橋駅?」


目の前に広がるのは、まさに藍が本で読み漁った“あの時代”。

駅員の制服も、掲げられた時刻表も、線路の向こうで蒸気を吐く黒い機関車も。


藍は胸が高鳴った。

だが同時に、ある緊張感が背中を走る。


「この日、この時間……本当に何も起きなかったのか?」


そんな疑念が拭えなかった。


すると、駅の片隅で少女の声がした。


「お兄さん、切符……落としたよ?」


振り返ると、年の頃は十二、三歳ほどの少女が手を差し出していた。

小花の刺繍が施された和装に、白いマフラー。

どこか“時代にそぐわないほど整った”雰囲気を纏っている。


「ありがとう。君、ひとりなの?」


少女は首を横に振り、


「いいえ。お母様と来るはずだったの。でも……来なかったの」


「迷子?」


「ううん。お母様はきっと来ない。わたし……知っているの」


意味深な言葉に、藍は息を飲んだ。


そのとき——

駅構内に汽笛が響いた。

午前10時発・上野行き の列車が、乗客を飲み込むようにして動き出そうとしている。


少女は藍の袖をぎゅっと掴んだ。


「お願い……止めて。

止めなくていいから、せめて“行かないで”って言って。

お兄さんにしか言えないの」


「どうして?」


少女は震える声で言った。


「この列車に乗ったら……わたし、帰ってこられないの」


予言めいた少女の言葉に、藍の心臓が早鐘を打つ。

だが、歴史書にはそんな事件は一切記録されていない。


(ここで何かが起きたなら……なぜ文献には残っていない?)


混乱する藍をよそに、列車はゆっくり動き出す。


少女はホームの端に立ち、ただその行く先を見つめていた。


「お兄さんは……信じてくれる?」


「君が危ないなら、俺は助ける」


藍の言葉に少女は微笑み、それから静かに語り始めた。


「わたしは……未来から来たの」


藍は目を見開く。


「はっきり覚えてるの。あの列車に乗ったら、

……わたしは二度と家族のもとへ帰れなかったことを」


少女は俯き、続ける。


「でも文献には何も書かれていない。

どうしてだと思う?」


藍は息を呑んだ。


「“帰れなかった”未来は——記録に残らなかったからだ」


少女はコクリとうなずく。


「あなたがこの日、この場所に来ることも……知っていた。

わたしのお母様が教えてくれたの。

『あなたを救ってくれる人が現れる』って」


その瞬間、藍の背筋に冷たいものが走った。

この電話ボックスの存在を知る人間は限られているはずなのに——。


「君のお母さんは……誰?」


少女は少しだけ迷い、静かに言った。


「あなたが探していた『空白の日』を作った人よ」


列車のスピードが上がり、駅の空気が震える。


少女は藍の手を取り、強く握った。


「わたし、行かない。

あなたが来てくれたから。

これで……未来は変わる」


藍は迷わず叫んだ。


「帰ろう、一緒に!」


少女は涙を浮かべ、深くうなずいた。


次の瞬間——

空気がはじけるような音とともに、

駅全体が淡い光に包まれた。


光が消えたとき、少女の姿はもうなかった。


藍はしばらくその場に立ち尽くした。

あの子は本当に“救われた”のだろうか?


いや——

胸の奥に、確かな感覚が残っている。

“未来が別の道に変わった”という実感が。


電話ボックスに戻ると、受話器がすでに明るく点滅していた。


「お帰りなさい。

未来は……少しだけ、優しくなりましたね」


声はどこか嬉しそうだった。


藍は思わず問いかけた。


「君は……あの少女の母親なのか?」


「そんなこと、言っていません」


「でも……」


「未来のことは、未来の人に任せましょう」


柔らかい声に、藍は深く息をついた。


“空白”だった1907年1月16日は、

もしかすると——

**歴史がうまく書き換えられた結果の“空白”**だったのかもしれない。


受話器を置くと、電話ボックスはいつもの静けさを取り戻した。


藍は空を見上げた。

どこかで、あの少女が家族と手をつないでいる——

そんな未来を想像しながら。


赤い電話ボックスは、

また次の訪問者を待つかのように、静かに光り続けていた。

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