1985年8月12日の便り

深夜、印刷工場の片隅。

圭介は作業場の机に座り、古びた一枚の葉書を眺めていた。


1985年8月10日 消印

差出人:兄・晴人

短い文面。


「今度こそ、ちゃんと話したい。

12日に帰るよ。」


それが兄からの最後の便りになった。

戻ってくるはずの日の午後、兄の乗った航空機は消息を絶った。


以来、圭介はずっと悔いている。


(あの時、電話の一本でも入れていれば──)


その悔いが、重しのように胸を押し潰していた。


そのとき、作業場の裏口にある古い電話ボックスが目に入った。

工場が移転する前の持ち主が残していったものだ。


ガラスには奇妙な文字が貼られている。


「行きたい西暦日付を“押す”と、その日に24時間だけ行けます」


いつか噂で聞いた、馬鹿げた話だ。


だが今夜、圭介の心は限界だった。


「……もしも、本当に行けるなら」


圭介は受話器を取り、数字のボタンに指を乗せた。


行きたい日は決まっている。


1985年8月12日


圭介はゆっくりと、

1

9

8

5

0

8

1

2

を押していく。


最後のボタンを押した瞬間、

受話器の向こうで“飛行機のエンジン音”が微かに聞こえた。


(まさか……)


強い光が一気に視界を覆い、圭介は息をのんだ。


気づくと、圭介は見覚えのある場所に立っていた。


羽田空港の出発ロビー。

人の多さ、タバコの匂い、年代を感じる案内表示──

まぎれもなく“あの頃”の空気だった。


「戻ってきた……本当に、あの日だ……」


時計を見ると午後3時。

兄が搭乗する便の出発まで、あと一時間ほど。


そのとき、ロビーの向こうに晴人がいた。


明るい色のシャツに、少し疲れた笑顔。

生きている兄が、そこにいた。


圭介は声を失い、足が震えた。


「兄さん……!」


晴人は気づかず、搭乗口へ向かっていた。


圭介は駆け寄る。


「兄さん!」


晴人が振り返り、驚いた顔で笑った。


「圭介? どうした、お前。来るなんて言ってなかったろう」


その自然な声に、圭介の胸がつまる。


空港内の喫茶店で、二人は向かい合って座った。


晴人はどこか落ち着きがなく、時折視線を彷徨わせていた。


「圭介。あの葉書、読んだか?」


「……あぁ。読んだよ。返事、できなくて悪かった」


晴人はかすかに笑った。


「分かってる。お前は不器用だからな」


しばらく沈黙が続いた。


晴人が小さく息を吐く。


「正直に言うとさ……帰るのが怖かった」


「怖い?」


「家族の問題から逃げてばっかりでさ。

でもこのままで終わりたくなかった。

一度、お前とちゃんと話したかった」


圭介は胸が締めつけられた。


(どうして気づかなかった。

どうして、あのとき一言でも返してやれなかった。)


喉が痛いほど苦しかった。


「兄さん……今日の便に乗らないでくれ。

理由は言えない。でも、頼む……!」


晴人は驚いたように目を細めた。


「圭介、お前……泣いてるのか?」


圭介は震える声で言った。


「嫌なんだ。兄さんを失いたくない。

どうしても、どうしても……嫌なんだ」


晴人は静かに席を立ち、圭介の肩に手を置いた。


「ありがとう。そんなふうに言ってくれるなんて思わなかった。

でもな──」


晴人の表情は、どこか悟ったようだった。


「今日、俺はこの便に乗る。

これは……俺が自分で決めた未来なんだ」


圭介の心に冷たい衝撃が走る。


「どうしてだよ……! 死ぬって分かって──」


「分かってないさ。ただ、逃げたくないだけだ。

もし運命なら、受け入れるよ。

でも、お前が今日来てくれた。それだけで十分だ」


晴人は微笑む。


「ありがとう、圭介。俺はずっと、お前に言いたかったんだ。

――“弟でいてくれてありがとう” ってな」


その言葉を最後に、晴人は搭乗口へと歩き出した。


圭介は追おうとしたが、

突然ロビーの空気がざわめき、視界が白くかすんだ。


(時間が……終わる)


兄の背中が遠ざかる。


「兄さん!!」


叫び声が消える前に、世界が反転した。


気づけば圭介は工場の電話ボックスにもどっていた。

辺りは静まり返り、外には薄い朝日が差し込んでいる。


夢ではない。胸には兄の体温が残っていた。


机の上の“最後の葉書”を開く。


そこには、以前にはなかった小さな追伸があった。


「圭介へ

今日、空港で会えて本当に嬉しかった。

お前の言葉は、俺の一生の宝物だ。」


圭介は震える手で葉書を胸に抱きしめた。


兄は未来を変えなかった。

でも、二人の関係は確かに変わった。


もう戻らない命でも、

“届けられた想い”が確かにあった。


圭介は空を見上げ、小さく呟く。


「兄さん……ありがとう。

もう、俺は逃げないよ。」


その声は、夜明け前の空に静かに溶けていった。

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