2020年3月31日の卒業式

2020年3月31日の夜。

春の空気はまだ冷たく、街は外出自粛の影響で人影が少なかった。


麻子は静まり返った商店街の端に、一つだけ灯っている電話ボックスを見つけた。

ガラスに貼られた古い文字は、噂で聞いたものと同じ。


「行きたい西暦日付をダイヤルすると、その日に24時間だけ行けます」


その横に小さく落書きがある。


“人生で一度だけ後悔をやり直せる場所”


麻子は息を呑んだ。

卒業式が中止になってから、胸の奥にずっと重たい石のような悔いが残っている。


──先輩に、きちんと「ありがとう」も「好きでした」も言えなかった。


麻子は受話器を取り、小さく呟く。


「……2020年3月31日」


学校が最後に生徒を登校させた日。

本来なら時間割どおりに授業があって、普通にお別れできたはずの日。


麻子は震える指でダイヤルを押した。


2……0……2……0……0……3……3……1……


呼び出し音の向こうで、

聞こえるはずのない“チャイムの音”が鳴った。


世界が一瞬白くなり、風が吹き上がった。


気づくと麻子は、見慣れたはずの校門の前に立っていた。

だが、そこには誰もいない。

校庭の桜だけが、満開の花びらを散らしていた。


(……ちゃんと戻ってきてる。2020年の3月31日に)


校舎の中は薄暗く、放課後の匂いが漂っている。


廊下にはポスターがそのまま貼られ、

黒板には「3年生のみなさん、卒業おめでとう」と書かれていた。


涙がにじむ。


(本当に……あの春はあったんだ。)


足を進めると、誰もいない教室の前で足が止まった。


そのとき。


「……佐倉さん?」


聞き覚えのある声が廊下に響いた。


振り返ると、そこにいたのは桐谷大地だった。


マスクを顎にかけ、教室の鍵を閉めようとしている。

髪が少し伸び、相変わらず眠そうな目をしていた。


「先輩……?」


「え? なんでいるの? 学校もう閉まってるよ?」


麻子は言葉を失った。

タイムスリップしたとは言えず、ただ俯くしかない。


「実は……伝えたいことがあって……でも言えなくて」


桐谷は少し戸惑った表情で近づいた。


「中止になったもんな、卒業式。

俺も、ちゃんとみんなに挨拶できなかったけど……

最後にもう一度だけ学校を見ておきたかったんだ」


麻子の胸に温かさが広がる。

“これが、もし本当に与えられた24時間なら──”


麻子は深呼吸した。


「私……先輩に、ありがとうって言いたかったんです。

2年間、ずっと背中を追っかけて……

先輩がいたから、学校が楽しくなりました」


桐谷は目を丸くし、ゆっくり笑った。


「……そうだったんだ。気づかなかったな」


麻子の心臓が跳ねる。


言ってしまうべきか?

言ってしまえば、何が変わる?


迷いが、胸で暴れた。


桐谷がポケットからスマホを取りだし、軽く掲げた。


「せっかくだし、最後に写真撮らない?

卒業式できなかったし」


麻子は驚いたが、うなずいた。


校舎を背景に並んで立つ。

桐谷がシャッターを押す。


カシャッ。


「……いい写真だな。

もし会えなかったら、これ誰にも見せずに思い出にするとこだった」


桐谷は照れくさそうに笑う。


麻子は勇気を振り絞った。


「桐谷先輩……ずっと、好きでした」


沈黙が落ちる。


桐谷はゆっくりと息を吸い、言葉を選ぶように答えた。


「ありがとう。それ……すごく嬉しいよ。

俺はすぐに引っ越すから、どうしても返事はできないけど……

君が話してくれてよかった。ずっと言えずに終わると思ってたから」


麻子の胸に、切なさと安堵が同時に広がった。


(これでいい。

言えてよかった。

言わなかったら、きっと一生後悔してた。)


桜の花びらが二人の間を舞った。


その瞬間、校庭の桜が強い風でざわめいた。


麻子の視界が揺れ、地面が遠ざかる。


(時間が……終わる……)


桐谷が驚いた顔で手を伸ばす。


「佐倉さん!」


手が触れる直前で、世界が白く途切れ─


麻子は電話ボックスに戻っていた。

夜の街は静かで、風だけが春の匂いを運んでくる。


震える手でスマホを開く。


写真フォルダに、ありえないはずの一枚があった。


2020年3月31日

「桐谷先輩と撮った卒業写真」


麻子は涙をこぼしながら、その写真を胸に抱いた。


(あの日、本当に私は自分の言葉を伝えられたんだ)


電話ボックスのガラスに映る自分に向かって、静かに呟く。


「これで前に進める。

もう、後悔しない」


春の風がそっと背中を押した。

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