第4話(1)
ドアにザハーリン公爵の紋章を飾った4頭立てのタウンコーチが、夕間暮れの帝都を、国立歌劇場を目指して駆けていた。
「このように2世代揃って出かけることができるのは感無量でございます。年甲斐もなく浮足立ってしまいますわ」
母夫人が声を弾ませながら言い、その隣の父伯爵が笑いながら「婿殿に心から感謝申し上げなければなりませんな」と頷き、父伯爵の対面に座したニコライが「恐悦至極に存じます」と上品ながらおどけて見せた。
この外出は、父伯爵の発案によるものだった。
本日上演の「金髪のヴィーナス」はソルトモーレ帝国では初演されてまだ間もないが既に話題作となっており、貴族・庶民ともに挙(こぞ)って切符を求めていた。
そのような熱狂の場であれば、訪問すべき家々も足を運んでいると期待が持て、開幕前や幕間などを利用して挨拶を済ませられるという算段であった。
逆に、このようなついでの機会の方が互いに気が楽であるし、父伯爵が公証長を継承した際もこのやり方を利用したとのことだったので、アレクサンドラは心安く委ねた。
観劇では、嗜みとしてニコライも当然同席となるが、その状況をごく自然に利用できると父伯爵は悪戯を企むように笑ったが、アレクサンドラは公証長という立場には臨機応変さが不可欠なのだと素直に学ぶ思いだった。
「サーシャはもしかすると華やかなる外出は久しぶりかな」
「華やか……そうでございますね」
出かけるのは公証の庁舎か貴族回りかというのが日常であり、純粋な職務ではない、華やかに装っての娯楽はいつ以来だったか朧げにも思い出せないほどだった。
結婚式の後こそオルロフの領地オルトと、ニコライが公爵領として与えられたサミュールに視察を兼ねて足を運んだが、それ以降と式前とを含めて、アレクサンドラに公証長が継承されることによる手続やら儀式やらで時間が埋まり、それらが済めば済むで今度は公証の実務的な職務に忙殺されていた。
今回の事件が起こらず、またアレクサンドラがもう少し経験豊かで職員の気心を十分に理解しているのであれば、たまに任せてプライベートな時間を作ることもできただろうが、今はとてもそのような采配は振れなかった。
ゆえにこのような、芸術的な娯楽に身を委ねられるのは嬉しく、合間に職務が挟まることも逆に一石二鳥だと父伯爵の思慮に感謝した。
「以前は、観劇などには出かけておられたのですか」
「ええ。幼い頃から積極的に連れて行っておりました。数としては演奏会の方が多かったでしょうか。百聞は一見に如かずと申しますから」
「そうですか。サーシャはこのような催しはお好きなのですか」
「ええ、書物で学んだものを体感できるのが嬉しゅうございます。書物上の評価と私の好みにずれが生まれるのも興味深く」
「なるほど。では今度はぜひ演奏会にも参りましょう」
夫が、義父母の前ではアレクサンドラに敬語を使うのを奇妙で面白いと感じていると、ニコライが2人に向かって
「しかし、妻がここまで深く物事に打ち込む性質だとは思っておりませんでした」
と言った。
「と仰いますと、公証のことでございますか」
「はい。今は非常に大変な時期だとは承知していますが、日がな一日公証のことを考えているのでは疲れてしまいます。もっと息抜きが必要だと思うのです」
「まあ、そんなに根を詰めているの?」
母夫人に問われたアレクサンドラは考えてみたが、確かに困難で厄介な問題にずっと悩まされてはいるものの、それは偏に自分の未熟さがゆえであり、根を詰めるのはやむを得ないとしか思われず、とりあえず「それが責務でございますから」と答えた。
母夫人は「そうなの。でもほどほどにね」と微笑み、父伯爵は「サーシャは昔から責任感が強いからな」と信頼を寄せたが、それを聞いたニコライが身体ごと彼女の方を向いて、
「しかし百日の労一日の楽と言うではありませんか。ぱっと無心になれる時間も作らなければ。私との時間、まあそうでなくとも構いませんが、義母上のようにご友人と茶話を楽しまれるなど、そういう時間も大切でありましょう」
と僅かに不服を滲ませて主張をした。
すると父伯爵と母夫人が一瞬顔を見合わせたかと思うと、父伯爵が機転を利かせて、「仰る通りですな。閣下は王宮ではどのようにお過ごしでしたか」と穏やかに話頭を切り替えた。
母夫人は不安そうにそれとなく娘を見つめており、アレクサンドラはどういう表情をして良いか困った。
アレクサンドラは、巻き戻った後、極度の引っ込み思案に性格が変わったせいで、母夫人に同行して他家を訪れるということを遠慮し続け、オルロフへの訪問者と交友を取り結ぶこともして来なかった。
生きることが罰だと思っていたかつてはそれが当然で、成人し、立ち直った今でも、他の夫人や令嬢達のようにサロンに足を運び親交を深めるということは頭に昇らず、それでも特に困ってもいなかった。
耳にして、そういう余暇の過ごし方があるのかと思う程度の薄い認識を得たに過ぎなかったものの、確かに友人、要するにニコライとM公爵のようなごく深い仲の者との交流が、鬱屈した気を紛らわせてくれるというのは悪くないように思われた。
そして、自分にはそのような存在がいないことで、例えば公証での務めや、ザハーリン公爵夫人として、未来のオルロフ女伯爵としての立場に支障が出るだろうか、そのような小さな不安が新たな悩みの種として、彼女の心に付け加わった。
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