2 笛子(2)
突然社長室に現れた彼女、五所川原笛子の口はかすかにしか動いていない。肉声ではない人工音声であることがわかるのだが、特に不自然さを感じない、聞き取りやすい女性の声である。
「あ、あの……今は社長の葬儀中でして、お寺の方へは?」
自分の声が上ずっているのを自覚しつつも、加藤洋子は答えた。彼女も聡明な女性で、目の前の客の美しく黒い瞳が何も写しておらず、先ほどの声も、首に巻いた銀色のチョーカーが声帯のかすかな震えを拾って音声化しているのだろうと推測した。
「ええ、わかってます。でもああいう場所は苦手なんです、私」
あまり慇懃とはいえない遠慮のない口調が続き、笛子の車椅子は当たり前のようにオフィスの中へと入ってくる。自分で操作しているのだろうか、あまり整理されているとは言えない入り組んだデスクの谷間をジグザグと移動しつつ、まっすぐに社長室へ向かった。目が不自由な人間が操作しているとはとても思えない動きである。
「あ、そちらは困――」
社長室だけは、そこから五所川原社長が飛び降りたと思われることから、警察が立ち入り禁止の黄色いテープを貼っていた。しかし車椅子は止まらない。笛子の白い右手が伸びて社長室のドアを開く。
「私はここで兄を悼みます。しばらく一人にしてもらえますか?」
機械の合成音声とはいえ有無を言わせぬ、しかし明るく柔らかい口調でそう告げられると、加藤洋子は了解するしかなく、ただ閉じられたドアを見つめ、
「社長に妹がいたんだ。……お茶は出さなくてもいいよね?」 などと考えていた。
笛子はひとり社長室にいる。
五階の社長室はそれなりの広さで、重要な編集会議などができるように中央に大きな会議机、窓際に社長のデスク、その横に簡素な応接セットが置かれている。あの最後の夜、矢倉健一と二人で語り合った場所である。一方の壁にはスケジュールその他、実務的な掲示物が一面に張り出されており、反対側は書棚、出入り口に観葉植物が置かれていたが、他にこれといった装飾品はなく、部屋の主の人柄が偲ばれた。大きな窓越しに品川のオフィス街が静かに雨に煙っている。一番端の窓だけが開閉可能で、そこから兄は身を空に投じたのだ。
車椅子に内蔵された三次元センサーは、見えぬ笛子の目に変わって、ある程度までの画像を笛子の脳内に送り込んでくれる。生まれつき盲目の笛子の脳は、本来経験のない画像イメージを結ぶことは困難なはずなのだが、特に幼い頃は、兄である弘の目を通してものを見ることができた。それにより「見る」というイメージが脳内に形成されたのだろう。成長するにつれて兄とのシンクロ能力は薄らいだが、代わりに機械の力を借りて脳内に画像を結ぶことができるようになった。
「見る」だけではない。「聞く」ことも「語る」ことも、五感のほとんどを兄を通して感じることで、幼い笛子は自分のものにすることができた。笛子の障がいは重く、いくら天性の霊能力に恵まれ、しかも高性能なメカニズムのサポートがあったとしても、兄の存在なくしてはここまで五感を体得することはできなかったろう。……その兄はもういない。ここで死んだのだ。視覚センサーは兄のデスク上に置かれた家族写真まで読み取っていた。どこで撮影したものか、兄が妻子と笑っている。
しかしこの時、笛子が見ているのは車椅子のセンサーを利用しない、彼女本来の「目」を使う画像であった。四日前の明け方、ここで何が起こったのか。時を超えて彼女の目はその場で起こったことを映し出そうとしていた。
兄には警告した。しかしその時、「それ」がここまでやるとは思わず、またその正体もはっきりせず、警告に徹底を欠いたことが悔やまれる。……いや、悔やまれるどころではない。涙を流したことのない、泣いたことのない笛子は、自宅でひとりわめき、吠え、自由に動く両手で、頭といい顔といい掻きむしって血だらけになった。今は化粧でごまかしているが、じっくり見つめれば顔中にひっかき傷が残っているのがすぐにわかる。車椅子が主人の異常を察して緊急コールを発し、執事の
結局、彼女が心の平静を取り戻すのにまる三日を要した。我に戻った笛子は、すぐに行動を起こす。
兄の仇を討つ。――相手が人外の何者であっても。
そもそも兄が余計な世話を焼こうとした後輩の矢倉健一。これに係わらねば兄は死なずに済んだのにと、怒りの矛先をそちらに向けたいところだが、それを兄は決して喜ばないだろう。矢倉健一とは何者か、なぜあのような禍々しきものを呼び込んだのか、それを明らかにしなければならない。――しかしまず、
笛子の目は、四日前の明け方、デスクに一人で座る兄の姿を見ていた。最後に会ったのは二年前だったか、さらに太ったように見える兄は何か書類に目を通しているようだ。亡き兄の姿を見ることの感傷をぐっとこらえて観察を続ける笛子。突然兄が立ち上がって周囲を見渡す。何か物音がしたのか、声がしたのか、目は音の記憶までは捉えきれない。
いずれにせよ何かの異変が起ころうとしていた。突然太った兄の体が窓際へ移動し始める。歩いているのではない、ズッズッと踏みしめた両足ごと引かれるように動いていく。兄は必死でその力に抗っているようだが動きは止まらない。その先に窓、当然施錠してあるはずだが、いつの間にかロックが解除され、人ひとり楽に通り抜けられる大きな窓がゆっくりと開く。兄は何が起きようとしているか悟ったようだ、何か声を発して助けを呼んだようだが、もちろん駆けつける者はいない。それでも更に激しく抗おうとするが、ついに上半身が窓の外に引きずり出される。両手で窓枠をつかみ、落ちまいと必死に抵抗する兄、しかしついに……
兄の姿が消え、誰もいなくなった窓、そして社長室の様子を、笛子はしばらく見ていた。
兄の最後の思考が伝わっていた。落ちる直前、兄は妻と息子のことを考えた、申し訳ないという謝罪の思いと共に。……笛子自身には兄嫁と甥であるこの二人に、特に何の思い入れもなかったが、ちらりと嫉妬に近い感情が心をよぎり、それが彼女の口元を緩ませた。
「私も、人間らしいところあるじゃない」
しかしそれも一瞬、厳しい表情に戻った彼女は社長室を後にする。オフィスでおろおろとしていた加藤洋子に、声もかけず会釈だけするとそのまま車椅子を走らせて廊下に出る。廊下には黒服に身を包んだ背の高い初老の男が待機していた。
「榊、矢倉健一に連絡を取って。至急彼に会いましょう」
続けて、「これ以上……」と言いかけて笛子はそのまま黙った。
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