2 笛子(1)

 五所川原弘の葬儀は、関東地方南部に梅雨入り宣言が出された雨の木曜日に行われた。不審死でもあり検死に時間がかかったのはやむを得ない。忠臣蔵で名高い高輪の泉岳寺にごく近い小さな曹洞宗寺院ではあったが、予想外に多くの会葬者が詰めかけ、葬儀を運営する社員達を慌てさせた。


 矢倉健一は、五所川原社長と死の直前まで一緒だったという事実は誤魔化しようもなく、任意で出頭した土曜から日曜にかけて品川警察署でかなり厳しく問いただされた。取り調べられたと言ってもいい。会社は小出版社とはいえ、例のベストセラーもあって経営は順調で問題はなく家庭も円満、つまり自殺の動機が見当たらないのだ。健一が疑われるのも当然だったろう。聴取するのは明らかに捜査課の刑事で、物腰は穏やかだったが、『お前が突き落としたんだろう』という心の声がありありと聞こえてくるようだった。当然五所川原との会話の内容を繰り返し問われたが、そこであの夜の話題をぺらぺら話すわけにもいかない。当たり障りない仕事関係の会話についてのみ幾度も説明し続けることしかできない健一には、刑事達を納得させるのは容易でないと思われた。

 夜になると明朝の出頭を約束させられて一旦帰宅を許されたが、これが何日続くのか、葬儀に出るために弁護士と相談する必要があるのか、などと考えて健一はすっかり憂鬱になる。本当なら自分のことより、恩人である五所川原の死を心から悼み、友人としてもその家族の支えとなるべき立場であったのに。


 しかし、健一がアパートに帰宅した直後、品川署から電話があり、明らかにヒラとは思えない肩書きの署員が、調べは終わったので明日はもう来る必要はない、と告げてきた。今になっていきなり何だと思ったが、どうも何かの理由で解放されたらしい。警察上層部にコネなどないはずの健一は不審に感じたが、すぐに同僚に連絡して葬儀の段取り等、状況を確認し、警察病院から葬儀社の霊安室に移されていた五所川原先輩の元へ駆けつけることができた。


 つい三日前に一緒に飲んだ五所川原が、冷たい骸になってそこにいた。シンプルな霊安室には香が焚かれ、健一と同じ時期に入社した若手社員、岡田啓介がただひとり、神妙な顔をして付き添っている。もう夜も遅く、親族は一度引きあげたらしい。変死ということで警察からストップがかかっており、通夜もこれからだそうだ。物言わぬ五所川原の顔を見ると、ここまではまるで涌いてこなかった感情が溢れ出し、ポロポロと涙が出だした。

「俺だ、俺のせいなんだ!」

 もちろんそれを声には出さないが、大の男が涙をぬぐいもせず泣き続ける姿は意外だったようで、岡田が黙ってお茶を差し出してくれた。そのまま折りたたみ椅子に腰掛け、しばらく遺体を見ていると、健一もようやく落ち着いてきた。岡田に尋ねてみる。

「奥さんの様子はどうだった? たけし君は?」

「突然すぎたからな、そりゃあ痛ましいものさ。お子さんの方はまだ三歳で、よくわからないようだったが……」

「そうか、で、他のご親族は?」

「奥さんのご身内が幾人か」

「先輩……いや社長の方はどうだ?」

「うーん、それは気がつかなかったな、もともと社長本人の親戚関係はあまりないと聞いてるけど」

それはもちろん私も知っている。しかし――

「親戚かどうかわからないけど、車椅子の若い女性は来なかった?」

岡田は少し考えて、答える。

「いや、他の社員が葬儀の準備に忙しいので、こちらにはずっと自分が付き添っていたけど、車椅子は見かけなかったと思う」

 頷きながら健一は考えていた。五所川原の妹、笛子が姿を見せれば目立たないわけがない。やはり外にはほとんど姿を見せていないのだ。


 雨の葬儀は静かにすすめられた。五所川原の人柄か、その人脈は、部下である我々が把握しているよりはるかに大きかったようで、各界の弔問客が続々と詰めかけ、あまり広いとは言えない寺の境内はすぐに一杯になり、その誘導と整理に社員は忙しく走り回るはめになった。

 喪服姿の細君が、幼い男の子と並んで座っている。いつもなら落ち着きなく走り回っている三歳のたけし君だが、この日は雰囲気に飲まれたのか神妙に母親の隣に座っていた。

 健一は二人の横顔を見ながら、幾度も「なぜ」と自身に問いかけるのだが、その謎を解くどころか、解こう思った矢先に、五所川原は命を奪われたのだ。答えなど見つけようがない。


 そんな中、官房長官と保守党幹事長からの献花があり、弔問客の目を引く。

「五所川原さんは政治向きのことにはかかわらない人だと思っていたが、意外に……」

 との囁きが、境内の各所で交わされていたが、五所川原から霊能力者の妹の話を聞かされていた健一には、腑に落ちる部分があった。

 しかしその「妹」は、最後まで葬儀に姿を見せることはなかった。


 葬儀が行われている頃、同じ品川の出版社オフィス。社主の急死でここ数日は大混乱だった。この日はさすがにほぼすべての社員が葬儀の運営と手伝いに寺へと出払って、オフィス内は静まりかえり、電話番として事務員の加藤洋子がひとり残っていた。社長とはいえ数日前に自殺者がでた場所に、たったひとりで留守番するのは薄気味の悪いものだが、加藤洋子は特に気にかけず、時折かかってくる電話の対応を無難にこなしていた。

 突然オフィスの入り口が開く。もちろん来客があることも想定内で、失礼のないように加藤洋子は立ち上がって迎えることになる。


 音もなく車椅子が入ってきた。――正確に言えば、たぶん車椅子だろうと加藤洋子は判断した。今まで見たことのないような卵形のデザインで、色もつや消しの銀白色である。車輪は極太小径のものが中央にたった一輪、それも本体の卵にほとんど隠されるようについているので、一見ただの白い卵形の椅子に見える。それが滑るように床を進む様子は、宙を浮いているようにさえ見えた。そこに若く美しい女性が座っている。薄紫のゆったりしたドレスに、喪章だろうか黒い大きなコサージュをつけている。

「こんにちは。私、五所川原弘の身内の者で、笛子といいます。妹です」

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