1 平成三十年 品川にて(2)
一時間後、二人は酔い覚ましに徒歩で鈴ヶ森まで戻る。出版社のオフィスは複合ビルの五階にあり、その社長室のソファで向かい合う。時刻はすでに深夜零時を回り、さすがに居残りの編集員もみな帰宅して他に人の姿はない。五所川原は社長室の冷蔵庫からアイスコーヒーのポットを出すとグラスに注いでくれた。
「さて、ここからは妹の話になるので、あまり人に聞かれたくない」
「先輩とは、短くないつきあいですが、確かに妹さんのことは聞いたことがなかったと思います」
「俺がその話題を避けていたからな。しかし今回の件は彼女抜きでは進められない、……と思う」
「先ほど話してましたね。妹さんは霊能者なんですか?」
「そういうことになる。マスコミに騒がれるような外向きのことは一切しないので、世間にはまったく知られていないが、秘密を守れる人間だけが紹介され、妹に仕事を依頼してくる」
「紹介され……とは?」と、つい口を挟んでしまう。
「そこは聞くな。身のためだ。」ここは踏み込めない領域のようだ。
「はい。で、先輩はその妹さんに私のことを相談すると……しかし――」
「ああ、心配するな、金はいらない」
「でも、それを生業にしているのでは」
「そうなんだが……実はさっき電話があった」
居酒屋を出る直前の着信はそれだったのかと納得する健一。
「あ、あれは妹さんから――」
「えらい剣幕で叱られた。兄様、いったい何に係わったの!ってな。どうやら俺がお前から見えたものが、俺を通して妹にも伝わったらしい。腹違いだが血縁ってやつか。――それで、このままだと俺の命の方が危ないそうだ」
五所川原は笑って見せたが、その表情には真剣さがあった。健一は言葉が見つからない。ただ唖然と先輩の話を聞くしかなかった。
「やはりお前の感じていた恐怖は本物だったらしい。……まあ、そんなこんなで仕事抜きで会ってくれることになった。もちろん何かわかっても、妹の存在については記事にも本にもできないけどな」
「わかりました。――それで妹さんは?」
「都内に住んでいる。ここからそう遠くないが、今日はもう遅いので、明日一緒に行 こう。ああ、妹の名前は五所川原笛子という」
「ふえこ、さん……」
「年はまだ二十二、いや三か、ああそうだ健一、――お前手話できるか?点字は?」
「え?、いや手話も点字もわかりません」
「先に話しておくが、実は笛子は重度の障がい者だ。生まれながらでな。目も見えな い、耳もほとんど聞こえない、そして話せず、歩けもしない。かろうじて手だけが何とか動く」
「そんな! それでよく――」
「神様ってのは何かを取り上げると、何かを与えてくれるのかな。中学生の頃そう思った」
「何かあったんですか?」
「まだ二歳のあいつが、見えないはずの目でテレビを見ていた」
「い、意味がわかりませんが」
「隣に座っていた俺の目を通して普通にテレビを見てたんだ。俺がテレビから目をそらすと見えなくなったと泣き出すのさ。おかげで彼女が飽きるまで一年以上“おかあさんといっしょ”を見る羽目になった」
「そいつはすごい。ビジュアル的には少々笑えますね」
「言うな。……まあ今はあいつの車椅子がほぼ完全にサポートしているので、コミュニケーションに手話も点字も必要ないだろうが」
「車椅子?」
「ああ、あれはすごいぞ。周囲の音は集音して耳の超小型補聴器に送り、本人の声は、かすかな舌と口の動き、声帯の震えを読み取って瞬時に合成音声とするので、健常者とも不自由なく会話ができる。視力もカメラで読み取った画像をイメージとして脳に直接送ってくる。ほとんどの五感機能をサポートするAI車椅子。……何でも近い将来、障がい者が宇宙でもハンデなく活動できるように、NASAが開発した技術を惜しげもなく投入したらしい。さっき妹から着信があって叱られたといったが、実際は彼女の車椅子を通してメールが来たわけだ」
「そんな技術が実用化してるんですか?私は詳しくないですが、それでもとんでもないテクノロジーだという事は――」
五所川原は手を振って健一の言葉を遮った
「いや、これは実用化なんて話しじゃない。今、笛子がその機能を使いこなせているのは本人のずばぬけた霊能力があってこそだそうで、現時点ではとても一般使用に耐える代物ではないようだ。
笛子本人は自分に投入されている技術が、将来実用化、一般化され多くの障がい者の助けになることを強く望んでいて、自分のデータはその車椅子を通して日米の研究機関に提供している。だから椅子の莫大な維持費の大部分がそちらから出ているわけなんだが」
「やはりかなりかかるんですか?」
「ああ、ワンオフの特注品で一台が十二億もするそうだ」
「じゅ、十二億の車椅子?」
「まあ、言ったように維持費はあちら持ちだし、それは別にしても笛子は金持ちだからな」
「……霊能力者ってそんなに稼ぐんですか?」
「詳しくは知らないが、先日中国から来た依頼は相手方から一億、日本政府から一億が別々に振り込まれていたな。笛子は二週間中国へ行っていた。何をしてたかは聞いてないが」
「なぜ日本政府が?」
「彼女の能力を貸し出す見返りが相手国からあるからだろう」
そういえば、最近日本政府は貿易交渉で中国から大幅な譲歩を引き出していた。手柄顔にテレビで話す総理大臣のにやけた表情が思い出される。
五所川原先輩の妹、五所川原笛子の能力は本物のようだ。その彼女が危ないと警告する今の自分と五所川原先輩の状況はどれほどのものなのか、あらためてじわじわと不安が沸き上がってくる健一だった。
少し片付けておきたい仕事があるからという五所川原を社長室に残して、健一がタクシーで自宅のアパートに戻った時には、すでに夜が白み始めていた。酔いはだいぶ醒めていたが、そのまま着替えもせずにベッドにころがり、ここでは例の風景に苦しむこともなく深い眠りに落ちたのだった。
その眠りは数時間で破られる。けたたましい携帯の呼び出し音に起こされて時間を確認すると午前十時過ぎ。会社からの着信だ。今日は土曜のはずと電話に出ると、同僚の切羽詰まった声が飛び込んでくる。
先輩――五所川原弘社長が、五階社長室の窓から飛び降りたのだ。
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