雨を掃く紙
木工槍鉋
旧校舎リノベ調査記録
旧校舎の玄関扉を押すと、湿った木の匂いが鼻をついた。
五月の長雨が染み込んだ廊下はまだ薄暗く、棚の上のガラス瓶から雨滴がひとつ、ぽたりと落ちた。
ここをワーキングスペースにするためのリノベーション調査。それが私の仕事だった。
築百年を超える木造校舎は、耐震補強と断熱改修が必要だ。まずは建物の状態を隅々まで把握しなければならない。
天井裏へ通じる梯子がきしむ。小さな窓からわずかな光が差し込み、梁に積もった埃が銀色に光って見える。
静まり返った空気の中、古い木材の匂いと、濡れた土の匂いが静かに混じり合っていた。
懐中電灯を当てながら進むと、光の端で何かが揺れた。
近づくと、梁に白い紙が引っかかっている。
丸くない頭、棒のような体、小さく描かれたほうき。掌に収まるほどの小さな紙人形だった。
墨の線は細く、どこか人の気配を感じるほど丁寧な筆致だ。
「…掃晴娘(サオチンニャン)?」
中国・唐代の文献に見られる、雨を掃き晴れを願う紙の娘。てるてる坊主の起源と言われている。
なにかで読んだ記憶がふと蘇った。
屋根と外壁の取り合い。構造上、最も雨漏りしやすい箇所に掃晴娘の人形はあった。
私は紙人形を慎重にポケットに入れ、その場所をカメラに収めた。
三日後、別の教室の天井裏を調査していると、また紙があった。今度は二枚。
やはりその下の木材は湿気で変色し、かすかにカビの匂いがする。雨漏りの初期症状だ。
「この紙人形、ここらの文化にはないですよ」
校長は首を傾げた。「てるてる坊主なら分かりますけど、こんな形は初めて見ます」
「誰かが最近入った形跡は?」
「ありません。天井裏の入口は施錠してありますし、鍵は私が管理しています」
私は天井裏の構造を見て回った。
風の流れ、湿気の動き、空気の対流……自然に落ちたと考えることもできる。
だが紙は妙に新しく、墨もにじんでいない。湿気の多い環境で、これほど綺麗な状態を保てるだろうか。
そしてなぜ、どの場所も必ず“構造の弱点の真上”なのか。
その夜、大雨が降った。予報では明け方まで続くという。
心配になって校舎へ戻ると、冷たい湿気が天井裏に満ちていた。
雨音が屋根を叩き、古い木材がかすかに軋む。
懐中電灯を照らしながら進んでいると、息を呑む。
一枚の紙が、宙に浮いていた。
風にあおられるでもなく、何かに吊られるでもない。
ただ、ふわりと止まっているように見えた。いや、正確には空気の流れに乗って、ゆっくりと舞っていた。
次の瞬間、吸い寄せられるように、弱った梁の真上にすとんと落ちた。
この校舎は長年の雨風で、空気の流れに独特の癖ができている。
湿気を含んだ空気は重くなり、下降気流を生む。その流れが、まるで弱点を示すように紙を運んでいるのだ。
雨を掃く娘。
雨の道を知らせる紙。
千年以上前の文化と、百年を超えた木造校舎の癖が、偶然にしてはあまりにも美しく響き合っていた。
翌朝。雨上がりの校舎は、まるで眠りから覚めたように明るかった。
窓ガラスに残った雫が朝日を反射し、廊下に小さな虹をつくっている。
「変わった紙ですよね」
校長が拾い上げて笑った。「ワーキングスペースになっても飾れたらいいのに」
私は微笑んだ。
「飾りましょう。ただの紙じゃありません。
建物と雨と風が、「ここが弱いよ」と教えてくれた印なんです。掃晴娘の意味そのものですよ」
「雨の行方を読むための紙。この校舎は、百年のあいだでそういう風に“できてしまった”みたいです。
空気の流れが弱点を教えてくれる。まるで、建物が自分の体調を教えてくれているようでしょう?」
校長はくすっと笑った。
「じゃあ、この紙人形は……建物からのお手紙ですね」
その言葉が妙に可愛らしくて、胸があたたかくなった。
私はそっと紙を光に透かした。
雨上がりの光に照らされて、紙の端が柔らかく光った。
ほうきを描いた墨の線が、どこか微笑んでいるように見えた。
これを新しいワーキングスペースの壁に飾れば、訪れる誰かがふと足を止めて、「この建物、なんだか生きてるみたいだね」と笑う日が来るかもしれない。
「掃晴娘さん。次の百年も、この場所を見守ってね」
紙人形は、朝の風にふわりと揺れ、まるで返事をするように光を返した。
私はそれを大切にファイルに挟み、調査報告書の最後のページにそっと添えた。
雨を掃く紙 木工槍鉋 @itanoma
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