第33章 僧侶、転職する。

冬の終わりが近づいていた。

凍てついていた山道に水が流れ、森の奥から小鳥の声が戻り始めている。

長く続いた寒気が和らぎ、村にもようやく春の気配が漂いはじめていた。


そんな折、僧侶リオンが言った。


「……俺、戦士になりたい。」


唐突だった。

だが、その声には迷いがなかった。


リオンは、この世界に来た時、神殿に保護され、そして、僧侶になった。

以前、リオンからそんな話を聞いたことがある。

神官たちに教えられるままに祈りを覚え、癒しの術を学び、

気づけば「回復役」としてパーティに加わっていたのだという。


けれど、本当は――剣を握りたかったのだ。


「俺、戦うのが怖いわけじゃなかったんだ。

むしろ、剣を振るう奴らが羨ましかった。

でも、あの時、神殿に拾われて……気づいたら僧侶になってた。」


リオンは静かに笑った。

けれどその瞳には、ずっと押し殺していた炎のような光が宿っていた。


「魔法も使える戦士になりたい。

だから、しばらく戦士の村で修行したいんだ。」


以前からリオンが時折見せるマッチョイムズには、

こういう背景があったのか。。


「どれくらいかかる?」

レオが問う。


「一年……いや、それ以上かもな。」


僧侶が抜ければ、回復も援護もなくなる。

戦力は確実に落ちる――誰もがそれを理解していた。


けれど、反対する者はいなかった。

それどころか、皆が穏やかな笑みを浮かべていた。


「行ってこい。お前が剣を握りたいなら、それでいい。」

レオの声は短く、それでいて温かかった。


俺は頷いた。

「《リンク》で、回復はある程度補える。……安心して行け。」


ルナが肩をすくめて笑った。

「お前らしい決断だ。後衛は、俺とマイトがいる。心配するな。」


リオンは照れくさそうに笑い返した。

「悪いな、ルナ。」


その会話を聞きながら、俺はふと思った。


――きっと、あの“大熊刈り”がきっかけだったのだろう。

あの戦いでリオンは、自分の拳で熊を打ち倒し、仲間を守った。

あの瞬間、彼の中で何かが決定的に変わったのだと思う。

癒しの術に加え、戦いの力をも手に入れようとしている。

自分の生き方を、まるごと作り変えるようなものだ。


リオンは深く息を吐き、目を閉じた。

「ありがとう。……絶対に強くなって帰ってくる。」


その日、春の風が吹いた。

リオンは背に荷を負い、馬車に乗って静かに街を出た。

雪解けの小道を走り去る車輪の音を聞きながら、

俺たちはしばらく誰も言葉をかけられなかった。


――戦士になるために去っていく僧侶。

その背中に、俺は不思議なほど清々しさを感じていた。


リオンが街を出てから、もう数日が経った。

朝の宿の食堂には、まだ彼の笑い声が残っている気がした。

誰かが席を立つたび、無意識にあの姿を探してしまう。


――僧侶から、戦士へ。


それは、まるで別の人生を選ぶような決断だ。

俺は暖炉の火を見つめながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。


転職――。

それは、俺にとっても他人事ではない言葉だった。


俺は元の世界でのシステムエンジニアの暮らしを思った。

画面とコードに囲まれ、夜中までバグと格闘する日々。

時に理不尽な要求に疲れ、何度も「辞めたい」と思ったこともあった。

それでも、結局は踏み出せなかった。

新しい世界に飛び込む勇気が、なかったのだ。


環境が変わること。

肩書が変わること。

それはつまり、これまでの自分を手放すことでもある。

どれだけ不満があっても、“今の自分”にしがみついてしまうのが人間だ。


――そう考えると、リオンの決断は本当にすごいと思う。


癒しの術に加え、戦いの力をも手に入れようとしている。

自分の生き方を、まるごと作り変えるようなものだ。

勇気という言葉では足りない。

それは、覚悟だ。


「転職」という言葉には、どこか現実味のない響きがある。

だが、実際のところ、それは“人生の再設計”にほかならない。

失うものもあれば、得るものもある。

何より、それを“自分の意思で選ぶ”ということが、どれほど大変か。


俺はふと、冷えたマグカップを手に取り、呟いた。

「……リオン、すげぇな。」


炎の向こう、仲間たちの笑い声が聞こえる。

けれど俺の胸の奥では、別の小さな炎が灯っていた。

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