第17章 眠れる肉体
麻衣子さんとの食堂ランチから、数日が経った。
春の名残をわずかに残す風が病院の庭を抜け、
桜並木は青葉に覆われている。
兄さんの看病を続けるうちに、私はある“違和感”に気づいた。
兄さんが倒れてから、半年以上が過ぎている。
入院当初は医療用ベッドに寝たきりのまま、
機械に囲まれて静かに息をしていた。
それは、いまも変わらない。
――変わらないはず、だった。
なのに、最近の兄さんの身体はどこかおかしい。
やせるどころか、むしろ引き締まっている。
点滴で栄養を摂っているだけの兄さんの体に、
どうしてこんな変化が起きるのか――。
私はすぐに、麻衣子さんに報告した。
「……よく気づいたわね、キララ。」
診察室で兄さんの身体を観察しながら、
麻衣子さんは静かに息をついた。
「日々世話をしている家族でなければ、気づけない変化よ。
本当に、あなたはよく見ている。」
その言葉には、私への素直な敬意が感じられた。
「でもね……これは、医学的には説明がつかないの。」
「え……?」
麻衣子さんは、カルテを閉じて語り出した。
「通常、意識不明で長期間寝たきりになると、
筋肉は急速に衰えていくの。
数週間もすれば、体を支えるのも難しくなって、
半年も経てば、体つきはすっかり細くなってしまう。
それが普通の経過よ。」
「でも兄さんは……」
「そう。むしろ引き締まっている。
これは本来、考えられないこと。」
麻衣子さんは少し考えてから、
やわらかい声で続けた。
「……キララも知っての通り、寝たきりの患者さんにはね、
“動かないことで壊れていく体”を守るためのケアが必要なの。
床ずれを防ぐために体位を変えたり、
関節が固まらないように手足を動かしたり。
呼吸や排泄の介助も欠かせない。
これを怠ると、体はどんどん弱ってしまう。」
麻衣子さんは少し間を置いてから、
机の上の模型を手に取り、筋肉の部位を指で示した。
「筋肉が増える仕組みは、基本的には“破壊と再生”なの。
運動によって筋繊維に微細な損傷が起き、
それを修復する過程で、より太く、強くなる。
この繰り返しで筋肥大が進むのよ。」
「でも、兄さんは動いていないのに……?」
「そう、だから不思議なの。
本来なら筋肉は使わなければ信号が途絶え、萎縮する。
けれど、もし脳が――眠っている状態のまま、
“筋肉を動かせ”という指令を出し続けていたら?」
私は息をのむ。
「脳が、夢の中で……トレーニングしてるってこと?」
麻衣子さんはかすかに笑みを浮かべ、首をかしげた。
「理屈では説明できないけれど、
もしも意識の奥で、本人が“運動している”と強く信じていれば、
脳は実際に筋肉を刺激してしまう可能性があるわ。
イメージトレーニングで筋電位が上昇するという実験報告もあるの。
それが持続的に起きているとしたら……
理論上は、筋力維持どころか、強化もあり得る。」
麻衣子さんの言葉を聞きながら、私は改めて兄さんの状態の異常さを実感した。
家族として、私は毎日のケアに関わってきたけれど、
兄さんの身体はその「人の手による維持」以上に、
まるで“自ら動いている”かのように整っている。
ふと、私は別のことを思い出した。
そういえば――
兄さんと同室の獅子さんも、少し不思議だった。
初めて見たとき、彼の身体はがっしりとした体つきで、
長年スポーツをしてきた人のような、無駄のない筋肉をしていた。
病院の患者衣の上からでも、それははっきりわかるほど。
最初は、まだ寝たきりになって日が浅いのだと思っていた。
けれど、気づけば彼も、もう数か月この病室で過ごしている。
それなのに――その体型が、まったく変わっていない。
そんなものか、と当時は深く考えなかった。
でも、今考えると――おかしい。
寝たきりで、筋肉があのまま維持されるなんて。
兄さんだけでなく、獅子さんにも“何か”が起きている。
私は寒気を感じながら、
兄さんの静かな寝顔を見つめた。
麻衣子さんの言葉が、頭の奥で反響する。
「……まるで、夢の中でトレーニングをしているみたいね。」
その冗談のような一言が、
私の心の奥に、小さなざわめきとなって残った。
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