ナナシの土地に関する報告
文月余
第1章 アサノ村ト神社
第1話 村史
2025年8月初旬、私は図書館にいました。
大学時代に民俗史を専攻していた私は、社会人となってからも、休日には決まって近隣の図書館に通い、各地の伝承や神話、風習の記録を読み漁るのが趣味となっています。
そして、ある程度情報が得られると、今度は実際にその土地を訪れ、自らの足で歩いてみます。
不思議なことに、前提知識を持って風景を眺めると、これまでと同じ景色であっても、まるで違って見えます。日常なら見過ごしてしまうようなもの。たとえば、住宅街にひっそりと佇む石碑や史跡、交差点の片隅で苔むす石仏なども、静かに語りかけてくるように感じるのです。
私が住む近畿地方は、特にこういった伝承や風土に関する記録が多いので、好奇心が尽きることはありませんでした。
今ではネットでも様々な情報を拾えますが、こうした情報はネットに出ることは少なく、図書館の蔵書が1番の情報源であったりします。
その日、私は朝から電車に揺られ、Y県にある図書館まで足を伸ばし、自分の興味を誘うような本がないか探していました。
ですが、この図書館にもかれこれ半年近く通っているせいか、蔵書されている郷土資料はほとんど目を通し終えてしまっているらしく、残念ながらその日、新しい発見はありませんでした。
「そろそろ別の図書館まで足を伸ばそうか…」
そう思いながら、その日は図書館を出ました。時計を見ると、まだ正午を少し回ったくらいでした。うだるような暑さの中、私は家に帰ろうと図書館の最寄駅へと歩き出しました。
その道中、一軒の古本屋が営業していることに気がつきました。
商店街や旧道沿いでよく見かける、2階部分が住居になっているような、いかにも個人経営といった佇まいの小さな店舗です。この図書館に通うとき、今まで幾度となく前を通り過ぎていたので存在は知っていたのですが、いつもシャッターが降りており、てっきりもう店をたたんでいるのだと思いこんでいました。
まだ帰宅するには早い時間だったので、「これも何かの縁だ」と思い、何となく立ち寄ってみることにしました。実際こうした古本屋で、見たことのない郷土史を見つけることも何度かあったので、ほんの少しの期待もありました。
古いガラス戸を開けて中に入ると、図書館とはまた違う、古本屋独特の匂いが鼻をつきました。六畳ほどの狭い店内には、日焼けした古い小説やエッセイ本が所狭しと並んでいます。店主の趣味なのでしょう。好きな人にとってはたまらない空間なのかもしれませんが、私はあまり小説を読みません。見たところ、今の私が求めるような本はなさそうでした。
「これは期待薄かな」と思い、ひと通り店内を見渡して店を出ようとしたその時――
一冊の薄く古びた書物が目に留まりました。
タイトルは『アサノ村史』。
聞き覚えのない地名でした。近畿圏の古い地名はおおよそ頭に入っているつもりでしたが、その名は初めて見るものでした。
「遠方の村の記録…かな」と、私はさほど期待もせずに手に取りました。
ですが、ページを一枚めくり、冒頭の紹介文に目を通したとき、私は思わず息を呑みました。
本村ハ、Y県伊里斐郡ニ属ス。四方ヲ緩丘ニ囲マレタ小盆地ノ一隅ニ所在セリ。中央ヲ細流貫流ス。古ヨリ農ヲ主トス。明治二十二年町村制施行ニヨリ、周辺八村ト合シ伊里斐村ヲ発足、コレヲ以テ廃止トナル。
間違いありません。書物に書かれていた場所は、私が今いるY県にある
伊里斐市は、いくつかの村が合併して成立してできたものだと記憶していました。ですが、これまで数多くの郷土資料や古地図を目にしてきた中で、「アサノ村」という名を見聞きしたことは一度もありませんでした。
私は狐に摘まれた気になりながらも、次のページを開きました。そこには、当時の村域地図が示されていました。ですが、村の場所を特定するような周辺地名は入っていませんでした。
少し残念に思いましたが、もし本当にこの場所が現在の伊里斐市の一部であるのであれば、かつての痕跡が、今もどこかに残っているはずだと、ふと思ったんです。
そう考えた私は、店内で良くないと思いつつもすぐにスマートフォンを取り出し、掲載されていた当時の地図と現在の地図を照らし合わせ始めました。
この市はそれほど大きくありません。きっとすぐに見つかるだろう――そう考えたのです。
しかし、思いのほか見つかりません。
時折、お店の方からの痛い視線を感じつつも探し続け、10分ほど経った頃、ようやく地形の手がかりを見つけました。
かつての面影は大きく失われていましたが、かすかに残る稜線や川の流れが現在の地図と重なっていく感覚は、なんとも形容しがたかったです。
――そこは、伊里斐市旭ヶ丘地区。
村史によれば、当時は周囲を山に囲まれた地形で、わずかな平地を中心に民家が点在するように建ち並ぶ集落であったといいます。
しかし、現在の地図が示すこの場所は、山林は開かれ、整然と区画された住宅街が広がっています。今や関西有数のベッドタウンとして人気のこのエリアに、かつて村が存在していたことを知る者は、もはやほとんどいないでしょう。
私はその瞬間、確信しました。
これは、素晴らしい掘り出し物に違いない――と。
まだ半信半疑でありながらも、ためらうことなくその古本を購入した私は、意気揚々と店をあとにしました。
そのときはまだ、まさかこの本がきっかけで事件に巻き込まれることになろうとは、夢にも思ってもいませんでした。
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