第十七章:喪とメランコリー

夢を見ていた。

それはただの映像ではなく、痛みだった。


彼の名前はカール・グスタフ・ユング。

若く、聡明で、鋭い眼差しを持つ男だった。


「君の“集合的無意識”という考えは興味深い。

だが、それでは“欲望”の根が見えなくなる」


「あなたこそ、“性欲”ばかりにこだわりすぎだ、フロイト」


鋭い舌戦。何度も、夜が明けるまで議論した。

ユングは、わたしの後継者だと思っていた。

信じた。預けたかった。


でも、それは幻想だった。


「あなたは、父を絶対化しすぎた。

無意識とは、もっと普遍的であなたの影ではない」


その言葉が、胸を裂いた。

まるで息子に否定されたような錯覚。


場面が変わる。


足音が石畳に響く。

ウィーンの街。かつて学び舎とした病院。カフェ。講堂。


「ユダヤ人は出て行け!」「精神分析など反道徳的だ!」


罵声が降ってくる。

わたしは、理解されなかった。


無意識の構造。夢の意味。転移の現象。

すべては“破廉恥”だと、否定された。


「私は……私は真実を語っているだけだ」



そして

ナチスが来た。


黒服の軍靴。燃やされる本。押収された診療所。


「あなたの出国を許可します。

だが、ご家族すべてを連れては行けない」


「私の娘を……アンナを傷つけるなら、全て失っても構わない」


一夜で決めた。

ロンドンへ。亡命者として。


さらに、場面は暗転する。


鏡の中。痩せ細った顔。腫れた頬。

口元を押さえる。出血が止まらない。


「喉が……喉が、焼けるようだ……」


上顎癌だった。

何度も手術した。口腔の一部は失われ、会話すら苦しかった。


食べられない。話せない。

眠れない。


傍にいるのは、主治医のマックス・シュール。


マックスは黙って頷いた。


注射器が差し出される。

白い、冷たい、ガラスの器具。



その時だった。


現実の光が、まぶたの裏に差し込む。


呼吸が、浅い。


心臓が早鐘を打つ。


「っ……!」


シグちゃんは目を覚ました。

全身が汗で濡れていた。


「夢……ちがう、ちがう……あれは、“記憶”……」


自分が見たもの。感じた痛み。

すべてが、どこかで実際にあった出来事のように思える。


「……ユング……アンナ……ロンドン……マックス……」


ひとつひとつの名前が、確かに“知っている”という感触をもって、

胸に戻ってくる。


彼女はそっと唇に手を当てた。


あの癌の痛みは、現実にはないはずなのに、

今もまだ、舌の奥に“痺れるような痛み”が残っている気がした。


そして、

扉の向こうから、お兄さんの足音が聞こえてくる。


シグちゃんは、そっと自分の胸に手を当てた。


「……わたしは……誰?」


いや、問いの形を変えよう。


「……“あの人”の続きを、わたしは生きているの?」


その答えを出すには、まだ少し、時間が必要だった。

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