第十六章:記憶という名の洪水
「なあ、ちょっと話、いいか?」
休日の朝、リビングにはいつもと違う静けさがあった。
食卓の上、湯気を立てるコーヒーの香りが、落ち着いた空気に溶けていく。
シグちゃんはソファに座り、薄い本をめくっていた。
その目は真剣で、読んでいるのはたぶん哲学書か何かだ。
「昨日、夢を見たんだ」
「夢?」
「うん。精神分析の学者たちが、順番に目の前に現れてさ。
アンナ・フロイトとか、アドラーとか、ラカンとか……知ってるか?」
シグちゃんはその名前を聞いた瞬間、ぴくりとまぶたを動かした。
「……聞いたこと、ある気がする。
でも……どうして?」
「それがさ、あまりにリアルで。
まるで講義を受けてるみたいだった。
そして最後に、お前が現れて、“夢は欲望の変装”って言ったんだ」
その一言に、シグちゃんは本を閉じた。
「“夢は欲望の変装”……それ、誰かの理論。たしか……」
俺はポケットからスマホを取り出した。
「ジークムント・フロイトって名前、知ってるか?」
「……っ」
画面に表示されたWikipediaのページ。
タイトル:「ジークムント・フロイト」
冒頭に書かれている簡単な生涯の記述。
精神分析学の創始者。無意識の理論。夢判断。“エス・自我・超自我”
「ちょっと、見てみる?」
シグちゃんは戸惑ったように視線を落とし、
そっとスマホを受け取った。
その目が、ページを追い始める。
「1856年生まれ。ウィーンにて活動。ナチスの台頭によりロンドンへ亡命」
「精神分析学の父。夢判断により無意識の研究を進めた」
「妻マーサ、そしてその妹ミンナとの関係……」
「娘アンナ・フロイトは、自我心理学を発展させた」
「…………」
シグちゃんの手が震えはじめる。
呼吸が、浅くなる。
「……やめようか?」
「……ちがう……わたし……わたし、この文章……知ってる。
わたしが、わたしについて書かれたものを……今、読んでる……」
その瞳が細かく揺れはじめた。
「誰かが、わたしを定義してる。生い立ち、思想、失敗、批判、
愛した人の名前、別れた人、……浮気のことまで。全部、“事実”として、
ここに書かれてる……」
ページをスクロールするたび、断片だった記憶が繋がっていく。
父との誓い。アンナのこと。自分の理論を否定された痛み。
そして“ミンナ”の名前が見えた瞬間。
「やめてっ」
バン、と音がして、スマホがカーペットに落ちた。
シグちゃんは頭を抱え、立ち上がろうとするも、よろけて
「シグちゃん!?」
倒れるように、そのままソファに崩れ落ちた。
「おいっ……!」
顔は青白く、口元はかすかに動いている。
「……アンナ……ユング……いや、ちがう、わたしは、あれは、わたしじゃ……」
混線した言葉が、うわ言のように漏れた。
まるで過去の断片が一気に逆流し、
小さな器に注がれた“記憶”が、耐えきれずあふれているようだった。
俺は慌てて毛布を引っ張り出して、そっと身体にかける。
「……ごめん。無理させた……」
でも
ここにいるこの少女は、ただの“謎の子ども”なんかじゃない。
たぶん俺は、
“百年前の記憶を抱いたまま生まれ直してしまった誰か”と一緒に暮らしている。
それがどんな意味を持つのか、今はまだわからない。
でも少なくとも、彼女が“ひとりで全部思い出す”必要なんて、ないはずだ。
だから俺は、手を握った。
震えていたその手を、静かに、包み込んだ。
「……大丈夫。ゆっくりでいい。
思い出したくないなら、思い出さなくていい」
彼女の唇が、ほんの少しだけ動いた。
「……ありがとう、お兄さん……」
それは、現実と記憶の間にある、たった一つの言葉だった。
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