第十五章:夢の中の精神分析講義

夢の中だった。


でも、ただの夢じゃない。

それは「何かが流れ込んでくる」ような、そんな感覚。


俺は、教室のような場所に座っていた。

前方には黒板があり、白衣を着た誰かが講義をしている。

……いや、違う。これは大学じゃない。むしろ


精神の奥底で、「記憶ではない記憶」を“追体験”させられているような感覚だった。


「自我が防衛するそれは“欲望”と“現実”の間で揺れる境界だ」


最初に現れたのは、アンナ・フロイトだった。

白い服。整った髪。落ち着いた口調で“自我心理学”を語る。


「父の理論に、私は“適応”を持ち込んだの。

防衛機制は単なる逃避ではなく、現実への適応のかたちよ」


場面が切り替わる。


次は、少年の顔をした老人エリク・エリクソン。


「アイデンティティの確立は、発達の中で最大のテーマだ。

幼児期から青年期、老年期まで、人間は“自分とは誰か”を探し続けるんだよ」


その後も、場面はくるくると変わっていく。


「全ての問題は“劣等感”の補償行為で説明できる。

人は“優越への意志”を持つ存在だ」


「出生のトラウマが、すべての出発点だ。

人間の自由意志は、無意識から切り離せない」


「“他者の言葉”が主体を規定する。

“欲望の他者”こそが、精神の構造を支配する」


「分析家とは、患者の“共感的反響”を受け取る鏡である」


「転移とは、記憶の再演であり、欲望の投影である。

分析家は、そこに耐えなければならない」


まるで、世界中の精神分析家たちが、俺の“夢”という講堂で一斉に語り出している。


ノートもとっていない。勉強もしていない。

それなのにすべて、理解できていた。


“言葉”じゃなく、“感じ”として、頭に、心に、しみ込んでくる。


そして夢の終わり。


あの小さな背中が、教壇に立っていた。


髪を後ろで結い、白いワンピース姿のシグちゃん。

でもその瞳は、まっすぐで、どこか“教える者”のそれだった。


「夢とは、欲望の変装よ。

人は、意識では決して向き合えないものを、

夢の中でこっそり演じる。……これは、わたしが書いた理論」


「……フロイト……?」


その名前を呼んだ瞬間


俺は目を覚ました。


~~~


朝の光がまぶしい。

時計を見ると、まだ6時前。


隣の部屋では、シグちゃんがいつものように、鏡の前で身だしなみを整えている気配がする。


でも俺の心は落ち着かない。

いや、静かに確信してしまっていた。


「……まさかな。……でも、そうとしか思えない」


彼女がたまに見せる、“あの語り口”

感情より構造を先に見るような論理性。

夢や無意識に対する異常なまでの関心。

そして父との誓い、忘れられた何か、浮気への曖昧な記憶……


「……シグちゃん」


「ん? おはよう」


「……お前、本当に……誰なんだ?」


彼女は、鏡の向こうから目を合わせた。


「……さあ」


答えになっていない。

でも、その言葉の重さだけが、なぜか胸に深く響いた。


俺は確信していた。

この少女シグちゃんは、きっとジークムント・フロイトの生まれ変わりだ。


けれどその確信は、なぜか怖くなかった。



その日の朝食は、なぜかとても静かだった。

言葉は交わさなかったけれど、

それ以上の何かが、そこにはあった。

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