第十四章:メナージュ・ア・トロワ
その日、シグちゃんは珍しくテレビの前に座っていた。
朝から冷たい雨が降っていて、外に出るには少し肌寒い。
「午前の散歩は中止」と彼女が自分で決めたため、
代わりにリモコンを片手にチャンネルをくるくると回していたのだ。
「……あ。これ、気になる」
偶然映ったのは、歴史ドキュメンタリーの再放送だった。
画面には、険しい山を越える象の軍団。
ハンニバル。ローマを恐怖に陥れた将軍。
ナレーターが低く語る。
「ハンニバルの父は、若き息子に“ローマへの復讐”を誓わせた。
父の怨念を継ぎ、アルプス越えという無謀ともいえる戦略に挑んだ男
それはまさに、個人の意志と血の記憶の結晶だった」
シグちゃんは、目を見開いてその映像を見つめていた。
身体がやや前のめりになっている。
ときおり頷き、ときおり「なるほど……」と呟く。
「ハンニバル……すごい人だね。
“父の復讐”を自分の意志として生きるなんて、正気じゃない。
でも……そこには、血を超えた“無意識の契約”がある気がする」
「いや、お前朝からテンション高すぎんか?」
「ちがうの。これはわたしにとって……すごく、“懐かしい感覚”なんだよ」
「懐かしいって……戦争した記憶でもあるのか」
「……ない。けど、“誓った記憶”はある気がする。
誰かに何かを誓わされたこと。
あるいは、自分の意志としてそれを受け取ったこと……」
シグちゃんはそう言って、画面に映るハンニバルの瞳をじっと見つめた。
「ハンニバルにとって、戦争は記憶であり、意志であり、存在の証だった」
ナレーターのその言葉に、彼女は一瞬、小さく肩を震わせたように見えた。
~~~
番組が終わり、時間はちょうど昼過ぎ。
いつものように録画されていた昼ドラが自動再生される。
「昼ドラってドロドロだよなぁ……
この人、もう3人くらいと関係持ってるぞ?」
「ん……そうなの?」
さっきまでの“歴史評論家”モードとは一転して、
シグちゃんはどこか落ち着かない。
手を膝の上に置いて、何度も指を組み直す。
ドラマの中では、夫のいない間に義理の妹と密会するシーンが映っていた。
「いけないことだって分かってる。でも、あなたの手が、あの人より温かいの……」
「……」
「ど、どうした? なんか真剣な顔してるけど……」
「この人たち、ちゃんと倫理を守る気がないのかなって思って……
でも、“理性”だけじゃ止まらないことって……あるのかも」
「え、シグちゃんがそんな話するの意外だな。
まさか浮気の経験が?」
「……ないよ」
即答ではあったけど、語気が妙に硬かった。
「でも、どこかで……似たような構図を知ってる。
たとえば、誰かを愛して、その“身近な人”とも……関係してしまうとか。
そのことで、社会のルールを破ってしまうとか……」
「お、おう……それ、どっかのドラマか? っていうかフィクションであってくれ……」
「“記録”かもしれない」
「……ん?」
「なんでもない」
シグちゃんはそっと視線を落とした。
“マーサ”“ミンナ”という言葉が、ふと彼女の頭をよぎる。
でも、それが何かを意味するのか、誰なのか、まだ思い出せない。
ただ
どこかに、“二人の女性”と自分を巡る、ややこしい構図があった気がした。
それが「罪」だったのか、「愛」だったのか。
それとも、もっと別の「衝動」だったのか
彼女の中で、ぼんやりとした影が揺れていた。
~~~
「……シグちゃん?」
「うん。ごめん。なんでもないの。
でも、今日のテレビは……とっても、勉強になった」
「……俺はなんか怖いぞ。お前そのうち、俺の“無意識”とか解剖しそうだし」
「しないよ。でも……お兄さんの夢の内容、また聞かせてほしい。
それは、わたしの記憶を掘る手がかりになる気がするから」
「……え? 俺の夢が?」
「夢は“願望の変装”だから。
他人の夢の中にも、自分の無意識が投影されることがある。
それに、わたし“夢日記”をずっとつけてた気がする」
そう呟いたときのシグちゃんの表情は、
まるで誰かの記憶を借りて語っているようだった。
テレビが終わり、雨が少し止んだようだった。
でも、彼女の中では、まだ見ぬ“嵐”が、静かに目を覚まし始めていたのかもしれない。
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