第十二章:言葉にして、残すということ
夜は静かだった。
エアコンの風が微かに壁を撫で、
月明かりがレースのカーテン越しに床を照らしている。
その部屋の片隅。
机に向かい、小さな体を丸めるようにして、彼女はペンを握っていた。
カリカリ、と紙にペン先が触れる音だけが、空間に淡く響く。
それは日記ではない。
記録でも、宿題でもない。
“感情の整理”それが、シグちゃんにとっての“書く”という行為だった。
「今日は、電車に乗った。
こわかった。でも、乗ってよかった。
公園で、ユナちゃんと話した。“おぎゃ”しか話せないはずなのに、心でわかりあえた」
一行一行、文字にしていくたびに、
曖昧だった感覚が、少しずつ形になっていく。
「わたしは、やっぱり“話す”より“書く”ほうが、素直になれるみたい。
それは、わたしの中に、“言葉の設計図”が先にあるからかもしれない」
彼女はふとペンを止めた。
そして、新しい便箋を取り出し、小さく「Dear ユナちゃんへ」と書いた。
あなたの“ばぶ”から、わたしはたくさんのことを学びました。
言葉のない対話の中で、あなたは“気持ち”をまっすぐ投げてきてくれた。
あなたが大きくなったら、またお話しましょう。きっと、今よりもっと深く。
次の便箋には、少し迷ってから書き出す。
「お兄さんへ」
あなたがいてくれて、わたしは安心して世界に触れられています。
あなたのコーヒーのいれ方も、歩き方も、アイスの選び方も、少しずつ好きになってきました。
ありがとう。これからも、そばにいてくれると嬉しいです。
最後の文を書き終えたとき、シグちゃんは小さくため息をついた。
心の中でまとまらなかった“想い”が、紙の上で静かに並んでいた。
それは“声にできない感情”を、“未来へ残すための言葉”だった。
~~~
翌朝。
「……ん、なんだこれ」
キッチンでコーヒーをいれていた俺は、ふとテーブルの上の便箋に気づいた。
「手紙?」
眠気まなこで目をこすりながら読み進める。
……そばにいてくれると嬉しいです。
その一文に至ったとき、
目が完全に覚めた。
「え、なにこれ、……ラブレター?」
「違うよ」
後ろから、淡々とした声が聞こえた。
振り返ると、シグちゃんがすでに着替えて、きちんと髪を整えて立っていた。
「なんか……こう……気持ちは嬉しいけどさ、
直接言えばいいんじゃないか?」
俺がそう言うと、シグちゃんはほんの少しだけ口元を緩めた。
「言うと、忘れちゃうかもしれないから」
「え?」
「言葉は空気になると、どこかに消えていくでしょ。
でも紙に書けば、残る。ちゃんと“過去に在った”って証明になる」
「……それはまあ、そうかもしれないけど」
「あと……わたし、“言ってから後悔する”ことが多かった気がするの。
でも書くときは、“選べる”。言葉も、順番も、感情の強さも」
その目は、真剣だった。
子どもとは思えないくらいいや、
彼女が“ただの子どもではない”ことくらい、もうとっくに知っていた。
「……でも、今は言うよ」
シグちゃんは一歩だけ近づいて、
俺の胸元を見上げた。
「ありがとう、お兄さん。わたし、今……この部屋が、好き」
「……ああ、俺も。お前がいると、静かだけど、うるさくて……でも楽しいよ」
「それ、矛盾してる」
「お前が言うな」
二人の間に、朝の光がやわらかく差し込んでいた。
手紙は、テーブルの上に残されたまま。
でももう、そこに書かれていた気持ちは、声になって部屋の空気に溶け込んでいた。
たとえ忘れられてもきっとまた、書けば思い出せる。
そんな確信だけが、静かに残っていた。
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