第五章:エゴという名の支配者

ドアを開けると、コーヒーの香りが部屋の奥から漂ってきた。

それも、朝淹れたやつじゃない。出来たて、しかも“濃い”。


「ただいま……って、おい……」


俺は思わず言葉を飲んだ。


リビングのテーブルには、マグカップがひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。

それらすべてに、まだ湯気の残骸が微かに漂っている。


「え、ちょ、お前……コーヒー、四杯も飲んだのか?」


「うん。冷蔵庫のパン、スライスチーズとハムで挟んだ。バターがなかったのが残念」


シグちゃんはすました顔で答えた。

その口調はまるで「今日は三分で完食できました」と報告する小学生のように素直だった。


「……いやいやいや、胃やられるだろ普通……ブラックだよな?」


「もちろん。牛乳は成分が崩れるし、砂糖は味を濁らせるから入れてない」


「お前の舌どうなってんだよ……」


俺は疲れたスーツのままソファに崩れた。

脚にじんわりと一日分の重さがのしかかる。

けれど、目の前に座っているシグちゃんは、どこか清々しい表情だった。


「夕方、ちょっと外に出たくなったの。頭が重かったから。歩くと、すっきりする」


「……勝手に出たのか?」


「ううん。玄関は開けてない。窓から空を見たの。雲の動きで時間が分かるの、面白いね」


「……やっぱりお前、ただの子どもじゃないよな……」


その言葉は、思わずこぼれていた。

頭のどこかではずっと考えていたことだ。

この“異物”のような子ども。

無垢さと、老成と、分析の目を併せ持つ少女。


このまま家に置いていていいのか?

そんな理屈と、妙な愛着の間で揺れていたのも事実だ。


けれど、今夜はついに“理性”が勝った。


「なぁ、シグちゃん」


「ん?」


「……ちょっと、夜風に当たりに行こう。涼しいし」


「お散歩? いいね。……待って、靴、ちゃんと揃える」


彼女は、ぺたんと座って自分のスニーカーを丁寧に履いた。

つま先を揃えて立ち上がるその仕草に、俺は少しだけ胸が痛んだ。



外は涼しかった。

駅前の通りは人通りもまばらで、ビルのガラスに映るネオンがどこかぼんやりして見えた。



俺たちはしばらく黙って歩いた。

けれど、目的地は決まっていた。


「ねぇ、お兄さん。どこに行くの?」


その問いに、俺は一瞬だけ迷った。


でも、やっぱりこれは言わなきゃいけない。


「……警察だ」


彼女は立ち止まった。

夜風が、彼女の髪をさらりと撫でる。


「どうして?」


「当たり前だろ。君は……記憶もない。名前も、年齢も不明。どこから来たかも、わからない」


俺の声は、思っていたよりも硬くなっていた。


「……俺はただの会社員だ。こういうこと、ちゃんとした大人に任せるべきなんだよ」


「……そう」


彼女は、驚きもしなかった。

泣きも怒りもせず、ただ小さくうなずいた。


「でも、それは合理的じゃない」


「は?」


「警察に行けば、きっとわたしは“保護”される。でも、それはわたしにとって、“自由の喪失”と等しい」


「おいおい、急に何言って」


「施設に入れられる。名前も与えられる。でも、それはわたしが“誰かである”ことを忘れさせる場所」


彼女はまっすぐ俺を見た。


「お兄さんは、“名付けて”くれた。わたしに“居場所”をくれた」


「……」


「だから、行かない」


その声は、静かで、でも何より強かった。

幼さとは正反対の、恐ろしいほどの“意志”があった。



俺は、言葉を失った。



小さなシルエットが、夜の街に溶け込みながら

まるで“真実”を語る医者のように、静かに俺を診断していた。




~~~



「……もう帰ろう」


夜の交番の前で、シグちゃんはそう言った。

まるで「天気が悪くなってきたから帰ろうね」とでも言うかのように、自然な口調で。


断る理由を理詰めで並べた彼女に、俺は何一つ言い返せなかった。

言葉の意味というより、“意志の強さ”に負けた気がした。


俺は無言で歩き出した。

シグちゃんはその後ろを、ぺたぺたと音を立てて着いてくる。


帰り道、ふたりともほとんど何も話さなかった。

けれど、それが気まずい沈黙には感じなかった。

むしろどこか、長く一緒にいた家族みたいな空気さえ漂っていた。


~~~


「ただいまー」


鍵を開けて玄関に入ると、シグちゃんはまっすぐリビングへ向かい、

何のためらいもなく布団へダイブした。


「……おい。風呂とか、ご飯とか」


「もういい。考えるの疲れた。今日はいっぱい喋った。いっぱい、歩いた」


布団の中でごそごそと動きながら、彼女の声がくぐもって聞こえる。


「しばらく……だまってる……」


「……お、おう」


俺はソファに腰を下ろし、ネクタイを緩めながら冷蔵庫を開けた。

昨日の残りの麦茶を飲み干し、テレビもつけず、電気も間接照明だけにして。


ふと、あいつのことを考える。


“あれは本当に、子どもなのか?”


もちろん、見た目はそうだ。言葉づかいもところどころ幼くて、時々ぬいぐるみを撫でてるような、そんな子どもらしさもある。


だけど……どこかで“全部わかってる顔”をしているときがある。


まるで俺が思ってることを先に読んで、それを“受け止める準備”まで整えてるような……そんな目だ。


まさか、本当に記憶喪失とかじゃなくて


いやいやいや、何考えてんだ俺。

ただの迷子だ。おかしいのは、きっと俺の感性のほうだ。


そう思おうとした。

でも、そのときだった。



布団の中から、何かが聞こえた。



「……エス、イ……違う……転移、じゃ……な……」



ん?



俺は身体を起こした。


今、なんて言った?

エス? イド? なにそれ。


「……アンナ……違う、その解釈は……」


また少し間が空いてから、こんな言葉が続いた。


「……ユング……もう……いい……」


寝言だった。


でも、ただの寝言ってだけで済ませられるような響きじゃなかった。

というか、どれも日常会話で出てくる単語じゃない。

“アンナ”? “ユング”?

何語だよそれ。


まさか……ドイツ語?


俺は思わず、シグちゃんの顔を覗き込んだ。

眠っているその横顔は穏やかで、まるでさっきまでの口論なんて忘れてしまったかのようだった。


「……自己、じゃ…………代理、が……」


まただ。ぶつぶつと、知らない言葉の羅列。

単語だけが、ひとつずつ吐き出されていくような寝言。


でも、それが妙に整ってる。

意味は分からないのに、“考えた痕跡”だけが残っているようなそんな喋り方。


「……転移、……患……父、違う……」


俺はつい背筋を伸ばして聞いていた。

意味なんて分かるはずがないのに。

ただ、あまりにも“子どもらしくない”その寝言が、妙に胸をざわつかせた。


「……死……でも……記…、残れば……それで……」


その最後の言葉を聞いたとき、俺は不思議と息を呑んだ。

誰かに届くことを願ってるような、諦めたような……そんな“残響”だった。


やがてシグちゃんの寝言は静かになり、部屋には再び寝息だけが戻ってきた。


俺はソファに身を沈め、天井を見上げる。



この子、何なんだよ。



言葉にしようとすると、急に現実味が薄れる。

でも俺の目の前で、たしかに“常識じゃない何か”が起きているのは間違いない。


少なくとも、彼女はただの迷子じゃない。


部屋の隅、読みかけの自己啓発本がひっくり返っていた。


「自分らしさを取り戻す方法」なんてタイトルだった。


俺にはよく分からないが、あの子はもう“自分らしさ”を取り戻そうとしているのかもしれない。



ただし、それが“どんな自分”なのかは、誰にも分からないまま。

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