第四章:仮面の下で
「じゃあ、行ってくる。冷蔵庫の中、食えるもの入ってるからな。鍵は……まあ、今日はいいか」
スーツの襟元を直しながら、俺は玄関に立っていた。
足元ではシグちゃんが、昨日よりもきちんと整った髪と服装で、まるで“送り出す側”の家族みたいな顔をしていた。
「お兄さん、顔」
「え?」
「ネクタイ、曲がってる」
言われて、慌てて鏡を見る。
本当に、少しだけ斜めになっていた。
彼女は小さな手を伸ばして、すっとそれを直した。
まるで何度もやってきた所作のように、無駄のない動きで。
「……なんでそんなに慣れてるんだよ」
「わからない。でも、“こうするのが正しい”って、体が覚えてる」
それがまた妙に説得力があるのが、困る。
まるで前世で誰かの執事でもやっていたかのような仕草だった。
「それじゃ、ほんとに行ってくるわ。今日はちょっと残業になりそうだから……」
「うん」
「何かあったら、スマホって持ってないか。じゃあ……ええと、インターホン鳴らせ。近所の人に助けを」
「……お兄さん」
「ん?」
ドアノブに手をかけたそのとき。
背中越しに、シグちゃんの声がした。
「お兄さんってさ、会社で仮面、つけてるでしょ?」
「……は?」
思わず振り返る。
彼女は、まるで今日の朝食の感想でも言うかのように、それを口にした。
「人に合わせて、笑って。何か言われても“うん、そうですね”って、口だけ動かして。
それ、本当のお兄さんじゃないでしょ」
俺は言葉を失った。
「……なんでそう思うんだよ」
「さっき、笑った顔。鏡の中で見た。目が笑ってなかった」
彼女は目を細めて、まるでそれが“明白な事実”であるかのように断言する。
「……別に、それくらい普通だろ。社会人なんて、そんなもんだ」
「ううん、違う。たぶん“慣れすぎてる”のが問題」
その言葉は、なぜかじんわりと響いた。
いつの間にか、そういう“顔”が日常になっていたことに、改めて気づかされる。
「……まぁ、帰ったらコーヒーでも淹れてくれよ。苦いやつな」
「うん。ブラック、ね」
やけに自然に会話が成立しているのが可笑しい。
俺は少し肩の力を抜いて、ようやく玄関を開けた。
けれど出がけにもう一度、シグちゃんがぽつりと呟いた。
「仮面、重くなりすぎたら……ちゃんと、外してね」
その声音には、妙に切実な響きがあった。
あたかも彼女自身がかつて“外せなかった仮面”を持っていたかのようなそんな、哀しみを滲ませながら。
「……ああ、考えとく」
俺はそれだけ言って、扉を閉めた。
ドア越しに、ほんの少しだけコーヒーの匂いがした気がした。
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