あなたに届く灯火
まるた
ミルク
「はあっ…はあっ…」
アスファルトを駆ける足音。激しい息遣い。暴れる鼓動。口の中には鉄の味が広がり、喉がかすれて痛い。
目の前には崩れたビル群に、波打つアスファルトが映る。電柱は倒れ、車は転がっていた。
「もう…ダメ…!」
手足を必死に動かしながら、あたしは数日前に世界を覆った光を思い出す。そう、あの日から世界はぶっ壊れた。…目を閉じても焼き付いている、最悪の光景。
「…グゥエアアア…」
背後から、悍ましい声があたしの心を襲う。声の主は白目を剥き、呻きながらあたしを追いかけてきていた。振り向く。男の手にはナイフ。近づいている。速い。いや、“早い”。それはまるで、バグったゲームみたいにコマ送りで近づいてくる。
走れ、手を振れ。死ぬ、殺される…!
「グウウウエエアアアアアアアア!!!!!」
心臓が跳ねる。すぐ後ろから聞こえた。足音も近い。やばい。無理だ。死ぬ。嫌だ。死にたくない。…こんなんで、ひとりで、死にたくない…!
「おらよっ。」
突然男の声が聞こえると、地面に何かが倒れる音がする。
「…ッ!」
足がつかない…!転ぶ…!
あたしがつまづいた瞬間世界が揺れ、そのままアスファルトに転がった。肘に痛みが走る。
やばい、あのイカれた奴が来る…!焦って後ろを見上げると、イカれた野郎は地面に倒れ、見知らぬ男がそれを踏んづけて立っていた。
「…は…?」
見知らぬ男は、背が高くすらりとしていた。年齢は30代前後だろうか、不思議と威圧感がある。でも、その目は妙に落ち着いていた。一体、誰なんだろう…。
「無事か?」
男はこちらを向いた。何故だか、背筋が伸びる。
「…あ、はい…。」
あたしは、状況が掴めないまま返事をする。
「おう、それなら良かった。…お前、一人か?」
男は、イカれたクソ野郎をなおも踏みつけながら話す。…ひとり。確かにあたしはひとりだった。
「…はい。」
あたしはどうにか質問に答えながら、この人は助けてくれたのだと、やっと理解する。
「あの…、助けてくれてありがとうございます。」
あたしは確実に死ぬところだった。ちゃんと礼を言う。
「どういたしまして。…ところで姉ちゃん。俺はこのまま拠点に帰ろうとしてたんだが…。とりあえず、俺についてくるか?」
あたしを助けた男は、ニヤッと笑う。拠点…?この人についていく…。大丈夫だろうか。
ここ数日、この壊れた世界でどうにかひとりで生き延びてきた。意味わかんない力であたしを襲ってきたやつも、何人もいた。正直、もうへとへとだった。見ず知らずの男についていくなんて、あり得ない。でも、見渡せば意味不明にぐちゃぐちゃな世界。あたしは、改めて男を見上げた。
…この人は大丈夫だ。あたしは、自分の直感を信じることにした。
「…はい。」
あたしたちは、ぐちゃぐちゃになった世界を歩く。周りの建物は、今にも音を立てて崩れそうだ。風は、ない。
あたしを救ってくれた男は、“ジャン”というらしい。あだ名だろうか。
「さっきの野郎は能力者だな。何故だか今この世界には、不思議な能力を持つ奴がいるらしい。そんで、さっきみたいに狂ったやつもな。」
ジャンは、数日前に壊れたこの世界のことを話してくれる。
「つっても、俺もよく知らんがな。…とりあえず、お互い生きてんなら儲けもんだ。」
生きてるなら儲けもの。…生きてるのが当たり前じゃないんだ。それってやっぱり…。
あたしが暗い顔をしていたのか、ジャンは明るい声で話し始めた。
「ま、考えてもしゃーねえさ!お前は--いや、実瑠…だったか?んー覚えづれえな、ミルクでいいか。」
ジャンは、あたしの名前に適当にあだ名をつける。…ミルクって、なんかダサい。
「ミルクは、広い家は好きか?」
「え、広い家…?」
急に突拍子もないことを聞かれ、戸惑う。
「そ。ほら、これが俺たちの拠点だよ。」
ジャンは顎であたしたちの目の前を指す。そこには、あちこち崩れたショッピングモールが待っていた。
「おっす。トータ、いるか?」
壊れた、開きっぱなしの自動ドアを潜り、中に入る。ジャンは、入るや否や声を上げた。その声は反響する。あたしはショッピングモールの中を覗いた。中央に大きな広場、上には吹き抜けが広がり、壁や天井が随分と崩れている。…これ、普通になんか落ちてこないか?あたしは不安を覚え、頭上を警戒しながら足を進める。
「あいよ、いるけどー…ってオイ!なんだその女!」
トータと呼ばれた男が陰から出てくる。…え、なに、初対面で“その女”呼ばわり?無理だな。あたしの直感センサーが真っ赤に点灯する。
「はは!なんか暴走した能力者に襲われてたからよ。連れてきた。」
ジャンは、愉快な笑い声をあげて説明した。そんな雑な説明あるのか。
「はあ!?連れてきた、じゃねーだろ!大丈夫なのか、そいつ。」
トータとかいう失礼野郎が、難色を示す。え、なんか疑われてんの?
「襲われて半べそかいてたやつだぞ、別に危なくねーだろ。な?」
ジャンが目線をこちらに向ける。…って、
「半べそはかいてないよ!」
あたしは反論する。何だそれ、弱っちいやつじゃんか。
失礼野郎が口を開く。
「そんなんどっちでもいいけどよ。そもそも食料とか、俺らの分だってギリギリなんだ。こんな訳わからん女連れてきて…」
「さっきからあんた、失礼じゃない??」
言い終わる前に、あたしの言葉が被さる。我慢できなかった。ムカつく。
「ああ?何だよ、ジャンが助けなかったら今頃どうなってたかわかんねーだろ、お前。」
いや、そうだけど…!
「だからって…!」
「それはトータ、お前もな。」
ジャンが、トータの肩を叩きながら言う。どこかから、崩れた瓦礫の落ちたような高い音が反響した。トータは、気まずそうに目線を逸らしている。そりゃあそうだけどよ、などと呟いていた。あたしも、ジャンの一言でとりあえず黙る。
「まあよ、このクソみたいな世界、寄り合ってた方が安心だ。これまで疲れたろ。部屋は有り余ってる、まずはゆっくり休め。」
ポンッ。あたしの頭に暖かい感触が伝わり、思わず目を瞑る。ジャンが、あたしの頭に手を乗せたようだ。懐かしい感覚。あたしは急に、肩が軽くなった。ずっと忘れていたような感覚。…一瞬だけ心の奥が揺れる。
「俺は基本2階にいるから、なんかあったら頼れ。いいな。…おいトータ、リンどこ行った?」
ジャンはあたしに声をかけ手を振ると、トータと話し始めた。
「リン?知らねーよ。あいつすぐどっか行くんだ。また外で暴れてんじゃねーの?」
トータは質問に答えながら、ジャンの横に並んで歩いていく。遠ざかっていく二人の背中は、話し声を残しながら小さくなっていった。
あたしはそれを眺めつつも、頭に広がる暖かい感覚を思い出していた。
二人がいなくなって、モールには静けさが広がる。夏のはずなのに、指先は不思議と冷たかった。今は拠点もあり人もいる。時間も余裕もできると、嫌なことを考えてしまうみたいだ。
あたしは二人と話したあと、ジャンに聞いて拠点に残る食料で腹を満たし、余った寝袋を貰った。ここには“リン”っていう女の子もいるみたい。その子と同じ部屋で過ごすと良い、と言われた。どんな子だろう。いつものあたしなら、謎の自信で仲良くなれるって思うけど…。状況がそうさせるのか、自信が湧き上がってこない。なんか、心の中が少しごちゃごちゃする。やばい。泣きそう。
…良くない。切り替えよう。こんな時にお酒でもあれば…。でも、そんなのあるはずない。…そうだ、外の空気。ジャンが屋上があるって言ってた。
あたしは、整理されない体を空っぽにするために、上へと伸びる階段に足を向かわせた。
屋上に着くと、夜空はとても綺麗だった。夜風はあたしの体を撫で、澄んだ空気はあたしの胸を満たしている。上手く言えないけど、なんかこう…。この空、極上のラメみたい。いや、その表現は絶対間違ってる。上手く言い表せないけど、少なくとも時間を忘れて見上げるくらいには、目を奪われていた。
ダン、ゴン!
あたしが夜に包まれていると、屋上の床を叩きつけるような音が耳に届く。なんだ、せっかく良い気分だったのに。あたしは、音の出所を探そうと屋上を歩き始めた。
少しして、ある人影に気づく。ダン!それは足を強く床に踏み込み、駆ける。手にしている鉄パイプのようなものを回し、振り抜く。すぐ後ろに切り替えて、右足を大きく振り上げた。
「…おらっ。」
彼は、また踏み込んだかと思うと、体がブレる。
「え…?」
見間違い…?あたしは目を疑うが、違った。確かに彼は、二人になっている。ゲームのバグみたいに、輪郭がずれ、分裂したようだ。二人になった彼、いや彼らは、そのまま駆け出し再び鉄パイプを振り抜く。びゅおっ、と風を切る音が屋上に広がった。立ち止まっていると、彼らのうちの片方がぼやける。徐々にそれは薄くなっていき、ついには霧みたいに消えた。また彼は一人になる。
--今の…何?何かトータが二人になって、そんでまた一人になって…。いや、全然意味わからない。どういう仕組み?頭パンクしそう。
「はあ、はあ…。クソッ、そろそろ見回るか。」
トータは肩を上下させ、額の汗を拭う。そのまま周囲を見回し、歩き始めた。そこで、呆然としていたあたしと目が合う。
「…あ。」
トータが気の抜けた声を出す。さっきの迫力はどこへ行ったのか。
「…お前、いつからここにいた。」
顔が引き攣っている。何その反応。
「あんたが鉄パイプ振り回してたとこ。…ていうかさっきの何!?なんか途中二人になってたような…。」
あたしは気になることを直球に聞いた。意味わかんないんだから仕方ない。
「チッ…見てんじゃねーよ、クソ。」
トータは舌打ちをして踵を返す。
「はあ?」
相変わらず失礼だ。
「ってか質問の答え!」
あたしは、逃げるように歩き始めたトータを追いかける。トータは、あたしの声など聞こえていない様子で、外を見下ろしながら屋上の外周を歩く。…無視かよこいつ。今のあたしの顔は、シワがたくさん寄ってるはずだ。それでも何となく、歩き続けるトータについていく。
二人の足音に、風の靡く音。それらは、屋上から夜の闇に霧散していく。あたしの目には、ゆっくりと歩くトータの後ろ姿が映っていた。…そうか、夜みんなが寝る頃に、こうやって見張りをしてくれているんだ。さっきだって、暴走した能力者と戦うために訓練してたのかな。分かりづらい奴。
でも、そういうの嫌いじゃない。
「トータ。」
あたしは少し、間を置く。
「見張り、ありがとね。」
トータの背中に声をかけた。背中が少し揺れる。
「…は?何だよ急に、きみわりー。」
トータは、歩きながらこめかみをかいている。相変わらずの口の悪さだけど、別に苛立ちはしなかった。
「てか、付いてくんなよ。気が散るわ。邪魔邪魔。」
しっしっ、とでも言いたげに手をひらひらと振る。うわ、やっぱムカつくかも。
「別に良いじゃん!…一人だとなんか、さ。」
あたしは黙る。一人だと考えちゃうんだよ、色々。そう言いかけて、やめた。同情されたいわけじゃない。…ただちょっと、目を逸らしたいだけ。
トータは何も答えず、夜の闇の中を歩く。星空があたしたちを彩る。鼓膜には、屋上を踏み締める靴音だけ。少し、風が出てきただろうか。心が縮こまるほどに、世界は静かだ。こんな奴ではあるけど、誰かと一緒にいるのって悪くない。
…その静けさが、ふと途切れた。屋上に立つ足が振動を受け取る。トータの影が、わずかに揺れた。
いや、揺れたのは影ではなく、“視界の端”の方だ。
「……トータ?」
返事がない。
彼は、立ち止まったまま、顔を左に向けている。それは何かを見るように、固まっていた。
「…逃げろ。」
トータの口がわずかに動く。あたしはゆっくりと、彼の視線の先に目を向ける。
そこには、さっきまで“なかった”何かが立っていた。
「誰…?」
大きさからして人だろうか。暗闇の中、はっきりとは見えない。仲間…じゃないよね…?あたしが少し後ずさると、
「ミィツケタ。」
暗闇の何かは、そう音を立てると空に舞い上がった。あたしは大きく顔を上げる。どういうこと…?人ってそんなに跳べるもん…?暗闇の何かは、丸い月が隠れほどに跳び上がっていた。そしてそれは、ゆっくりとあたしたちの方は降りてくる…。
あたしが立ち尽くしていると、急に体をすごい力で押される。あたしは耐えかねて床に倒れた。
「…いたっ。」
押された方を見る。トータが空を見上げていた。トータに押されたのか。
そこに、ものすごい速さで何かが落ちてくる。床に衝突したような大きな音が鼓膜を襲い、粉塵が上がる。…トータは!?無事!?
「ぅおら!」
トータの声。振られた鉄パイプが空気を裂く。それに合わせ、粉塵が横一線に舞う。暗闇の何かがふわりと浮いた。鉄パイプは当たらなかったようだ。そのまま着地する。
「なに、どういうこと?」
あたしは思わず声を上げる。状況が掴めない。
「…暴走した能力者だろ。クソッ、屋上に来るかよ。」
トータは悪態をつく。そうか、ジャンが言っていた。この世界が崩壊した後、生まれた能力者。その中でも暴走するもの。今目の前で浮いたあいつも、“そう”ってことだ。
トータの様子を伺うが、とりあえず怪我はなさそうだった。あたしも…。あたしも何かしないと。そう思うが、足が震える。うまく、動かない。
「ミィツケタ、ミィツケタ。」
心臓を掴まれるような気味の悪い声。あたしは暴走者に視線を向ける。顔は判別できない。でもなんか、こっち向いてる…?
「ミィツケタ!」
暴走者は跳んだ。跳んで…落ちない。まるであいつだけ重力がないようだ。こっち来た。跳んでくる。避けないと!…足が。力が入らない…!
「っら!」
目の前を影が覆う。トータがあたしの前に立ち、暴走者と真正面から向き合った。鉄パイプで、暴走者の拳を受け止めている。
「ッ…おも…!」
トータは耐えかね、飛ばされる。そのまま、あたしの横を転がっていった。
トータを見ると、鉄パイプは曲がり肩から血が流れていた。
「ごめん…!」
どうしよう。どうにかしないと。
「…うるせーな。目の前でやられちゃ、俺の気分がわりーんだよ。」
トータが額の血を拭いながら立ち上がる。ごめん、ごめん…!
足が震える。肺がうまく動かない。…動け。動いて!
「…このっ!」
トータは鉄パイプを投げ捨て、また暴走者に向かっていく。走るトータが、一瞬ブレた。さっき見た光景だ。二人になる。もしかして、これも能力…?
二人になったトータの拳は、暴走者に振り下ろされる。が、暴走者は空に舞い上がった。避けたのか。トータは怯むことなく、少し後ずさる。すでに次の一手を考えているのか、拳を構える。暴走者は、空から降りてくる…蹴りの構えをしながら。トータはブレる。また二人になったようだ。暴走者の蹴りはトータの一人をすり抜け床に当たり、爆発したような衝撃音が鳴り響く。すり抜けていったトータの体はぼやけ、霧のように散って消えた。陰から、もう一人のトータ。こっちが本体ということか。拳が暴走者に届く。…いや、届く前に暴走者の左足がトータの顔に命中した。トータは衝撃で吹き飛ばされる。
「…何これ…。」
あたしは、この世のものとは思えない二人の戦いを見て、思わず声が漏れる。意味のわからない次元だった。
「いや、そんなことより…」
あたしは、やっと動いた膝を抱えて立ち上がる。
「トータ!大丈夫!?」
あたしはトータに近づこうとする。
「バカ、来んな!」
トータが叫ぶ。
視界の端で、何かが動いた。足をひやりと掴まれたような錯覚。あたしは、ゆっくりと左に視線を流す。
…暴走者の顔が、こちらを向いていた。
「ミィ…ミィツ…ケタ。ケタ。ケタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタ」
暴走者はこちらを向いたまま、跳んでくる。宙に浮き、落ちてこない。まるであいつだけ、重力がないみたいだ。
…怖い。何だよあれ。何で何もできない。くそっ!いつもそうだ、あたしは。“あの時”だって…。あたしは誰も助けられない。足が震えて、あたしは助けられるだけ。嫌だ。もう、そんなの。
ふと足元の何かが光る。見下ろすと、曲がった鉄パイプ。あたしは、考える前にそれを掴んだ。指が震えて、うまく握れない。でも、もうやけだ。弱っちいあたしで終わるもんか。跳んで近づいてくる暴走者に向かい合い、あたしは鉄パイプを握る拳に力を込める。この、むしゃくしゃした気持ち全部…!何もかも!!
夜が一瞬、止まる。
「お前にやるよ!!」
あたしの鉄パイプが目の前を飛んでいく。曲がったその姿は、驚くほどはっきりと見えた。それはゆっくりと、暴走者に向かっていく。当たれ!あたしは願う。鉄パイプは回る。
たが、その鉄パイプは暴走者の顔をかすめ、奥へと飛んでいった。暴走者はそのままあたしの前に着地する。
「ケタ、ケタ、ケタタ。」
くそ、当たらなかった。なんだよ!
「…ぅぐ…!」
暴走者は、両手であたしの顔を挟む。冷たい。背筋が凍る。手に力も入らない。
暴走者は、片手を振り上げる。拳が強く握られている。
嫌だ、やめて。
「…待てよ!」
遠くからトータの声。でも、もう遅い。
振り下ろされる拳。暴走者から飛び散る涎。無理、ダメだ。結局何もできなかった…!くそ…くそ!!
あたしは、目を瞑る。
「いやあ、痺れたな。」
--鈍い音。
夜の屋上に、鈍器を叩きつけたような音が響いた。金属の転がる音が鼓膜に届く。あたしの顔にあった冷たい手の感触は離れ、同時に床に何かの倒れる音が聞こえた。
…あたしは、恐る恐る目を開ける。足元には、暴走者が倒れていた。近くには鉄パイプが落ちている。…え?あたし、さっき遠くに投げたよね…?正面に目を凝らすと、背の高い男が悠然と歩いてきていた。
「よう、ミルク。中々いい投げっぷりだった。」
淡々とそう言った男--ジャンは、視線を下ろす。
「あ…。」
あたしは、声が出ない。
「暴走者が屋上からか…。こりゃ確かに予想外だな。」
何だろう…。さっきまでの張り詰めた空気は嘘のように軽い。不思議だ。
「…ミミミケケケ」
足元の暴走者がゆっくりと立ち上がってくる。
「ジャン、やばいよ、どうしよう。」
あたしは後ずさる。
「下がってろ。」
ジャンは、庇うようにあたしの前に手をかざす。言われた通り、あたしはそのまま後ろに下がる。足は、ちゃんと動くみたいだ。
「ジャン!」
背後から声が聞こえた。トータだ。息が荒い。
「そいつ、多分自分の重力を操作してる。」
続けて声を張る。重力を操作…?いや、確かに。普通じゃありえない高さまであいつは跳んでいた。しかも着地する時だって、屋上にヒビが入るほどの衝撃だった。確かに辻褄が合う。トータは、あの戦いの中で相手の能力を掴んでいた。
「何だそれ。チートじゃねえか。」
ジャンは気の抜けた声を出し、手首を回す。まるで緊張感がない。大丈夫なの!?あたしは振り返り、トータの様子を伺う。
「はあ、くそー。終わりかあ。」
トータは足を投げ出して床に座り、天を仰いでいた。いやいや、あんたもリラックスしすぎじゃない?まだ暴走者いるんだけど!
「ケタッケタッタッタッ」
暴走者は、鳴くと同時に宙に跳躍した。高さは3メートルほどか。ジャンはというと、まだ準備運動のように肩を回している。…本当に大丈夫?
暴走者が一瞬、空で止まった。拳を振り上げている。そして、そのまま降下し始めた。重力を変えたのか。その拳は、ジャンに向かっていく。やばい、あのままだとジャンに当たる…!しかしジャンは、片足を半歩後ろに引いただけだった。髪一本すら揺れない動きで、暴走者の拳を避ける。ジャンの顔をかすめた拳と暴走者は、勢い余って床に叩きつけられた。激しい爆発音、上がる粉塵。…煙でよく見えない。が、粉塵の所々舞うその様相。戦闘しているのか。徐々に煙が薄れはじめる。二つの影が見えた。一体何が…。
ジャンの振り抜く拳が、暴走者の腹部を穿つ。続いて足が跳ね上がり、暴走者の顔を襲った。暴走者は涎を飛ばしながら後退し、拳を振りかぶる。まさか、あの拳にも重力が…!能力によって重くなったであろうパンチが、ジャンを襲う。が、ジャンは重さなど存在しないみたいに体を回し、ひらりと躱した。一瞬、ジャンの足元が動いたように見える。よろける暴走者--ジャンが足をかけたのか。そのまま暴走者は、バランスを失い床に衝突した。鉄骨でも落ちたのかという衝撃音。
「すごい…。」
あたしは思わず、声に出していた。あの暴走者が、手も足も出ていない。ジャンはと言えば、呼吸すら乱れていなかった。
「トータ。ジャンって何の能力…?」
あたしは、ジャンから目を逸らさずにトータに問う。あれだけの強さ、普通じゃない。
「はあ?能力なんてねーよ。」
トータは吐き捨てるように言った。え…?能力がない…?嘘でしょ。その中で暴走者を圧倒してんの。信じられない。そんなことできるの。
…羨ましい。それができたら、あたしだって“あの時”カリンを…。
暴走者はもう動かない。粉塵はゆっくりと落ちていく。
「よし、終わりだな。」
ジャンが仕事を終えたように、ぱんぱんと手を払った。うつ伏せに倒れた暴走者を、足で抑えている。暴走者はというと、もう意識はないようだ。と言っても、そもそも意識があったのかすら分からないが。
--あたしは、一つの決意をする。それを伝えなければ。戦闘を終えたジャンへ、ゆっくりと近づいていく。ジャンもそれに気づき、こちらを向いた。
あたしは、口を開く。
「…にして」
声が、かすれる。顔も見られない。
「ん、何だ?ミルク。」
ジャンが首を傾げる。
あたしは覚悟を決めて、ジャンを見上げた。目が合う。
「あたしを、弟子にして!!」
もう、失わない。あたしの心の灯火が、夜を照らす月光と共鳴したような気がした。
* * *
「至急!みんな戻って来て!暴走者が一人!川沿いを南下してる!」
ソーヤの召集もあり、あたしは暴走者と戦っていた。あの一件から数週間。ジャンに戦闘を教わり、少しは自分を守れるようになっただろうか。この力で、あたしは誰かを救うんだ。…絶対に。
「おい!とっととそいつをこっちに誘導しろアホ!」
トータの声で、現実に引き戻される。…そうだ、まさに今、暴走者と戦っていたんだ。
「はあ??ほとんどあたしが戦ってあげてんでしょ!さぼんな!!」
あたしは言い返す。あいつ、後ろの方で全然戦闘参加しないの。また“かっこいいトドメ”とか考えてんだよ。…理解できない。
「うるせーな、じゃあトドメ刺してみろよ!」
トータのいつもの煽り口調。ほんっっとにイライラする!
「トータあんた言ったね…。覚えてなよ。」
帰ったら絶対モノに言いつけてやる。怒られてしまえ。
「二人とも何喧嘩してるの!油断したら危ないよ!」
ソーヤが後方から仲裁に入ってくれる。…なんかごめん。
「チッ、しゃーねぇな。見てろっ!」
トータは、いつもの力で二人にブレる。惑わされた暴走者は避けきれずに、トータの拳が命中した。
「ぐぇああああ!!」
暴走者は、腹を抱えながら駆け出す。
「うぉい!バカ追いかけろ!」
トータの焦りが伝わる。
「わかってるよ、うっさいな!」
一言多いんだよいつも。帰ったらララに愚痴聞いてもらお、酒でも飲みながら。…じゃないとやってらんないよ!
あたしが駆け出した暴走者を追いかけていると、奥の方の影が揺れる。よく見ると、地面から何かが浮き上がって来ていた。
「うわっ。」
…え、何?浮き上がった何かは、そのまま地面に着地する。着地…。人…?
「あんたどこから…」
すると暴走者は、そいつの手前で転び、床に伸びた。…いや、暴走者とかいったんどうでも良い。もしかして…。
「あんた、生存者?」
地面から浮き上がってきた男に声をかける。その裏であたしは、あの日のジャンの後ろ姿を思い出していた。
--しかし今、目の前にいるのは冴えない男だ。
「い、一応…。あなた、というかあなたたちは一体…?」
男は、明らかに警戒している様子であたしたちを見る。いやあんたも怪しいよ、と突っ込みたくなるが、抑える。
…一人なんだ。あの時の私と同じ…不安だろうな。さっきの地面からの浮き上がり。能力者だろうが、扱いも慣れていなさそうだ。きっと、世界の崩壊からずっと一人で、意味のわかんない能力に振り回されながら、彷徨っていたんだろう。
そうか、そうだったんだ。あたしは、不思議と納得する。あの時の救いを、あの日の決意を、あの灯火を--。
…次は、あたしの番なんだ。胸の奥が暖かい。あたしは、怪訝そうにこちらを見つめる男に向かい合った。
「ま、立ち話もなんだし。あたしたちに付いてきなよ。」
あたしの灯火も、あなたに届くだろうか。
※この物語と同じ世界、もう一つの物語はこちら→『落書きと光の境界で』https://kakuyomu.jp/works/822139838210404758
あなたに届く灯火 まるた @0-maruta-0
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