神座のヴェラチュール・イミテイター
@KURONOINU
第1話
「では、次の問題は――」
数学教師の平坦な声が教室に響く。午後の陽光が窓から差し込み、埃が舞う。空木カイは教科書を開いたまま、実際には開いていないスマホの画面を机の下で確認していた。LINEの既読が十三件。返信は後でまとめて、と彼は心の中で呟く。
カイは「器用」だった。
勉強も部活も、人付き合いも、恋愛も。何をやっても八十点は取れる。クラスでは「頼れる奴」として認識され、廊下を歩けば複数のグループから声をかけられる。笑顔を絶やさず、誰とでもそつなく会話できる。
けれど。
「――カイ、この問題、解ける?」
隣の席の友人が小声で囁いた。カイは一瞬教科書に目を落とし、数秒で解法の筋道を組み立てる。「あぁ、これはこうして、こう」とノートに簡潔に書いて見せる。友人は「マジで助かる」と笑った。
けれど、カイは知っている。
自分は「天才」ではない。
前の席に座る数学オリンピックに出場した奴は、この問題を見た瞬間に三通りの解法を思いつくだろう。部活のエースは、カイの三倍の練習量で誰よりも速く走る。美術部の変人は、一枚の絵に命を懸けている。
カイはいつも、その「本物」たちを見て、心の底に黒いものが沈殿していくのを感じていた。
――俺には何もない。
全てが「器用貧乏」。全てが「借り物」の八十点。百点を取るための「狂気」も「執念」も、カイにはなかった。
「空木、ちょっといいか」
放課後、カイは複数のグループから誘いを受けた。サッカー部の助っ人、軽音部の手伝い、クラスの打ち上げの幹事。全部引き受けられる。全部そつなくこなせる。けれど、どれも「本気」ではない。
カイは笑顔で「いいよ」と答えながら、鞄を掴んだ。
その瞬間――教室の蛍光灯が、一斉に消えた。
「――え?」
誰かが声を上げる。窓の外の景色が、歪む。空が、赤く染まっていく。
教室の中央に、何かが「現れた」。
それは人型だったが、人ではなかった。白い衣を纏い、六枚の翼を持つ、光の存在。顔はなく、ただ無数の目が全身に浮かんでいた。
「――選ばれし者たちよ」
声は、頭の中に直接響いた。
「汝らは『神座の戦い』に召喚される。異界パラディウムにて、最も相応しき『神』を決定せよ。生き残り、勝ち抜いた者のみが、元の世界へと帰還することができる」
教室が悲鳴に包まれた。椅子が倒れる音。誰かが泣き叫ぶ声。カイの心臓が激しく鼓動する。
「待って、何を言って――」
クラス委員長の白川ヒカリが立ち上がった瞬間、彼女の足元から光の柱が噴き上がった。
「白川さん!」
誰かが手を伸ばす。けれど、光は次々と教室を席巻していく。カイの隣の友人も、前の席の数学オリンピックの奴も、全員が光に飲み込まれていく。
カイは咄嗟に机を掴んだ。けれど、机ごと光に引きずり込まれる。
「ふざけんな――!」
カイは叫んだ。視界が真っ白になる。体が浮く。重力が消失する。耳鳴りがする。
そして――
最初に感じたのは、「痛み」だった。
背中に鋭い何かが突き刺さる。カイは呻き声を上げて目を開けた。視界に映ったのは、見たことのない巨木の幹と、鬱蒼とした森の緑。
「ここは――」
カイは立ち上がろうとして、足に激痛が走った。見れば、制服のズボンが裂け、膝から血が流れている。転移の衝撃で、木の枝に叩きつけられたらしい。
周囲を見回す。教室にいたはずのクラスメイトは、誰もいない。ただ、森の静寂と、遠くで鳴く鳥の声だけが聞こえる。
「マジかよ――本当に異世界、なのか?」
カイは震える手でスマホを取り出した。圏外。当然だ。バッテリーは残っているが、何の役にも立たない。
その時――森の奥から、何かが「動く」音が聞こえた。
枝が折れる音。低い、獣の唸り声。
カイの背筋が凍る。
茂みの向こうから、「それ」が現れた。
体長二メートルを超える、巨大な狼。いや、狼ではない。全身が苔と蔦に覆われ、目が緑色に光っている。口からは毒々しい紫色の涎が垂れていた。
「――魔物、か」
カイは本能的に理解した。これは、この世界の「住人」だ。そして、自分は「獲物」として認識されている。
狼がゆっくりとカイに近づく。カイは後ずさる。足が震える。「器用さ」が、何の役にも立たない。
「待て、待ってくれ――」
カイは両手を上げた。けれど、狼は止まらない。低い唸り声を上げながら、一歩、また一歩と詰め寄ってくる。
カイの心臓が破裂しそうなほど激しく鼓動する。
――死ぬ。
この「本物の死」を前に、カイの「器用さ」は何の意味も持たなかった。
「畜生――!」
カイは近くの枝を掴んで振り回した。けれど、狼は軽々とそれを躱し、カイの腕に噛みついた。
「――ぐあっ!」
激痛が腕を駆け抜ける。血が溢れる。カイは地面に倒れ込んだ。
狼がカイの喉元に顔を近づける。死を確信した瞬間――
「――俺にも『本物』の力が欲しい」
カイの口から、言葉が零れた。
それは、心の底から絞り出された、「渇望」だった。
その瞬間――カイの背後から、何かが「現れた」。
それは人型だったが、人ではなかった。全身が白い陶磁器のような質感で覆われ、顔には無数の「仮面」が張り付いていた。笑顔の仮面、泣き顔の仮面、怒りの仮面――全てが歪んでいた。
「――『虚飾(Vanity)』」
その存在が、カイの耳元で囁いた。
「お前の『欲望』は聞き届けられた。さぁ、『仮面』を被れ」
虚飾の手が、狼の頭を掴んだ。狼は悲鳴を上げて暴れるが、虚飾は離さない。そして――狼の「何か」が、光の粒子となって虚飾の手の中に収束していく。
それは、透明な「仮面」だった。
虚飾がその仮面をカイに投げる。カイは反射的にそれを受け取った。仮面は、カイの手の中で脈打つように光っている。
「これを、被れと?」
カイは躊躇したが、狼が再び襲いかかってきた。カイは咄嗟に仮面を顔に押し当てた。
瞬間――カイの視界が、激変した。
世界が、「匂い」で満ちていた。血の匂い、木の匂い、獣の匂い。カイの体が、勝手に動く。四つん這いになり、喉の奥から低い唸り声を上げる。
カイは、「狼」になっていた。
いや、正確には「狼を模倣」していた。
狼の動き、狼の感覚、狼の本能――全てがカイの中に流れ込んでくる。
カイは――いや、カイの体を乗っ取った「狼の仮面」は、目の前の魔物狼に飛びかかった。
爪が交錯する。牙が噛み合う。血が飛び散る。
そして――カイの方が、「速かった」。
狼の喉元に噛みつき、引き裂く。魔物狼は悲鳴を上げて地面に倒れ、動かなくなった。
カイは仮面を外した。世界が元に戻る。カイは荒い息を吐きながら、自分の手を見た。血まみれだった。
「これが――『本物』の力、なのか?」
カイは震える声で呟いた。
背後で、虚飾が笑っていた。
「違う。これも『虚飾』だ。お前は『本物』を演じているに過ぎない」
カイは、何も言い返せなかった。
ただ、心の底で、黒いものが更に深く沈殿していくのを感じた。
神座のヴェラチュール・イミテイター @KURONOINU
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