憧れは美しく、恋を彩る

千夜かおる

第一章:憧れと別れ

第1話

廊下の窓から、淡い光が差し込んでいた。

三月の空気はまだ少し冷たくて、それでも春の匂いが混ざっている。


卒業式の日。

二年生の美玖みくは、教室へと向かう足を止めていた。

遠く、校舎のエントランスに、卒業式を終えた三年生たちが並んでいる。

その中に、ひとり──彩香あやかの姿がある。

胸元のリボンを風が揺らし、笑い合う友人たちに囲まれながらも、どこか静かな表情をしていた。


ゆっくりと校門へ向かって歩き出す後ろ姿。

ひと足ごとに揺れる制服のスカートの裾が、どこか遠くへ行ってしまう合図のように見えた。


誰かに呼ばれ、彩香がわずかに振り返る。

けれど、その目線がこちらに届くことはない。

美玖はただ、息を詰めて見つめていた。

言葉をかけたいのに、喉の奥で何かがせき止められたまま出てこない。

周りの友達が笑い合う声も、足音も、全部が遠くに霞んでいく。


ほんの一年しか違わないのに、どうしてこんなに遠いのだろう。

あの人のいる場所は、光の向こう側のように思えた。

彩香は静かに角を曲がり、その姿が見えなくなる。

その瞬間、胸の奥にずっと沈んでいたものが、ふいに形を持ちはじめた。


──ああ、これが。

憧れじゃなかったんだ。

私、彩香先輩が……


でも、何もできなかった。

ただ、見ていることしかできなかった。

言葉の途中で、時間がゆっくりと巻き戻っていく。

光の粒が逆流するように、景色が一年前の初夏へと変わる。



***



あの日の体育館は、蒸し暑い空気に包まれていた。

全校集会。

壇上に立つ生徒会のメンバーが、淡々と行事を進行していく。

その中で、ひときわ落ち着いた声が響いた。


「……次に、生徒会からのお知らせです」


壇上の中央。

マイクの前に立つ上級生の姿に、美玖の視線は釘付けになった。

長い黒髪をきちんとまとめ、背筋を伸ばして立つ姿。

白いブラウスの襟元から、淡い光が反射している。


──誰だろう、あの人……


その瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。

光に照らされたその表情には、凛とした強さと揺るぎない落ち着きがあった。

華やかさではなく、内面にある本質的な美しさ──

それに、美玖は心を奪われていた。


誰も気づかないその一面を、自分だけが見つけたような、そんな感覚だった。

集会が終わっても、美玖の心はその場に置き去りにされたままだった。

机に戻っても、教科書の文字が目に入らない。

さっき見た上級生の姿を何度も思い出しては、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。


数日後、生徒会に中学の先輩がいるという友人から、ようやく名前を聞き出した。


「生徒会の副会長、佐伯さえき彩香あやか


その名前を聞いた瞬間、美玖の世界が静かに色づいた。

その音の響きを、何度も心の中で繰り返す。

それから、美玖は無意識に彩香を探すようになった。


放課後の校舎、図書室の窓際、中庭を横切るときの横顔。

どの瞬間も、美玖には特別な光の中に見えた。


けれど、話しかける勇気は一度も出なかった。

廊下の隅から見ているだけで、胸がいっぱいになってしまうから。

名前を呼ぶことさえ、許されない気がした。

それでも、心の中ではいつも呼んでいた。


「彩香先輩」


その名前だけが、美玖の世界をやさしく震わせていた。

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