赤ずきんは花を踏んで歌う

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赤ずきんは花を踏んで歌う

 それは、春の息吹が満ちる森の奥でのことでした。

 緑はきらきらと光をまとい、花々は色とりどりに咲き誇り、蝶は羽音ひとつ立てずに宙を漂っています。鳥たちの囀りがあちこちからこぼれ、木々の隙間を縫う陽光は、あたかも“光の雨”のように、やわらかな粒となって森の中へ降り注いでいました。


 そんな幻想的な風景のただなかで、あなたは木陰に身を寄せ、ふと空を見上げます。

 灰色のフードの合間から覗く青空は、雲ひとつなく晴れ渡り、悩みなど何ひとつ存在しないかのように澄みきっています。


 ──けれど、その澄んだ空とは裏腹に、あなたの胸の内は途方に暮れた思いで満たされていました。


 昨晩、この森へ足を踏み入れたとき、木の根に足を引っ掛けて盛大に転んでしまったのです。幸い怪我はありませんでしたが、転倒の拍子に持っていたランタンを壊してしまい、暗闇の中を手探りで歩く羽目になりました。

 気づけば奥へ奥へと迷い込んでしまい、深い夜と疲労が、あなたの身体にどっしりとのしかかっていたのです。


 やがて、月明かりをまるごと映し返す湖面のほとりへと出たとき、あなたはそこで一度腰を下ろしました。

 そのまま夜を越え、朝になって澄んだ水で顔を洗い、喉を潤し、森を出るために再び歩き出したものの……出口は一向に見つかりません。


 もしも蝶のような軽い羽があったなら。

 もしも、この森の上空をひと息で越えられたなら。

 あなたはきっと今ごろ、別のどこかで安全な時間を過ごしていたでしょう。


 長いため息が、あなたの胸からこぼれました。

 フード付きの厚手のコートのポケットに手を突っ込むと、クシャリと紙の音がします。

 取り出してみれば、それは数枚の“お札”。

 そこには、どこか威厳を感じさせる獅子の姿と、“一万”という大きな数字。

 ……しかし、この森には店のひとつもありません。

 お金はあるのに、買えるものがない。買える場所もない。

 金で命がどうにもならない状況に、あなたは思わず眉をひそめました。


 目を閉じ、昨晩の道程を思い返そうとしたとき──


 ガサッ……。


 草の陰で、何かが小さく動く音がしました。

 獣でしょうか。この森に棲む生き物に、あなたは詳しくありません。


 空腹で身体はふらついています。今この状態で何かに襲われれば、抵抗できる自信はありませんでした。

 あなたはそっと立ち上がり、太陽の差す方向へと歩き出しました。


 ………


 あなたは、草の陰で聞こえた音の正体を確かめられないまま、しばらく森の中を歩き続けていました。

 耳を澄ませるたび、風が枝葉を揺らし、サァ……と柔らかな音が、まるであなたを包み込むように響きます。


 土から歪な形をした木の根が顔を出し、湿気を帯びた土が足に軽く張りつく。

 自然は豊かで、どこを切り取っても美しいはずなのに、いつしかどの景色も同じに見えてくるようでした。

 出口は……いったいどこにあるのでしょう。


 その時でした。

 ふいに、甘い香りが、あなたの鼻先をかすめました。

 この森に入ってから一度も嗅いだことのない香りです。


 あなたは思わず立ち止まり、周囲をキョロキョロと見渡しました。

 すると、木と木の間の奥──薄暗い影の中に、白い何かがゆらりと揺れているのが見えました。


 胸の奥をくすぐるような好奇心。

 そして、どうか出口へ繋がっていますように──という微かな期待に押され、あなたはその白い影へ向かって歩き始めます。


 近づくほどに、先ほどの甘い香りが濃くなっていきます。

 森のどこからともなく漂うのではなく、“そこ”から発せられている──そんな確信が、足を自然に速めさせました。


 木の肌に手を置き、慎重に根を跨ぎ、もう一歩。

 その瞬間、視界がぱっと開けました。


 そこは──

 真っ白な花畑でした。


 むせ返るほど濃密な甘い香りが、一気にあなたを包み込みます。

 花びらは雪のように白く、その茎はどれも淡い青の色を帯びていました。


 見上げると、花畑の真上には、周囲の巨木がまるで守るように枝葉を伸ばし、

 外の世界から完全に隔絶された“天井”を作っていました。

 おそらく、空を飛ぶ鳥たちですら、この場所の存在には気づかないでしょう。


 その枝葉の隙間から、細い線のように陽光が落ちていました。

 光が白い花びらに触れるたび、淡く照らされ、

 青い茎の一部はホタルのように、静かに呼吸するように光を放つのです。


 こんな光景、あなたは生まれて初めてでした。

 思わず花畑の真ん中で、空気をいっぱいに吸い込みました。

 甘い香りと一緒に、胸の内に熱がこみ上げてきます。


 ──その時。


「あら……? どうしたの、そんなところに佇んで。」


 鈴を転がしたような、幼く、優しい、澄んだ声。

 それが、どこからともなく、あなたの耳に届きました。


 突然の声に、あなたはびくりと肩を震わせました。

 甘い香りと光に気を取られていたせいで、“誰かの声がする”なんて、まるで想像もしていなかったのです。


 慌てて灰色フードの奥から視線を巡らせると──

 右手のほう、白い花畑の中でひときわ目立つ姿が、静かに立っていました。


 赤い頭巾をかぶり、牧歌的なデザインの服をまとった、小さな少女。


 あなたが声をかけるより早く、少女はにこりと柔らかく笑い、

 白い花の間をゆっくりと歩いてこちらへ近づいてきます。

 その歩みはまるで、風に押される花びらが、あなたへ向かう方向を“選んだ”かのように自然でした。


 彼女が近づくにつれ、輪郭がはっきりし、

 赤い頭巾の内側から覗く金色の長い髪が光を受けて揺れます。

 その瞳は──

 深い赤。月の光を閉じ込めた宝石みたいに、淡くきらりと煌めいていました。


 美しい。

 思わず、そんな言葉が脳裏に過ぎります。


 ──しかし。


 ほんの一瞬で、あなたは気づいてしまいました。

 この少女は、“ただの少女”ではない。


 彼女の服は、ところどころ裂け、穴が空き、

 薄汚れてはいないものの、とても“綺麗”とは呼べない状態にありました。

 腰や肩には、金属片を複雑に組み合わせたアクセサリーがぶら下がり、

 まるで「可愛さ」と「異質さ」をひとつの身体に強引に共存させたような、不思議な美意識が漂っています。


 そして──

 その中でも最も、あなたの心臓を強く掴んだもの。


 少女の右手が握っていたのは、

 棘の生えた、禍々しい棍棒。


 形は粗野で、扱いにくいはずなのに、

 まるで少女の身体の一部のように馴染んでいて、

 その“凶悪な気配”は、花畑の甘い香りを突き破って迫ってきました。


 あなたは、目を離すことができませんでした。

 少女が目の前に立ち、小首を可愛らしく傾けて見せるまで、

 ほんの数歩の距離が、まるで恐ろしく長く感じられたほどに。


 肺に吸い込んだ甘い香りが、胸の奥でひどい熱となって感じられます。


 少女は、にこり──と、

 花が開くように優しい笑みを浮かべ、声を発しました。


「迷子になっちゃったの?」


 澄んだ声。

 無垢そのものの響き。


 華奢な身体。

 幼く愛らしい顔立ち。

 そしてその手には、あまりに似つかわしくない棍棒。


 もしそれがなければ──

 彼女はきっと、どこかの童話に登場する“優しい赤ずきん”として信じられただろう。

 そんな錯覚を抱かせるほど、凛として気高い雰囲気をまとっていたのです。


 ………


 あなたは、フードの裾をぎゅっと掴みました。

 そして、そっと息を吸い込んで──彼女の問いに、静かに頷きます。


 その仕草を見て、少女はぱぁっと花のように微笑みました。


「だったら──出口まで案内してあげようか?」


 屈託のない笑顔。

 あまりにまぶしくて、あなたは思わず目を逸らしました。

 胸の奥がどくどくと波打ち、

 落ち着かせようと視線を足元へ向ければ、

 白い花びらの下で青い茎がほのかに光り、呼吸しているように輝いています。


 あなたはその青い光をじっと見つめました。


 そんな反応が、彼女には“照れている”ように見えたのでしょう。

 少女はくすりと笑い声をこぼしました。


「うふふ。どうしたの? 何照れてるの?

 あっ、もしかして──」


 その先を言われるのが気になって、

 一瞬ためらったものの、

 あなたはそっと彼女の顔へ視線を戻しました。


 赤ずきんの少女は、目を細め、

 その隙間から覗く赤い瞳が月光のように笑っています。


「あたし、そんなに可愛い?

 うふふ! あたしのことは“赤ずきん”って呼んでね!

 名前はね──今日はまだ決めてないの。」


 ……今日は?


 あなたの胸の奥で、小さな違和感がふくらみます。

 名前とは、その者の由来や存在を示す印。

 普通は、花にも、森にも、獣にも、人にも──

 あらかじめ決まっているもの。


 “今日はまだ決めてない”。


 その言い回しはあまりに奇妙でした。


 しかし、その違和感──

 “名前を今日決める”などという不穏な箱の中身を開けることは、

 どこか触れてはいけないものに触れるような気がして。


 ……けれど、無意識は正直でした。

 視界は自然と、彼女の肩にちょこんと乗せられている“得物”へ吸い寄せられます。


 棘だらけの、ごつごつとした木の棍棒。

 一体少女は、どこからこんなものを持ち出してきたというのでしょうか。


 あなたの視線に気づいたのでしょう。

 少女──赤ずきんは、軽く片眉を上げて言いました。


「あぁ、これ? うふふ、気になるよね、この棍棒。」


 軽く笑ったその直後──


 ブゥン!


 重たい風を切る、低く鋭い音。

 赤ずきんが棍棒をくるりと円を描くように回転させ、

 その先端が白い花をひとつ弾き飛ばしました。


 花びらが空中で散り、

 朝の微風に乗って水滴のように舞います。


 あなたがその舞い散る白を目で追っていると、

 赤ずきんは、まるで他愛もないことを続けるように口を開きました。


「でも大丈夫、安心して。

 あたしね、別に森に迷い込んだ人を襲ってるとかじゃないのよ。」

 そして、またあの、鈴のような声で──

「あはっ、うふふ!」


 さっきよりも強く、楽しげに笑う。

 何にそんなに愉快なのか、あなたにはわかりません。


 赤ずきんはもう一度、棍棒の根本をぐるんと軽々と回し、

 まるで朝のストレッチでもするかのように動かすと、

 ひょいっと肩の上に載せ直し、言いました。


「ちょうどね、“わる〜いオオカミ”を探して、この森を見回っていたところなの。」


 今度は、人差し指をほっぺにあて、

 「う〜ん」と困り顔をつくります。


「あなた、見かけてない?

 何かが動く音を聞いた、とかでもいいんだけどぉ……。

 おばあちゃんの話ではね、右目に傷がある、黒いオオカミなんだけど?」


 あなたは、その問いかけに、

 ゆっくりと、横に首を振りました。


 ドンッ!!


 乾いた大きな音が花畑に響きました。

 赤ずきんが、棍棒の先端で地面を叩きつけたのです。


 グリップの端に両手を添えたまま、

 彼女は「そっかぁ〜」と間延びした声で言い、

 その場にすとんと座り込みました。


 視線を自然と棍棒へ移すと──

 そこに押し潰された花が、

 まるで逃げ遅れた小さな命のように横たわっていました。


 茎は折れ、青い光はすでに消え失せ、

 つい先ほどまで呼吸していたはずの花が、

 ただの“無機質な白”として沈黙している。


 胸の奥がひりりと痛むようなの光景でした。


「どぉ〜しよっかなぁ〜」


 俯いたまま放たれた声は、

 花と土に向かって落ちていき、

 あなたには少しくぐもって聞こえます。


 表情が見えないせいか、

 その声は、

 棍棒がうなるような響きすら帯びていました。


 ………


 あなたはふと後ろを振り返ります。

 そして、これまで歩いてきた道へ視線を流しました。


 「この森を無事に抜けたい」

 それだけが胸の中で、静かに脈打っています。


 その時。


「よし!」


 赤ずきんが突然、軽やかに立ち上がりました。

 その勢いで、服に付いた金属のアクセサリーが

 チャリンッ

 と短い澄んだ音を鳴らします。


「とりあえず、あなたを出口まで送るね!」


 ぱっと広がる快活な笑顔。

 灰色のフードの陰から見つめるあなたは、

 その温度差にほんの一瞬、息を忘れました。


「でも、もしね──

 あたしと一緒に歩いてる途中で、

 探してるオオカミに出くわしたりしたら……

 ちょっとびっくりさせちゃうかもしれない。」


 “びっくりさせる”──

 その言葉の意味は、

 棍棒の存在とあわせて考えれば、

 嫌でも理解できてしまいます。


 あなたはゆっくりと頷きました。

 頷く以外、できることがなかったから。


「うふっ、大丈夫よっ!

 森の守り人として、あなたのことはちゃんと守ってあげるからね!」


 そう言うと彼女は、

 花畑をふらふらと歩き始めました。


 そして突然、

 棍棒を大きく振りかぶると──


 バサッ! バサッ!


 白い花を力任せに薙ぎ払っていきます。


 まるで、力を持て余した子どもが無邪気に遊んでいるようでもあり、

 落とし物を探す人が地面を叩いているようでもあり、

 ふと、棍棒が風を切る音に混じって──

 あなたの耳に、かすかに声が届いた気がしました。


「……くっさ」


 白い花びらが散るたび、甘い香りが舞い上がる。

 その中で 金の髪を振り乱しながら “戯れ”を続ける赤ずきんを、

 あなたはただ、立ち尽くしたまま見つめていました。


 ついて行くべきなのか、距離を置くべきなのか、判断がつきません。


 そんなあなたの迷いをまるで見透かしたように、

 赤ずきんがふいにくるりと振り返りました。


「もう〜、大丈夫だよ〜!

 あたしね、けっこうこう見えて強いんだよ? 昨日もね──」


 そう言いかけたところで、

 彼女の足が止まりました。


 赤い瞳が、どこか遠く、

 この花畑ではない“別の何か”を見つめている。


 ほんの一瞬、

 口元の端がぴく、と跳ねました。


 次の瞬間。


「ぷっ!」


 赤ずきんは突然、口元を押さえ、息を吹き出しました。

 声を出さずに、身体をひくひく震わせながら笑い始めます。


 腹を抱え、大きな息を吸い込み、

 涙まで浮かべて笑い切ったあと──


「──悪い人間たちをさ、“血祭り”に上げてあげたんだよね。

 ぷっ……はははははは!」


 何が可笑しいのか、あなたにはわかりませんでした。


 ──この場を離れたほうがいい。

 そう思ったあなたは、一歩だけ後ろへ足を引きました。


 そしてそっと振り返った、その時です。


「──ねぇねぇ。ちょっとだけ、顔をよく見せてくれない?」


 笑い混じりに、背中越しに飛んできた声。

 あなたの身体が石のように固まりました。


 返事をするべきか?

 逃げるべきか?

 耳を澄ませて、彼女が歩いて近づいてくる気配はないか──

 それだけに意識を集中させます。


「そのフードさ、ずっと深くかぶってるけど……取ってみて?」


 声の位置は変わらない。

 まだ遠い。

 まだ、距離はあるはず──そう思いたかった。


 あなたは返事をせず、

 花畑の向こう、木々の合間をじっと見つめました。

 とにかく距離を取るしかない。

 あの少女に関わってはいけない。

 その一心で、前へ──と足を踏み出した瞬間。


「ねぇ」


 ──左。

 異様なほど近くから。


 身体が反射的に跳ねました。


 振り向くと、

 天井のように覆う草の隙間から差し込む細い陽光が逆光となり、

 その向こうに“赤い月が二つ”浮かんでいるように見えました。


 赤ずきんの瞳でした。

 赤黒く、濡れたように煌めきながら、

 あなたを見上げています。


 灰色のフードの端を両手でぎゅっと握りしめる。

 そして──

 大きく、力いっぱい、首を横に振りました。


 赤ずきんは棍棒を胸元で抱きしめるようにして持ち、

 内股で、もじもじと足をすり合わせました。


「えぇ〜、いいじゃな〜い? おねがい〜?」


 駄々をこねる子どもの声色。

 あなたはもう一度、今度は先ほどよりも強く首を横に振りました。

 そして一歩、後ろへ下がる。


 それに合わせて、彼女も一歩、前へ。


 さらにあなたが下がれば、

 彼女もまた、ぴたりと距離を詰めてくる。


「……どうしても、ダメ?」


 花の香りと同じくらい甘ったるい声。

 花が愛を囁くような響き。

 頬を染め、前屈みで、小首をかしげたその姿は──


 “恍惚”すら帯びていました。


 あなたは咄嗟に首を縦に振りました。

 返事をすれば解放される──

 そんな淡い期待にすがるようにして。


 そして、振り返る寸前まで彼女を視界に捉えたまま、

 背を向けようとした、そのとき。


「……う〜ん、そっかぁ。」


 残念そうに項垂れた赤ずきん。

 さっきまでの快活さは、

 まるで枯れた花のようにしおれて見えました。


 あなたは安堵の息を一つ。

 そのまま木々の合間へ向かい、足早に歩き始めます。


「わかった」


 背中に、落ち着いた声が落ちてきました。

 その響きに嘘はないように思えた──その一瞬。


「な〜んてねっ!」


 花畑に弾けるような声。


「えいっ♡」


 途端、あなたの視界を縁取っていた灰色の布が、

 ファサッ……

 と音を立てて空へ舞いました。


 フードが消えた。

 頭が、素肌が露わになった。


 反射的に肩が震え、

 呼吸が浅くなり、

 胸の奥が奈落に落ちていくような絶望に飲まれます。


 振り返るべきではなかった。

 背を向けるべきではなかった。

 逃げるべきではなかった。


 今まで感じたどんな後悔よりも、

 深く、黒く、重い絶望が胸を支配して──


 あなたの心に、ひとつの言葉が浮かびました。


 ……やばい


 その瞬間。


 風を切る音。


 次いで──

 右脚に走る、聞いたこともないほど凶悪な衝撃。


 骨が軋む鈍い音。

 全身の力が抜け落ち、

 あなたの身体は白い花びらの絨毯の上へと倒れ込みました。


 声を上げようとしても、

 一瞬の痛みがあまりに鋭すぎて喉が震えるだけで、

 音になりませんでした。


 右脚へ手を伸ばすと、

 あり得ない方向へ曲がっている膝と、

 関節から湧水のように溢れ続ける血が目に飛び込みます。


 その赤は、白い花々に染み込み、

 じわりじわりと色を奪っていきました。


 “毛皮”を突き破って突き出た骨が、

 陽光に濡れたように光っています。


 その瞬間、

 手の震えが止まりませんでした。


 ──こんなにも肉が裂け、骨が飛び出しているのに、

 痛みが……ない。


 それに気づいたとき、

 胸の奥が凍りつくような恐怖に包まれます。


 そのとき。


「…………あら? まぁ──どうりで臭いと思った。」


 白い花びらの舞う上空から、

 愛らしく澄んだ声が降りてきます。


 あなたは本能だけで動きました。

 逃げなければ。


 右脚を押さえていた手に、じっとりと血がまとわりつきます。

 その血で地面を掻き、白い花畑を這いずり、

 花を引き抜き、潰し、

 茎の青い光をひとつ、またひとつと消していく。


 その行為が、

 まるで森ごと“命の灯”を踏みにじっているようでした。


 ──声がした。


 背後から。

 だが距離がわからない。

 どこにいるのかわからないことが、何より恐ろしい。


 あなたは恐怖に突き動かされ、

 振り返ってしまいました。


 そこには赤ずきんが、

 目を細め、頬を染め、

 花畑を散歩する子どものような歩幅で近づいてきていました。


 ……距離は、ほとんどありません。

 横を並走するように、

 彼女の影があなたの影に重なります。


「なんて大きな目。

 なんて黒い鼻……

 うちのおばあちゃんを、ぺろっと食べちゃいそうな大きな口。」


 一歩。


「それに、その……とんがった耳と……」


 もう一歩。


「──右目の、傷。」


 その言葉は、

 まるで鍵穴に差し込んだ錠前を

 最後にカチリと合わせる音のようでした。


 あなたは残された力をかき集め、

 這って、這って、白い花畑から外へ──


 グシャッ!!


 黒い毛皮の奥で歪んだ右脚が、

 赤ずきんの足に容赦なく踏み抜かれました。


 悲鳴を上げたのか、

 痛すぎて声が出なかったのか、

 あなた自身にも判別できませんでした。


 赤ずきんは、中腰のまま、

 乱暴にあなたのコートへ手を突っ込みました。


 そして、何かを掴んで引き抜く。


 舞い上がるお札。

 獅子の描かれた、大きく「一万」と記された紙束。


「これ、うちのおばあちゃんのだよね?」


 その声には……

 一切の感情がありませんでした。


 表情がどうなっていたのか。

 それを見る勇気はありません。


 むせ返りそうな甘い香り。

 汗が滝のように流れ、

 震えが止まらず、

 世界がぐらつく。


「……………………うふふ。」


 次の瞬間、少女はスキップを始めました。

 あなたの周囲を軽やかに回り、

 棍棒をくるくると回しながら鼻歌を歌う。


「今日は、あたし……

 明るいうちに帰れそうね──!!」


 赤ずきんは嬉しそうに言いました。


「ねぇねぇ。やっぱり、森の奥までいきましょうよ?

 せっかくこうして──あなたと“出会えた”んだもの。

 あ……でも、その足じゃ歩けないよね。

 大丈夫、大丈夫。動かなくてもいいの。

 とにかくね、あたし、あなたと──“もう少し、お話がしたいの”」


 あなたは歯を食いしばり、

 地面を掻きむしり、前へ前へと這います。


 もはやそれが、

 唯一の“生への抵抗”でした。


 白い花が散って、影が波紋のように揺れます。

 あなたの視界は血の気を失い、世界がにじんでいきます。


 少女は棍棒を胸の前でくるくる回しながら、

 ガラス玉の縁を指でなぞったような、かすかに震える声で──

 歌い始めました。


 ──


 ♪ いーちの いたずら まちの さかばで

  けんかを はじめて みぎめに きず ♪


 ……


 棍棒がひゅっ……と空を裂きました。

 その一振りはあなたのすぐ目の前をかすめ、

 あなたの右目の“古い痛み”を、まるで引きずり出すように蘇らせます。


 視界がぶれ、花畑が左右に傾きます。

 少女は歌に合わせて花を踏み散らし、

 青白い光がひとつ、またひとつ潰れていきます。


 「ねぇ……その傷、よく似合ってるよ?」

 笑いながら、足であなたの折れた脚を、つん、と蹴りました。


 ──


 ♪ にーの いたずら おばあちゃんちに

  そーっと しのびこみ おかねを ぬすむ ♪


 ……


 棍棒の先が地面を軽く突いた瞬間、

 周囲の白い花がぱらぱらと崩れました。


 少女はわざとらしく肩をすくめ、

「“そーっと”ね、うふふ」

 と囁きます。


 その声は甘いのに、絹のように乾いていて──

 あなたの背筋へ冷たい汗が一筋、伝いました。


 棍棒の影があなたの頭を包むように、ゆらり、と落ちてきます。


 ──


 ♪ さーんの いたずら おうちを けちらし

  しゃしんを ひとつ かまどへ ぽいっ ♪


 ……


 少女の声が、ここでほんのわずか震えました。

 棍棒を握る指先が強張り、赤い瞳の奥に熱が宿ります。


 ──燃える写真。

 そこには笑顔の少女と、その肩を抱く老女の姿。


 歌声の裏で、

 すすり泣くような呼吸が、聞こえた気がします。


 ──


 ♪ よーんの いたずら おばあちゃんの て

 ……かぷり と かじって とりかえせない ♪


 ……


 少女の声が、ここでかすかに震えました。

 棍棒を持つ手が音を鳴らして強張り、赤い瞳の奥が揺れます。


「燃える写真の中で笑っていた、おばあちゃんの腕。

 あの優しい手。もう二度と戻らない手。」


 きっと、その“記憶”が彼女の胸に押し寄せた瞬間でした。


 ……あなたの手が、地面を這います。

 それでも逃げようと、必死に土を掴みます。


 その腕を、少女の視線が捉えました。


 小さく、嗚咽のような息が漏れています。


「……返してよ……

 返して……よ……」


 赤い月の雫を、白い花びらが受け止めました。

 ひとつ、またひとつ──


 少女は棍棒の先で、あなたの手首をそっと押さえました。

 その仕草は、まるで壊れ物に触れるみたいに優しくて……


 そして──

 まるで“花を押しつぶす”みたいに、

 細い力でゆっくりと、手首を地面へねじ伏せます。


 骨が、花を踏むような軽い音で砕けました。


「返してよ……うちのおばあちゃんの……手を……」


 ぽたりぽたり……。

 少女はあなたの動かなくなった腕から目を離しませんでした。


「……とりかえせないの。」


 ──


 ♪ ごーの いたずら くらやみの もりで

 ころんで ころんで ランタン ぱりん ♪


 ……


「……おばあちゃんが、せっかくあたしに

 プレゼントしてくれた、大事なものだったのに……」


 彼女は棍棒を抱きしめます。

 そして、その声音は、甘くて、ひどく静かでした。


「……どうして、こんなことするの。」


 静寂。

 世界が、そこで一度、音を止めました。


 ──


 ♪ ろくでも しちでも きりがないほど

 おおかみさんは あっちで かくれて

 こっちで わらう ♪


 ……


 歌が再び軽くなります。

 少女のスキップに合わせて、棍棒がひゅん、と空を擦り、

 そのたびにあなたの視界がにじみました。


 動かなくなった、手と足。

 胸の奥で暴れるような鼓動。


 どうしてこうなったのだろう──


 そんな言葉が、霞む意識の底でゆっくり浮かび沈みます。


 ろくでもない──


 それだけが、これまでの人生をまとめる言葉でした。


 花の香りに混じって、湿った土の匂いが鼻を刺します。

 青い茎の光が、あなたの頬を淡く照らしました。


 ゆっくりと顔を上げると、

 草の天蓋の下で、少女が立っていました。


 眉間に深い皺を寄せ、

 目元だけは笑い、

 頬には乾いた雫の跡が残り、

 それでいて歯をきゅっと噛み、

 何を感じているのか、もう判別できない表情です。


 にじんだ視界の中で、

 その顔だけが、炎のように揺れて見えます。


 少女は立ち止まり、あなたの目を見ました。

 その声色は──あの時。出会ってしまった瞬間と、

 なにも変わらない“鈴の音”でした。


「──でもね。さいごの いちばん ひどいのは……」


 彼女は棍棒をゆっくり持ち上げます。


「あたしの まえで、ウソをつく。」


 花畑に風が走り、

 白い花が波のように揺れ、

 棍棒の影が、あなたの視界いっぱいに広がりました。


 今日だけは、白い花畑に、

 真っ赤な花がたくさん咲いて──


 世界が、そこで静かに途切れました。


「──はい、終わり。」


─ 「赤ずきんは花を踏んで歌う」|完 ─

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