赤ずきんは花を踏んで歌う
StoryHug
赤ずきんは花を踏んで歌う
それは、春の息吹が満ちる森の奥でのことでした。
緑はきらきらと光をまとい、花々は色とりどりに咲き誇り、蝶は羽音ひとつ立てずに宙を漂っています。鳥たちの囀りがあちこちからこぼれ、木々の隙間を縫う陽光は、あたかも“光の雨”のように、やわらかな粒となって森の中へ降り注いでいました。
そんな幻想的な風景のただなかで、あなたは木陰に身を寄せ、ふと空を見上げます。
灰色のフードの合間から覗く青空は、雲ひとつなく晴れ渡り、悩みなど何ひとつ存在しないかのように澄みきっています。
──けれど、その澄んだ空とは裏腹に、あなたの胸の内は途方に暮れた思いで満たされていました。
昨晩、この森へ足を踏み入れたとき、木の根に足を引っ掛けて盛大に転んでしまったのです。幸い怪我はありませんでしたが、転倒の拍子に持っていたランタンを壊してしまい、暗闇の中を手探りで歩く羽目になりました。
気づけば奥へ奥へと迷い込んでしまい、深い夜と疲労が、あなたの身体にどっしりとのしかかっていたのです。
やがて、月明かりをまるごと映し返す湖面のほとりへと出たとき、あなたはそこで一度腰を下ろしました。
そのまま夜を越え、朝になって澄んだ水で顔を洗い、喉を潤し、森を出るために再び歩き出したものの……出口は一向に見つかりません。
もしも蝶のような軽い羽があったなら。
もしも、この森の上空をひと息で越えられたなら。
あなたはきっと今ごろ、別のどこかで安全な時間を過ごしていたでしょう。
長いため息が、あなたの胸からこぼれました。
フード付きの厚手のコートのポケットに手を突っ込むと、クシャリと紙の音がします。
取り出してみれば、それは数枚の“お札”。
そこには、どこか威厳を感じさせる獅子の姿と、“一万”という大きな数字。
……しかし、この森には店のひとつもありません。
お金はあるのに、買えるものがない。買える場所もない。
金で命がどうにもならない状況に、あなたは思わず眉をひそめました。
目を閉じ、昨晩の道程を思い返そうとしたとき──
ガサッ……。
草の陰で、何かが小さく動く音がしました。
獣でしょうか。この森に棲む生き物に、あなたは詳しくありません。
空腹で身体はふらついています。今この状態で何かに襲われれば、抵抗できる自信はありませんでした。
あなたはそっと立ち上がり、太陽の差す方向へと歩き出しました。
………
あなたは、草の陰で聞こえた音の正体を確かめられないまま、しばらく森の中を歩き続けていました。
耳を澄ませるたび、風が枝葉を揺らし、サァ……と柔らかな音が、まるであなたを包み込むように響きます。
土から歪な形をした木の根が顔を出し、湿気を帯びた土が足に軽く張りつく。
自然は豊かで、どこを切り取っても美しいはずなのに、いつしかどの景色も同じに見えてくるようでした。
出口は……いったいどこにあるのでしょう。
その時でした。
ふいに、甘い香りが、あなたの鼻先をかすめました。
この森に入ってから一度も嗅いだことのない香りです。
あなたは思わず立ち止まり、周囲をキョロキョロと見渡しました。
すると、木と木の間の奥──薄暗い影の中に、白い何かがゆらりと揺れているのが見えました。
胸の奥をくすぐるような好奇心。
そして、どうか出口へ繋がっていますように──という微かな期待に押され、あなたはその白い影へ向かって歩き始めます。
近づくほどに、先ほどの甘い香りが濃くなっていきます。
森のどこからともなく漂うのではなく、“そこ”から発せられている──そんな確信が、足を自然に速めさせました。
木の肌に手を置き、慎重に根を跨ぎ、もう一歩。
その瞬間、視界がぱっと開けました。
そこは──
真っ白な花畑でした。
むせ返るほど濃密な甘い香りが、一気にあなたを包み込みます。
花びらは雪のように白く、その茎はどれも淡い青の色を帯びていました。
見上げると、花畑の真上には、周囲の巨木がまるで守るように枝葉を伸ばし、
外の世界から完全に隔絶された“天井”を作っていました。
おそらく、空を飛ぶ鳥たちですら、この場所の存在には気づかないでしょう。
その枝葉の隙間から、細い線のように陽光が落ちていました。
光が白い花びらに触れるたび、淡く照らされ、
青い茎の一部はホタルのように、静かに呼吸するように光を放つのです。
こんな光景、あなたは生まれて初めてでした。
思わず花畑の真ん中で、空気をいっぱいに吸い込みました。
甘い香りと一緒に、胸の内に熱がこみ上げてきます。
──その時。
「あら……? どうしたの、そんなところに佇んで。」
鈴を転がしたような、幼く、優しい、澄んだ声。
それが、どこからともなく、あなたの耳に届きました。
突然の声に、あなたはびくりと肩を震わせました。
甘い香りと光に気を取られていたせいで、“誰かの声がする”なんて、まるで想像もしていなかったのです。
慌てて灰色フードの奥から視線を巡らせると──
右手のほう、白い花畑の中でひときわ目立つ姿が、静かに立っていました。
赤い頭巾をかぶり、牧歌的なデザインの服をまとった、小さな少女。
あなたが声をかけるより早く、少女はにこりと柔らかく笑い、
白い花の間をゆっくりと歩いてこちらへ近づいてきます。
その歩みはまるで、風に押される花びらが、あなたへ向かう方向を“選んだ”かのように自然でした。
彼女が近づくにつれ、輪郭がはっきりし、
赤い頭巾の内側から覗く金色の長い髪が光を受けて揺れます。
その瞳は──
深い赤。月の光を閉じ込めた宝石みたいに、淡くきらりと煌めいていました。
美しい。
思わず、そんな言葉が脳裏に過ぎります。
──しかし。
ほんの一瞬で、あなたは気づいてしまいました。
この少女は、“ただの少女”ではない。
彼女の服は、ところどころ裂け、穴が空き、
薄汚れてはいないものの、とても“綺麗”とは呼べない状態にありました。
腰や肩には、金属片を複雑に組み合わせたアクセサリーがぶら下がり、
まるで「可愛さ」と「異質さ」をひとつの身体に強引に共存させたような、不思議な美意識が漂っています。
そして──
その中でも最も、あなたの心臓を強く掴んだもの。
少女の右手が握っていたのは、
棘の生えた、禍々しい棍棒。
形は粗野で、扱いにくいはずなのに、
まるで少女の身体の一部のように馴染んでいて、
その“凶悪な気配”は、花畑の甘い香りを突き破って迫ってきました。
あなたは、目を離すことができませんでした。
少女が目の前に立ち、小首を可愛らしく傾けて見せるまで、
ほんの数歩の距離が、まるで恐ろしく長く感じられたほどに。
肺に吸い込んだ甘い香りが、胸の奥でひどい熱となって感じられます。
少女は、にこり──と、
花が開くように優しい笑みを浮かべ、声を発しました。
「迷子になっちゃったの?」
澄んだ声。
無垢そのものの響き。
華奢な身体。
幼く愛らしい顔立ち。
そしてその手には、あまりに似つかわしくない棍棒。
もしそれがなければ──
彼女はきっと、どこかの童話に登場する“優しい赤ずきん”として信じられただろう。
そんな錯覚を抱かせるほど、凛として気高い雰囲気をまとっていたのです。
………
あなたは、フードの裾をぎゅっと掴みました。
そして、そっと息を吸い込んで──彼女の問いに、静かに頷きます。
その仕草を見て、少女はぱぁっと花のように微笑みました。
「だったら──出口まで案内してあげようか?」
屈託のない笑顔。
あまりにまぶしくて、あなたは思わず目を逸らしました。
胸の奥がどくどくと波打ち、
落ち着かせようと視線を足元へ向ければ、
白い花びらの下で青い茎がほのかに光り、呼吸しているように輝いています。
あなたはその青い光をじっと見つめました。
そんな反応が、彼女には“照れている”ように見えたのでしょう。
少女はくすりと笑い声をこぼしました。
「うふふ。どうしたの? 何照れてるの?
あっ、もしかして──」
その先を言われるのが気になって、
一瞬ためらったものの、
あなたはそっと彼女の顔へ視線を戻しました。
赤ずきんの少女は、目を細め、
その隙間から覗く赤い瞳が月光のように笑っています。
「あたし、そんなに可愛い?
うふふ! あたしのことは“赤ずきん”って呼んでね!
名前はね──今日はまだ決めてないの。」
……今日は?
あなたの胸の奥で、小さな違和感がふくらみます。
名前とは、その者の由来や存在を示す印。
普通は、花にも、森にも、獣にも、人にも──
あらかじめ決まっているもの。
“今日はまだ決めてない”。
その言い回しはあまりに奇妙でした。
しかし、その違和感──
“名前を今日決める”などという不穏な箱の中身を開けることは、
どこか触れてはいけないものに触れるような気がして。
……けれど、無意識は正直でした。
視界は自然と、彼女の肩にちょこんと乗せられている“得物”へ吸い寄せられます。
棘だらけの、ごつごつとした木の棍棒。
一体少女は、どこからこんなものを持ち出してきたというのでしょうか。
あなたの視線に気づいたのでしょう。
少女──赤ずきんは、軽く片眉を上げて言いました。
「あぁ、これ? うふふ、気になるよね、この棍棒。」
軽く笑ったその直後──
ブゥン!
重たい風を切る、低く鋭い音。
赤ずきんが棍棒をくるりと円を描くように回転させ、
その先端が白い花をひとつ弾き飛ばしました。
花びらが空中で散り、
朝の微風に乗って水滴のように舞います。
あなたがその舞い散る白を目で追っていると、
赤ずきんは、まるで他愛もないことを続けるように口を開きました。
「でも大丈夫、安心して。
あたしね、別に森に迷い込んだ人を襲ってるとかじゃないのよ。」
そして、またあの、鈴のような声で──
「あはっ、うふふ!」
さっきよりも強く、楽しげに笑う。
何にそんなに愉快なのか、あなたにはわかりません。
赤ずきんはもう一度、棍棒の根本をぐるんと軽々と回し、
まるで朝のストレッチでもするかのように動かすと、
ひょいっと肩の上に載せ直し、言いました。
「ちょうどね、“わる〜いオオカミ”を探して、この森を見回っていたところなの。」
今度は、人差し指をほっぺにあて、
「う〜ん」と困り顔をつくります。
「あなた、見かけてない?
何かが動く音を聞いた、とかでもいいんだけどぉ……。
おばあちゃんの話ではね、右目に傷がある、黒いオオカミなんだけど?」
あなたは、その問いかけに、
ゆっくりと、横に首を振りました。
ドンッ!!
乾いた大きな音が花畑に響きました。
赤ずきんが、棍棒の先端で地面を叩きつけたのです。
グリップの端に両手を添えたまま、
彼女は「そっかぁ〜」と間延びした声で言い、
その場にすとんと座り込みました。
視線を自然と棍棒へ移すと──
そこに押し潰された花が、
まるで逃げ遅れた小さな命のように横たわっていました。
茎は折れ、青い光はすでに消え失せ、
つい先ほどまで呼吸していたはずの花が、
ただの“無機質な白”として沈黙している。
胸の奥がひりりと痛むようなの光景でした。
「どぉ〜しよっかなぁ〜」
俯いたまま放たれた声は、
花と土に向かって落ちていき、
あなたには少しくぐもって聞こえます。
表情が見えないせいか、
その声は、
棍棒がうなるような響きすら帯びていました。
………
あなたはふと後ろを振り返ります。
そして、これまで歩いてきた道へ視線を流しました。
「この森を無事に抜けたい」
それだけが胸の中で、静かに脈打っています。
その時。
「よし!」
赤ずきんが突然、軽やかに立ち上がりました。
その勢いで、服に付いた金属のアクセサリーが
チャリンッ
と短い澄んだ音を鳴らします。
「とりあえず、あなたを出口まで送るね!」
ぱっと広がる快活な笑顔。
灰色のフードの陰から見つめるあなたは、
その温度差にほんの一瞬、息を忘れました。
「でも、もしね──
あたしと一緒に歩いてる途中で、
探してるオオカミに出くわしたりしたら……
ちょっとびっくりさせちゃうかもしれない。」
“びっくりさせる”──
その言葉の意味は、
棍棒の存在とあわせて考えれば、
嫌でも理解できてしまいます。
あなたはゆっくりと頷きました。
頷く以外、できることがなかったから。
「うふっ、大丈夫よっ!
森の守り人として、あなたのことはちゃんと守ってあげるからね!」
そう言うと彼女は、
花畑をふらふらと歩き始めました。
そして突然、
棍棒を大きく振りかぶると──
バサッ! バサッ!
白い花を力任せに薙ぎ払っていきます。
まるで、力を持て余した子どもが無邪気に遊んでいるようでもあり、
落とし物を探す人が地面を叩いているようでもあり、
ふと、棍棒が風を切る音に混じって──
あなたの耳に、かすかに声が届いた気がしました。
「……くっさ」
白い花びらが散るたび、甘い香りが舞い上がる。
その中で 金の髪を振り乱しながら “戯れ”を続ける赤ずきんを、
あなたはただ、立ち尽くしたまま見つめていました。
ついて行くべきなのか、距離を置くべきなのか、判断がつきません。
そんなあなたの迷いをまるで見透かしたように、
赤ずきんがふいにくるりと振り返りました。
「もう〜、大丈夫だよ〜!
あたしね、けっこうこう見えて強いんだよ? 昨日もね──」
そう言いかけたところで、
彼女の足が止まりました。
赤い瞳が、どこか遠く、
この花畑ではない“別の何か”を見つめている。
ほんの一瞬、
口元の端がぴく、と跳ねました。
次の瞬間。
「ぷっ!」
赤ずきんは突然、口元を押さえ、息を吹き出しました。
声を出さずに、身体をひくひく震わせながら笑い始めます。
腹を抱え、大きな息を吸い込み、
涙まで浮かべて笑い切ったあと──
「──悪い人間たちをさ、“血祭り”に上げてあげたんだよね。
ぷっ……はははははは!」
何が可笑しいのか、あなたにはわかりませんでした。
──この場を離れたほうがいい。
そう思ったあなたは、一歩だけ後ろへ足を引きました。
そしてそっと振り返った、その時です。
「──ねぇねぇ。ちょっとだけ、顔をよく見せてくれない?」
笑い混じりに、背中越しに飛んできた声。
あなたの身体が石のように固まりました。
返事をするべきか?
逃げるべきか?
耳を澄ませて、彼女が歩いて近づいてくる気配はないか──
それだけに意識を集中させます。
「そのフードさ、ずっと深くかぶってるけど……取ってみて?」
声の位置は変わらない。
まだ遠い。
まだ、距離はあるはず──そう思いたかった。
あなたは返事をせず、
花畑の向こう、木々の合間をじっと見つめました。
とにかく距離を取るしかない。
あの少女に関わってはいけない。
その一心で、前へ──と足を踏み出した瞬間。
「ねぇ」
──左。
異様なほど近くから。
身体が反射的に跳ねました。
振り向くと、
天井のように覆う草の隙間から差し込む細い陽光が逆光となり、
その向こうに“赤い月が二つ”浮かんでいるように見えました。
赤ずきんの瞳でした。
赤黒く、濡れたように煌めきながら、
あなたを見上げています。
灰色のフードの端を両手でぎゅっと握りしめる。
そして──
大きく、力いっぱい、首を横に振りました。
赤ずきんは棍棒を胸元で抱きしめるようにして持ち、
内股で、もじもじと足をすり合わせました。
「えぇ〜、いいじゃな〜い? おねがい〜?」
駄々をこねる子どもの声色。
あなたはもう一度、今度は先ほどよりも強く首を横に振りました。
そして一歩、後ろへ下がる。
それに合わせて、彼女も一歩、前へ。
さらにあなたが下がれば、
彼女もまた、ぴたりと距離を詰めてくる。
「……どうしても、ダメ?」
花の香りと同じくらい甘ったるい声。
花が愛を囁くような響き。
頬を染め、前屈みで、小首をかしげたその姿は──
“恍惚”すら帯びていました。
あなたは咄嗟に首を縦に振りました。
返事をすれば解放される──
そんな淡い期待にすがるようにして。
そして、振り返る寸前まで彼女を視界に捉えたまま、
背を向けようとした、そのとき。
「……う〜ん、そっかぁ。」
残念そうに項垂れた赤ずきん。
さっきまでの快活さは、
まるで枯れた花のようにしおれて見えました。
あなたは安堵の息を一つ。
そのまま木々の合間へ向かい、足早に歩き始めます。
「わかった」
背中に、落ち着いた声が落ちてきました。
その響きに嘘はないように思えた──その一瞬。
「な〜んてねっ!」
花畑に弾けるような声。
「えいっ♡」
途端、あなたの視界を縁取っていた灰色の布が、
ファサッ……
と音を立てて空へ舞いました。
フードが消えた。
頭が、素肌が露わになった。
反射的に肩が震え、
呼吸が浅くなり、
胸の奥が奈落に落ちていくような絶望に飲まれます。
振り返るべきではなかった。
背を向けるべきではなかった。
逃げるべきではなかった。
今まで感じたどんな後悔よりも、
深く、黒く、重い絶望が胸を支配して──
あなたの心に、ひとつの言葉が浮かびました。
……やばい
その瞬間。
風を切る音。
次いで──
右脚に走る、聞いたこともないほど凶悪な衝撃。
骨が軋む鈍い音。
全身の力が抜け落ち、
あなたの身体は白い花びらの絨毯の上へと倒れ込みました。
声を上げようとしても、
一瞬の痛みがあまりに鋭すぎて喉が震えるだけで、
音になりませんでした。
右脚へ手を伸ばすと、
あり得ない方向へ曲がっている膝と、
関節から湧水のように溢れ続ける血が目に飛び込みます。
その赤は、白い花々に染み込み、
じわりじわりと色を奪っていきました。
“毛皮”を突き破って突き出た骨が、
陽光に濡れたように光っています。
その瞬間、
手の震えが止まりませんでした。
──こんなにも肉が裂け、骨が飛び出しているのに、
痛みが……ない。
それに気づいたとき、
胸の奥が凍りつくような恐怖に包まれます。
そのとき。
「…………あら? まぁ──どうりで臭いと思った。」
白い花びらの舞う上空から、
愛らしく澄んだ声が降りてきます。
あなたは本能だけで動きました。
逃げなければ。
右脚を押さえていた手に、じっとりと血がまとわりつきます。
その血で地面を掻き、白い花畑を這いずり、
花を引き抜き、潰し、
茎の青い光をひとつ、またひとつと消していく。
その行為が、
まるで森ごと“命の灯”を踏みにじっているようでした。
──声がした。
背後から。
だが距離がわからない。
どこにいるのかわからないことが、何より恐ろしい。
あなたは恐怖に突き動かされ、
振り返ってしまいました。
そこには赤ずきんが、
目を細め、頬を染め、
花畑を散歩する子どものような歩幅で近づいてきていました。
……距離は、ほとんどありません。
横を並走するように、
彼女の影があなたの影に重なります。
「なんて大きな目。
なんて黒い鼻……
うちのおばあちゃんを、ぺろっと食べちゃいそうな大きな口。」
一歩。
「それに、その……とんがった耳と……」
もう一歩。
「──右目の、傷。」
その言葉は、
まるで鍵穴に差し込んだ錠前を
最後にカチリと合わせる音のようでした。
あなたは残された力をかき集め、
這って、這って、白い花畑から外へ──
グシャッ!!
黒い毛皮の奥で歪んだ右脚が、
赤ずきんの足に容赦なく踏み抜かれました。
悲鳴を上げたのか、
痛すぎて声が出なかったのか、
あなた自身にも判別できませんでした。
赤ずきんは、中腰のまま、
乱暴にあなたのコートへ手を突っ込みました。
そして、何かを掴んで引き抜く。
舞い上がるお札。
獅子の描かれた、大きく「一万」と記された紙束。
「これ、うちのおばあちゃんのだよね?」
その声には……
一切の感情がありませんでした。
表情がどうなっていたのか。
それを見る勇気はありません。
むせ返りそうな甘い香り。
汗が滝のように流れ、
震えが止まらず、
世界がぐらつく。
「……………………うふふ。」
次の瞬間、少女はスキップを始めました。
あなたの周囲を軽やかに回り、
棍棒をくるくると回しながら鼻歌を歌う。
「今日は、あたし……
明るいうちに帰れそうね──!!」
赤ずきんは嬉しそうに言いました。
「ねぇねぇ。やっぱり、森の奥までいきましょうよ?
せっかくこうして──あなたと“出会えた”んだもの。
あ……でも、その足じゃ歩けないよね。
大丈夫、大丈夫。動かなくてもいいの。
とにかくね、あたし、あなたと──“もう少し、お話がしたいの”」
あなたは歯を食いしばり、
地面を掻きむしり、前へ前へと這います。
もはやそれが、
唯一の“生への抵抗”でした。
白い花が散って、影が波紋のように揺れます。
あなたの視界は血の気を失い、世界がにじんでいきます。
少女は棍棒を胸の前でくるくる回しながら、
ガラス玉の縁を指でなぞったような、かすかに震える声で──
歌い始めました。
──
♪ いーちの いたずら まちの さかばで
けんかを はじめて みぎめに きず ♪
……
棍棒がひゅっ……と空を裂きました。
その一振りはあなたのすぐ目の前をかすめ、
あなたの右目の“古い痛み”を、まるで引きずり出すように蘇らせます。
視界がぶれ、花畑が左右に傾きます。
少女は歌に合わせて花を踏み散らし、
青白い光がひとつ、またひとつ潰れていきます。
「ねぇ……その傷、よく似合ってるよ?」
笑いながら、足であなたの折れた脚を、つん、と蹴りました。
──
♪ にーの いたずら おばあちゃんちに
そーっと しのびこみ おかねを ぬすむ ♪
……
棍棒の先が地面を軽く突いた瞬間、
周囲の白い花がぱらぱらと崩れました。
少女はわざとらしく肩をすくめ、
「“そーっと”ね、うふふ」
と囁きます。
その声は甘いのに、絹のように乾いていて──
あなたの背筋へ冷たい汗が一筋、伝いました。
棍棒の影があなたの頭を包むように、ゆらり、と落ちてきます。
──
♪ さーんの いたずら おうちを けちらし
しゃしんを ひとつ かまどへ ぽいっ ♪
……
少女の声が、ここでほんのわずか震えました。
棍棒を握る指先が強張り、赤い瞳の奥に熱が宿ります。
──燃える写真。
そこには笑顔の少女と、その肩を抱く老女の姿。
歌声の裏で、
すすり泣くような呼吸が、聞こえた気がします。
──
♪ よーんの いたずら おばあちゃんの て
……かぷり と かじって とりかえせない ♪
……
少女の声が、ここでかすかに震えました。
棍棒を持つ手が音を鳴らして強張り、赤い瞳の奥が揺れます。
「燃える写真の中で笑っていた、おばあちゃんの腕。
あの優しい手。もう二度と戻らない手。」
きっと、その“記憶”が彼女の胸に押し寄せた瞬間でした。
……あなたの手が、地面を這います。
それでも逃げようと、必死に土を掴みます。
その腕を、少女の視線が捉えました。
小さく、嗚咽のような息が漏れています。
「……返してよ……
返して……よ……」
赤い月の雫を、白い花びらが受け止めました。
ひとつ、またひとつ──
少女は棍棒の先で、あなたの手首をそっと押さえました。
その仕草は、まるで壊れ物に触れるみたいに優しくて……
そして──
まるで“花を押しつぶす”みたいに、
細い力でゆっくりと、手首を地面へねじ伏せます。
骨が、花を踏むような軽い音で砕けました。
「返してよ……うちのおばあちゃんの……手を……」
ぽたりぽたり……。
少女はあなたの動かなくなった腕から目を離しませんでした。
「……とりかえせないの。」
──
♪ ごーの いたずら くらやみの もりで
ころんで ころんで ランタン ぱりん ♪
……
「……おばあちゃんが、せっかくあたしに
プレゼントしてくれた、大事なものだったのに……」
彼女は棍棒を抱きしめます。
そして、その声音は、甘くて、ひどく静かでした。
「……どうして、こんなことするの。」
静寂。
世界が、そこで一度、音を止めました。
──
♪ ろくでも しちでも きりがないほど
おおかみさんは あっちで かくれて
こっちで わらう ♪
……
歌が再び軽くなります。
少女のスキップに合わせて、棍棒がひゅん、と空を擦り、
そのたびにあなたの視界がにじみました。
動かなくなった、手と足。
胸の奥で暴れるような鼓動。
どうしてこうなったのだろう──
そんな言葉が、霞む意識の底でゆっくり浮かび沈みます。
ろくでもない──
それだけが、これまでの人生をまとめる言葉でした。
花の香りに混じって、湿った土の匂いが鼻を刺します。
青い茎の光が、あなたの頬を淡く照らしました。
ゆっくりと顔を上げると、
草の天蓋の下で、少女が立っていました。
眉間に深い皺を寄せ、
目元だけは笑い、
頬には乾いた雫の跡が残り、
それでいて歯をきゅっと噛み、
何を感じているのか、もう判別できない表情です。
にじんだ視界の中で、
その顔だけが、炎のように揺れて見えます。
少女は立ち止まり、あなたの目を見ました。
その声色は──あの時。出会ってしまった瞬間と、
なにも変わらない“鈴の音”でした。
「──でもね。さいごの いちばん ひどいのは……」
彼女は棍棒をゆっくり持ち上げます。
「あたしの まえで、ウソをつく。」
花畑に風が走り、
白い花が波のように揺れ、
棍棒の影が、あなたの視界いっぱいに広がりました。
今日だけは、白い花畑に、
真っ赤な花がたくさん咲いて──
世界が、そこで静かに途切れました。
「──はい、終わり。」
─ 「赤ずきんは花を踏んで歌う」|完 ─
赤ずきんは花を踏んで歌う StoryHug @StoryHug
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