観測者の罪
奈良まさや
第1話
去年の彗星観測の夜——俺が「見た」せいで、彼女は死んだ。
だから今年、もう一度だけ観測する。世界をやり直すために。
◆◆◆ 第1章
山梨県・北杜。標高一千五百メートルのキャンプ場。
二〇三八年、八月。空は薄く群青を溶かしたような色をしていた。
遠くの尾根がかすみ、夜の気配だけが静かに森を満たしていく。
テントのロープを締めながら、神野透は小さく息を吐いた。
「風向き、いい。湿度も低い。……彗星観測には、完璧だな。」
横で焚き火の準備をしていた悠人が笑う。
「透先輩、ほんとに天気予報より当てになりますね。
量子レベルで晴れ男ってやつっすか?」
「2年連続で、彗星観測って、それだけで奇跡ですよね?」
透は応えなかった。
その言葉の中に、どこか刺さる響きを感じたからだ。
彼はもう、確率という言葉に安らぎを見いだせなくなっていた。
去年、ひとりの女性が確率の向こうに消えた、その夜から。
透の彼女、葵が転落して、一年がたった。
焚き火に火がつく。
炎の揺らぎが、透の瞳に彗星の尾のように映った。
淡く光る粒子のひとつひとつが、まるで観測の残像のように。
――それは、“見たいものだけを見てしまう観測者”の危うさを、
彼自身に静かに思い出させていた。
⸻
「真帆、望遠鏡、セット完了しました」
カメラ好きの真帆が、トライポッドの角度を微調整しながら言う。
その横で悠人が携帯を覗き込む。
――《今夜はXJ-2038彗星が地球に最接近。肉眼での観測も可能》
「去年と同じ時期に、また似た彗星が見られるなんて珍しいっすよね」
悠人が言った。
透は焚き火越しに二人を見つめた。
若く、自然体で、互いに目を合わせ笑い合う二人。
その姿だけが、透の胸を締めつけた。
相手を観測し、存在を確定させる者同士――
その関係が、この夜における最初の「条件」だった。
⸻
「透先輩、本当に俺たち二人だけでよかったんですか?
光太たちは明日合流で。」
「うん。まずは試験観測。
初回は、観測者を最小限にしておきたいんだ。」
「……なんか、実験っぽいっすね。」
透は静かにうなずいた。
「これは、実験だよ。――量子力学の観測の実験だ。」
真帆が少し笑う。
「ウィグナーの友人、でしたっけ? 去年も葵さんとそんな話してましたね。」
その名を聞いた瞬間、透の手が止まった。
去年。あの夜。今年と同じ彗星観測の夜。葵が消えた夜。
⸻
焚き火がはぜる。
透は灰を払うように過去の記憶を撫でた。
「ウィグナーの友人問題。
観測者が“何を見たか”を別の観測者が観測したとき、
現実が二つに分かれるという話だ。」
悠人が眉をひそめる。
「つまり……誰が見てるかで、現実が違う?」
「そう。だから俺は、観測者を増やしていく。
明日、光太と紗英が来る予定だ。」
「一年生カップルも? すごいですね。」
悠人は笑ったが、その声はどこか乾いていた。
透は空を見上げた。
その雲の切れ間に、白く尾を引いた今年の彗星が微かに光っている。
「“観測”は意識の干渉だ。
意識が重なれば、消えたものも――もう一度確定できるかもしれない。」
真帆が首をかしげた。
「何を“確定”させたいんですか?」
透は答えなかった。
焚き火の中で燃える枝がぱち、と音を立てた。
その音が、胸の奥に沈む名前を呼び起こす。
葵。
ポケットの中の古いフィルムカメラを握る。
それは、彼女が最後に残したもの。
シャッターを切れば、“観測”が起こる。
世界が一瞬だけ確定する。
だがその確定は、ときに“誰かを消す”ことにもつながる。
⸻
夜半。
テントの外は虫の声と沢の音が響いていた。
悠人と真帆は寄り添って眠っている。
透はひとり、三脚にカメラを据えて彗星へレンズを向けた。
液晶に映るのは夜空の粒子のような光。
その端に――一瞬、風に揺れる女の髪のような影が映った。
透は息を呑み、画面を拡大する。
――何もない。
けれど、ほんの一瞬、確かに“誰か”がいた気がした。
その錯覚が、胸の奥で罪悪感のように沈殿する。
影はノイズの揺らぎと区別がつかない。
葵がそこにいたと“観測している”のは、世界ではなく――俺の方なのだ。
「観測される限り、存在は消えない……」
透はつぶやき、シャッターを切った。
彗星が遠くで白い尾を引く。
まるで、彼の罪を静かに観測しているように。
⸻
翌日昼。
透は短くメッセージを送った。
《光太、明日から頼む。彗星観察の準備は出来た。》
送信を終えると、空を見上げる。
彗星は昨夜よりも大きくなっていた。
それは自然現象のはずなのに、
透にはあたかも――彼の意識に応じて軌道を変えたように見えた。
けれど、その祈りがどんな“結果”を観測するのか。
それはまだ、誰も知らなかった。
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