第五章 静かな朝と、走り出す足音
「……あれ、もうこんな時間」
目覚ましをかけ忘れたのか、時計の針はすでに九時を回っていた。
いつもなら、こんな時間まで寝ていたら大変なことになっている。
――今日は、練習も、試合もない。
本来なら昨日の初戦を突破して、今日は二回戦目。その先に勝ち進めば、二日後には決勝が待っていた。
予定表にはびっしりと「大会」と書き込まれていて、そのつもりで心も体も準備してきた。
でも、初戦で負けた瞬間、予定は真っ白になってしまった。
(ほんとに、終わっちゃったんだ……)
目を閉じると、昨日の光景がフラッシュのように蘇る。
相手のスパイクが床に突き刺さる音。
泣き崩れた先輩の背中。
悔しさに唇を噛んだ自分。
あの瞬間で、夏のすべてが閉じてしまった。
布団の上に座り込みながら、しばらく動けなかった。
窓の外では蝉が、まるで勝ち誇るように鳴いている。
子どもたちの笑い声、自転車のブレーキ音、遠くから聞こえる選挙カーのスピーカー。
夏休みらしい音があちこちから届くのに、胸の奥には穴が開いたままだった。
ふらりとリビングに降りると、台所は静かで、食卓の上には置きメモが残されていた。
『朝ごはんは冷蔵庫にあるから食べてね。母より』
母はすでに出勤していたらしい。
冷蔵庫を開けると、ラップに包まれたおにぎりと卵焼き、漬物のタッパー。
テーブルに並べて、ひとりで食べる朝食は、どこか味気なかった。
おにぎりの塩気も卵焼きの甘さもちゃんとおいしいのに、胸に広がるのは「本当なら今ごろ試合会場にいたはずなのに」という虚しさ。
そして同時に――こんな朝でも、母は自分のためにちゃんと用意してくれている。
母は一人で家計を支えて、毎日遅くまで働いているのに。
きっと自分の疲れなんて後回しにして、少しでも私が元気でいられるようにって。
(……私も、頑張らなきゃ)
食後に麦茶を一気に飲み干し、氷がカランと音を立てる。
その涼しげな響きさえ、少し胸に沁みた。
スマホが震え、画面に「さち」の名前が浮かぶ。
『明日ひま? デパートでもいこーよ!』
ぽっかり空いた心の穴に、鮮やかな光が差し込んだようだった。
思わず口角が上がる。
孤独で静かすぎる夏の朝に、確かに温度が戻ってきた気がした。
けれど悔しさはまだ消えない。
なぎさはランニングシューズを履き、外へ飛び出した。
***
陽射しは容赦なく照りつけ、アスファルトからは熱気が立ち昇る。
靴底がリズムを刻むたび、昨日の光景が鮮明に蘇った。
落とした一本、崩れた流れ、泣き崩れる先輩。
勝てなかった事実を噛みしめるたびに呼吸は荒くなり、心臓の鼓動が速まっていく。
汗が頬を伝っても、涙と混じっても気にしなかった。
ただ無心で足を前に出す。
「もっとできたはずだ」という悔しさが燃料になり、限界を超えるまで走り続けた。
玄関に倒れ込むようにして靴を脱ぎ、浴室へ直行。
冷たいシャワーに頭から打たれ、ようやく息を整えた。
湯船に浸かると、筋肉がじんわりと緩んでいく。
でも、胸の奥にこびりついた重さまでは洗い流せなかった。
***
風呂上がりの体は心地よく火照り、Tシャツと短パンに着替えると、麦茶を一気に飲み干す。
氷の涼やかな音に安堵しながら、ソファに身を沈めた。
天井を見上げているうちに、いつの間にか眠り込んでしまっていた。
***
――トントン。
包丁の音が耳に届き、なぎさはゆっくりと目を開けた。
夕方の光がカーテンの隙間から差し込み、リビングを橙に染めている。
肩には毛布が掛けられていた。母がそっと掛けてくれたのだろう。
「やっと起きたんだね」
台所に立つ母が振り返り、少し笑って言う。
「試合の次の日くらい、ゆっくりすればいいのに」
「……明日、遊びに行く」
「そう。さちちゃん?」
「うん」
「お金いる?」
「いらない」
食卓に並んだ夕食は、味噌汁に焼き魚、冷奴と漬物。
二人で箸を動かしながら、母は少し目を伏せてつぶやいた。
「昨日は試合見に行けなくてごめんね……どうだったの試合。」
「負けちゃった。もっと私が上手かったら…」
母は優しい目で私を見つめる。
「なぎさがバレーを頑張ってる姿を見るのが、私にとって一番嬉しいんだよ。今回は負けちゃったけど…そんなに自分を責めないでね。」
少し微笑んで続けた。
「キャプテンになったことも、さちちゃんのお母さんから聞いたよ。大変だと思うけど、なぎさならきっとできる。無理しすぎなくていいからね」
そして言葉に力を込める。
「キャプテンとしての初めての試合は、絶対に見に行くから。今度こそ、ちゃんと試合会場で応援したい」
なぎさの胸に熱いものが広がり、視界がじんわりとにじんだ。
悔しさも不安も消えてはいない。
けれど――母のその言葉が、確かに心を支えてくれている。
昨日は敗北に泣いた夏。
でも、こうして母と同じ食卓を囲み、静かに笑い合える時間が、新しい一歩を踏み出す力に変わっていた。
翌朝、目を覚ますと、母の姿はすでになかった。
食卓にはラップのかかった朝ごはんと、小さな封筒が置かれている。
封筒の中には五千円札が一枚。添えられたメモを読む。
『昨日はいらないって言ってたけど、滅多に遊びに行かないんだから、今日は遠慮せずにちゃんと使っておいで』
読み終えると、胸の奥がじんと熱くなる。
確かに昨晩、自分で「いらない」と言った。
それでも母は、少しでも楽しんできてほしいと願ってくれている。
その気持ちが何より嬉しかった。
(……ありがとう)
声には出さなかったけれど、心の中でそっと呟いた。
その瞬間、昨日までの重たい悔しさの影が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
***
私服に着替えて鏡の前に立つと、どこか落ち着かない。
キャプテンという肩書きはまだ肩に馴染まないけれど、今日だけはその重みを降ろして、親友と笑いたいと思った。
駅で待ち合わせると、さちはすでにベンチに腰をかけ、スマホをいじっていた。
顔を上げた瞬間、にっと笑って手を振る。
「おー、なぎさ! おそーい!」
「ごめんごめん、電車混んでて」
「言い訳〜。ほら、行こ!」
そんな何気ないやり取りすら、なぎさの胸を軽くしてくれる。
***
デパートに入ると、冷房の涼しさと甘い香りがふたりを包んだ。
雑貨屋でカラフルな文房具やアクセサリーを手に取り合い、はしゃぎながら棚を回る。
「これさちっぽい!」
「なぎさはこっち。シンプルだけど似合いそう」
そう言い合って笑っていると、さちがふと棚から桜色のシュシュを取り出した。
「ねえ、これ似合うんじゃない?」
思わず手に取ったなぎさは、「かわいい……」と小さくつぶやいて、すぐに元の場所へ戻した。
「でも、今日は見るだけ」
「ケチ〜」
さちは笑いながらも、その仕草をしっかり覚えていた。
***
そのあと、ゲームセンターでクレーンゲームに挑戦し、結局取れずに大笑い。
プリクラでは落書き機能で「新キャプテン♡」や「さち推し」と書き込み、出てきたシールを見てまた爆笑。
フードコートでポテトを分け合い、コスメ売り場でリップを塗り合いながら鏡に顔を寄せる。
昨日まで胸を締めつけていた悔しさが、少しずつほどけていくのを感じた。
***
夕方、駅へ向かう道。
さちが小さな紙袋を差し出した。
「はい、これ」
「え、なに?」
「いいから開けてみて」
袋の中には、あの桜色のシュシュが入っていた。
なぎさは思わず息をのむ。
「ちょ、いつ買ったの……? 私、全然気づかなかった」
「トイレ行ってるときにサッと買ったの。わからなかったでしょー?キャプテン就任祝いだよ」
得意げに笑うさちの顔が、夕陽に照らされて眩しかった。
なぎさは言葉にならない思いを胸に、ただ「ありがとう、頑張る」とだけ呟いた。
手首に桜色のシュシュを巻きながら、なぎさは心の中で静かに誓う。
――もう、後ろを向かない。
新しい自分で、前へ進む。
***
夕方、家に帰ると母はもう帰宅していた。
「おかえり。どうだった? 楽しかった?」
台所にはいつもより豪華な食卓が並んでいた。唐揚げにサラダ、冷やし茶碗蒸しまである。
「うん……すっごく楽しかった」
なぎさは靴を脱ぎながら答え、バッグをソファに置いた。
食卓につくと、母の視線がなぎさの手首に止まる。
「そのシュシュ、新しいね」
「あっ……うん。さちがプレゼントしてくれたんだ」
なぎさは少し照れながら答える。
母はにこっと笑い、黙って頷いた。
ご飯を食べながら、なぎさは口を開いた。
「……お金、ありがとう。ほんとはいらないって思ってたけど、今日は使わせてもらった」
「いいのいいの。普段からあんまり無茶を言わないんだから、たまには好きに使ってもらわないとね」
母はそう言って、やわらかい笑みを浮かべた。
その表情は「無理しなくていい」という安心感と、「これからも頑張ってね」という応援が入り混じっていた。
唐揚げを頬張る母の横顔を見ながら、なぎさは胸の奥が温かくなるのを感じた。
さちの笑顔も、母の優しさも、自分を確かに支えてくれている。
***
晩ごはんのあとにお風呂に入り、湯船の中で目を閉じる。
思い浮かぶのは、桜色のシュシュと母の言葉。
そして「キャプテンとして頑張ろう」と自分に言い聞かせる声。
布団に潜り込むと、体の疲れが心地よく全身を包んだ。
明日からは、キャプテンとしての新しい一日が始まる。
その思いを胸に、なぎさは静かに目を閉じた。
翌朝、蝉の声で目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光はすでに眩しく、夏の朝の空気はむっとするほど湿っている。
ベッドから体を起こし、手首を見やると、昨日さちからもらった桜色のシュシュが目に入った。
柔らかな布地に指先をすべらせると、不思議と胸の奥が少しだけ強くなれる気がする。
制服ではなく、練習用のジャージに袖を通す。
鏡の前に立ち、結んだ髪にシュシュを巻いてみる。
大げさかもしれないけれど、それだけで「今日からは違う自分でいよう」と思えるのだから不思議だった。
⸻
階下に降りると、母が出勤準備をしていた。
「おはよう。早いね」
「うん。今日からキャプテンとしての練習だから」
「そうか……じゃあ――いってらっしゃい、キャプテン」
母はからかうように笑ったけれど、どこか誇らしそうでもあった。
その一言で、背中に小さな力が宿る。
外に出ると、すでにアスファルトは熱を持っていて、歩くだけで汗がにじむ。
通学路の途中、心臓が早鐘を打つ。
「本当に私にできるのかな……」
呟きは蝉の声にかき消された。
⸻
体育館に近づくと、ボールの弾む音と誰かの笑い声が聞こえてきた。
扉を開けると、すでに後輩たちがネットを張り終え、準備運動を始めていた。
「おはようございます!」
一斉に飛んでくる声に、思わず背筋が伸びる。
昨日まで自分も“言う側”だった挨拶を、今日は“受ける側”として聞いている。
「キャプテン、今日のメニューはどうしますか?」
後輩にそう呼ばれ、胸の奥が少し震えた。
そのとき、体育館の入口から監督が入ってきた。
「おはよう。さて、新体制の初日だな」
全員の視線が自然とこちらに集まる。
「鈴野。キャプテンとして、ひと言みんなに挨拶してくれ」
唐突な指名に、心臓がどくんと跳ねた。
けれど逃げられない。ゆっくり前に出て、仲間たちの顔を見渡した。
「……おはようございます。えっと、今日からキャプテンを任されました、鈴野なぎさです」
声が少し震えたが、なんとか笑顔をつくる。
「先輩たちが残してくれたチームを、これからは私たちでつないでいきたいです。
まだ頼りないところもあるけど、みんなと一緒に、もっと強くなっていけたらと思ってます。
これからも、よろしくお願いします!」
頭を下げると、体育館に拍手が広がった。
後輩たちの中には「キャプテン、がんばってください!」と声を上げる子もいた。
その響きに、胸の奥の不安がほんの少しやわらいだ。
監督がうなずき、「よし、いい挨拶だった。じゃあ、鈴野の指示で始めよう」と言う。
私は深呼吸をして前を向いた。
「……えっと、まずは基礎から。レシーブとトスを安定させて、最後にスパイク練習ね」
声を張ると、返ってきた「はい!」の声に体育館が響いた。
⸻
練習が始まる。
レシーブ練習では、ボールを拾い損ねた一年生が申し訳なさそうに頭を下げた。
「気にしなくていいよ! 腰をもう少し落としてみて!」
自然と声が出た自分に、少し驚いた。
トス練習では、思うようにボールが上がらず、空気が重くなりかけた。
「大丈夫、もう一回やってみよう!」
声をかけると、ぎこちなかったトスが次第に安定し、チームの動きが戻っていく。
その変化に胸が熱くなった。
最後のスパイク練習。
さちが強烈な一撃を決めると、「よっしゃー!」という声が体育館に響き、自然と拍手が広がった。
その輪の中心にいる自分を意識した瞬間、胸の奥で「キャプテンなんだ」という実感がずしりと重くのしかかる。
⸻
練習後、全員で円陣を組む。
「せーの!」
「おつかれさまでした!」
体育館に響いた声は、昨日までと同じなのに、違う響きを持って聞こえた。
自分がその輪の中心に立っている――ただそれだけで、責任の重さが実感として迫ってくる。
シャワー室で髪を乾かしていると、後輩の一人が声をかけてきた。
「あの……今日のメニュー、すごく分かりやすかったです。ありがとうございました!」
「えっ……あ、ありがとう」
思いがけない言葉に、心臓がまた早くなる。
でも、同時にほんの少し誇らしい気持ちもあった。
⸻
部活を終え、夕暮れの校門を出る。
オレンジ色に染まる空の下、ひとり歩きながら深く息をついた。
「……私、本当にキャプテン、やれるのかな」
まだ不安は消えない。
けれど手首の桜色のシュシュに目をやると、母の笑顔や、さちの明るい声が頭に浮かぶ。
そのたびに、胸の奥に小さな灯がともる。
無理をしなくてもいい。
少しずつでも前に進めばいい。
そう自分に言い聞かせて、なぎさはまっすぐ前を見据えた。
キャプテンとしての一歩目を踏み出した足取りは、まだ頼りないけれど、確かに前へ進んでいた。
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