第2章 時計の針を -3
3 FORTUNA
朝、出勤してくると、もうデスクには私のマグカップにコーヒーが入って置かれていた。
室長のデスクで、田村さんが室長と話している。資料がたくさん置かれていて、PCも立ち上がっている。
あれ、遅刻した?もう始業時間?
腕時計を見る。いや……8時20分だ。始業は8時半。私はいつもの時間に出勤している。
「おはようございます」
恐る恐る、二人に声をかけてみる。
二人はいっぺんに顔をあげ、
「おはよう」
と声だけかけてくれて、また資料に目を落とす。
なんだろう?
急な案件でもあったのかな?
私は、更衣室にコートを置きに行って、ついでに置いてあるレッグウォーマーを装着する。
足元から冷えるのよね、執務室。
戻って、淹れてもらったコーヒーを飲む。温かい。
「うーん」
室長が、資料を手にする。
「これも、この事業も、こっちも……みんな、使ってる」
「そうですね。結構な数の事業が依存してますね」
二人は難しい顔をしている。
「なにやってるの?」
聞いてみる。二人の肩越しに、資料を覗き込む。
「都市幸福度向上計画、健康増進10年計画、職場の安全・労働災害防止計画、総合的なメンタルヘルス対策推進計画、介護予防推進計画、子供の運動機能向上計画……?」
なんだ?
うちの職場で見ない言葉ばかりだぞ?
なんでこんなパンフレット、集めてきたの?
「うん、みんな、ウェルビーイング関連の事業だな」
室長が顎を撫でる。何か考えているときによくやる仕草だ。
「ウェルビーイング?」
よく分からない。首を傾げて、問いかける。
「そうだな、人間が、体も心も、社会的にも満たされた状態ってのがそれなんだそうだ」
ますます分からなくなる。
うちの仕事と何か関係あるんだろうか?
「……今度はどこから依頼されたの?」
指揮系統である部長は今、海外出張中で居ない。
故に、私達は暇なのだが──
「どこからの依頼でもないよ」
田村さんが、私の方を見る。
「きみの話の件だ」
えーっと。
私の話……ってのは、消えた2日間の記憶の話、だよね?
それが、ウェルビーイングとやらと、どう関係が……?
「田村くんが気づいたんだが」
私の混乱に気付いた室長が、PCと向かい合いながら話してくれる。
「事故を知ってるっていう、お前さんとあの老人の、共通点がな、あったんだ」
私と、やっさんの、共通点?
「お前さん、腕時計してるだろ」
ああ、時計。そういえば、やっさんもしてた。
「確かに、珍しいかもしれないね。腕時計してる人、あんまり見ない」
「あんまりどころじゃないんだ」
田村さんが、例のケーブルで自分とスマートウォッチをつなぎながら、つまりはなんらかのデータを見ながら、言う。
「スマートウォッチの普及率は、2040年春の時点で99.8%」
「つまりは、お前さん達は残りの0.2%ってことになるな」
室長が自分の手首を見せる。当たり前のようにスマートウォッチがついている。
「私も持ってはいるんだよ」
なんとなく、馬鹿にされたような気分になる。
「付ける機会がないから家にしまってあるだけ」
「付けてないなら、持ってないも一緒だよね」
冷静に言わないでよ、田村さん……。
「まぁ、そうだけどさ」
なに、まるで私のこと、時流についていけてない人みたいに。
「いや、そういうのじゃないんだよ」
田村さんが私の心を読む。
「スマートウォッチの普及率が高いがために、国や都のいろんな事業でスマートウォッチのデータを使ってるんだ」
データ?
「ああ、心拍数とか、歩数とか、体温とか、そういうやつ?」
「あと、移動距離とか、移動先とか、その他にもいろんなデータがこれからは取れる」
彼も自分の手首のスマートウォッチを指差す。
「ここにあるのは、都と国でやってる、スマートウォッチを使った事業の数々だ」
室長がパンフレットに手をかざす。
「庁内で取ってこられるものだけでもこれだけあった。実際はもっとたくさん使われてる」
「へー……」
パンフレットを手に取ってみる。子供の運動神経を鍛えようっていう事業のそれには、明るく笑う子供達のイラストが描かれている。
裏返す。
そこには、
「幸福は、数値で測れます」
の文字があった。
「何これ、気持ち悪い」
私はそれを、吐き捨てる。
「そんなもん、測れるはずがないじゃない」
「でも、昨今ではこういう施策が多いみたいだな」
室長も、呆れたような声を出す。
「馬鹿馬鹿しいよな、データに上がること以外にも、人間にはいろいろあるのによ」
「僕は、データでもある程度の方針を決められるとは思いますが」
まぁ、田村さんはそうかな。バリバリの理系脳だし。
「ただ、こんなに多くの事業がスマートウォッチに依存していることには、違和感を覚えます」
「安易なんだよな、他に方法はいくらでもあるだろうに」
二人は納得しあって頷きあう。
「で」
私の疑問は深くなる。
「その話と、私の記憶と、なんの関係が?」
「それはまだ、分からない」
田村さんが瞬きをする。案外まつ毛が長い。
「ただ、この事業の全てが、ひとつのシステムを利用しているんだ」
「そのシステムが、あの<FORTUNA>だ」
FORTUNA……?
「この間情シスに呼ばれて直してきた、あの?」
田村さんは、我が意を得たりといった顔で頷いた。
「FORTUNAは、きみのデータを持っていない。そのことがひょっとしたら関係してるのかなって思って」
「こんな事業のためにデータを使われるんなら、私のデータなんか渡したくないよ」
私は、笑う。
「これなんか、どうよ?データを使って幸福度を上げようとするやつとか」
手に取ったパンフレットには「都市幸福度向上計画」と書かれている。
笑顔の人々の写真が使われていて、背景は緑と白のグラデーションだ。
白々しい。
「宗教でやるならわかるけど、行政が人の幸福をどうのこうのしようっての、やっぱ気持ち悪いよ」
「それが健康な感覚かもしれんな」
室長が呟く。
田村さんは、思うところがあるみたいで、情シスの飯島さんに連絡をとってきた。
「ちょっと情シス行ってきます」
田村さんが行こうとするのを、私が止めた。
「私も行きたい!」
彼は、なんか一瞬眉根を寄せて、すごく嫌そうな顔をした。
「行くの?」
「ダメ?」
あれ?なんで?
彼の唇に、少し力が入った。
「んー」
私を見る。
「しょうがないなぁ」
そして、振り返って部屋を出た。
慌てて追いかける。
なに、今の?
私が情シスに行くの、嫌なの?何で?
情シスでは、飯島さんが私達を迎えてくれた。
「こんにちは、田村係長。……秋元ちゃん」
秋元、ちゃん?
あれ、私のこと?
田村さんの表情が一瞬、険しくなる。
「うちの秋元さんに馴れ馴れしくないですか?」
「あ、全然いいです」
つい私はそんなことを言ってしまう。
「同期くらいだと思うし」
呼ばれ方なんて、どうでもいい。むしろ友達だと思ってくれてるならその方がいいかなって思う。
田村さんは、何だかよく分からないけど少し憮然としながら、飯島さんとPCに向かっていた。
どうもあのFORTUNAをいじっているみたい。
それに、その機能について幾つか質問をしていた。
ふと。
そこに見えたもの。
IF stability < threshold THEN DELETE source_of_instability
「なに、それ」
彼らの後ろから、私の指がそれを差す。
これなら、私にも読める。
飯島さんが、手を止めた。
「これ?」
彼もまた、その一文を指差す。
「ああ……うん、ログの残骸だな。古いバージョンのテストコードみたいなもん」
じゃあ、影響はないのか。
それにしても気持ちが悪い。
「安定性の閾値を下回ったら削除する」
そんな命令文が「幸福のシステム」にあるなんて──冗談みたいだ。
田村さんが私を見る。
その表情も、固かった。
彼も何かを思ったのかもしれない。
私と「幸福の女神」に、何の関係があるのだろう?
二人の目には、モニターのブルーライトが映り込んでいた。
まるで、幸福の女神の眼差しみたいに。
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