EP 5
公金と私金、そして「慶」の誕生
高級宿の一室。金貨一枚(一万円)の請求書を前に、佐藤健義の指が魔界トウガラシの小瓶を掴む。
「……リベラ弁護士」
「は、はいっ! なんですか、佐藤さん?」
「まず、この請求書(金貨一枚)は、君が『和解成立』という『法廷の成果』を祝うため、と言ったな」
「そ、そうです! チームの士気(しき)は大事です!」
「却下だ」
佐藤は請求書をリベラに突き返した。
「この資金は女神ルチアナから支給された『公金』だ。すなわち、捜査費用、被害者救済、法廷運営のための経費。祝賀会は『私費』で賄うのが筋だ」
「で、ですから天使は私費なんて……!」
「ならば、金輪際、公金での飲食は『捜査上の必要性』が認められない限り許可しない」
佐藤はルチアナから預かった公金の袋(白金貨が詰まっている)を、宿の金庫に厳重にしまった。
そして、彼は自らの財布から銀貨一枚(千円)を取り出し、リベラの前に置いた。
「な、なんですか、これ?」
「私の『私費』から、君に今月の小遣いをくれてやる。ただし、これは貸与(たいよ)だ。いずれ君が何らかの手段で稼いだ時に返済してもらう。そのケーキ代は、それで払え」
「ぎ、銀貨一枚!? あのケーキ全部は買えません!」
「ならば、君が買うべきケーキの『適正量』を学び直すことだな」
「うぅ……悪魔です! 佐藤さんは法曹の皮を被った悪魔ですよ!」
「なんとでも言え。デューラ検事」
「……む」
デューラは、佐藤の徹底した「公私混同の排除」という『ルール』の提示に、内心(こいつは信用できる)と頷いていた。
「君もだ。捜査に必要な経費は認めるが、その都度、私に『経費精算書』を提出すること。このコーヒーキャンディも、捜査上の集中力維持に必要な『備品』として申請しろ。私が妥当性を判断する」
「……承知した。合理的だ」
「ひどいです! デューラさんまで!」
泣き崩れるリベラを尻目に、佐藤は自らの法服(スーツ)の上着を脱ぎ、ネクタイを緩めた。
彼は、魔界トウガラシの粉末を少量舐め、思考を切り替える。
「(『公金』の防衛は完了した。次は『私金』の確保だ)」
「少し、この街の『商法』と『民法』の運用実態を調査してくる」
「え? 私も行きます! 街の調査なら……!」
「君は、その銀貨一枚で、いかにして最大の幸福(ケーキ)を得るかという『経済観念』の調査でもしていろ」
「ひどい!」
佐藤はリベラとデューラを宿に残し、一人、夕暮れの帝都ルーメンへと踏み出した。
佐藤が向かった先は、数時間前に訪れたばかりの「ゴルド商会 ルーメン支店」だった。
ただし、今度の彼は「裁判官・佐藤健義」ではない。
彼は支店長を指名し、こう名乗った。
「私の名は『慶(けい)』。しがない『学問』の徒だ。支店長殿に、儲け話を持ってきた」
応接室に通された佐藤――いや、「慶」――は、昼間と同じ壮年の支店長と向き合っていた。
支店長は、神聖金属を持ち込んだ奇妙な一行の一人が、今度は一人で、しかも胡散臭い肩書で現れたことに、警戒心を隠さない。
「『慶』殿、と。して、その『儲け話』とは? 当店は大陸随一の商会。そんじょそこらの話に金は出しませんぞ」
「当然だ。私は金を借りに来たのではない。私自身を『商品』として売りに来た」
「ほう?」
慶(佐藤)は、支店長の机に置かれた不揃いな羊皮紙の束――帳簿(ちょうぼ)と契約書らしきもの――を指差した。
「失礼ながら、支店長。あなた方の商売は、あまりにも『非効率』で『危険』だ」
「……何だと?」
支店長の目が細くなる。
「先ほど私がロビーで10分待っている間に、小麦の輸送契約が一件成立した。だが、あの契約書には『モンスターの襲撃による損害』に関する取り決めが曖昧だ。あれでは、もしワイバーンにでも襲われれば、どちらが損害を被るかで必ず『紛争』になる」
「!」
支店長は息を呑んだ。それは、彼が今まさに頭を悩ませていた案件の一つだった。
「さらに」と慶(佐藤)は続ける。
「あなた方の帳簿は、各担当者の『感覚』で記帳されている。これでは、正確な在庫管理も、月次の収支決算もできない。ゴルド商会が大陸屈指だというのなら、その根幹である『数字』と『ルール』があまりにも杜撰(ずさん)だ」
「……小僧。貴様、何者だ」
「言ったはずだ。『学問』の徒だ。私はあなた方に『儲け』をもたらす知識を提供できる。例えば――」
慶(佐藤)は、懐から紙(宿の便箋)を取り出し、ペンを走らせた。
それは、現代日本の「複式簿記」の基礎的な概念図と、商取引における「危険負担」の条項案だった。
「『契約書』とは、問題が起きないために結ぶのではない。問題が起きた時に『どう解決するか』を予め決めておくための『ルール』だ。私は、その『ルール』を作る専門家だ」
支店長は、慶(佐藤)が書いた条項案を読み、その論理の緻密さに目を見張った。
モンスターの襲撃は「不可抗力」とし、その場合の損害は「売主・買主双方で折半」する、ただし「護衛の不備」など商会側に過失があれば商会が負担する――。
今まで「その時の力関係」で決めていたことが、明確に言語化されていた。
「……面白い」
支店長は、商人としての獰猛な笑みを浮かべた。
「『慶』殿。あなたを、当ゴルド商会ルーメン支店の『特別顧問(アドバイザー)』として雇おう。報酬は、月額金貨5枚(5万円)。あなたの『知識』がそれ以上の価値を生むと判断すれば、即刻引き上げる」
「結構だ。ただし条件がある」
「何だ?」
「私の活動は『匿名』。私は『慶』であり、それ以上でもそれ以下でもない。そして、私が指定する物件を、サロンとして借り受けるための仲介を頼みたい」
「サロン?」
「ああ」と慶(佐藤)は答えた。
彼の脳裏には、福沢諭吉が江戸で開いた小さな蘭学塾が浮かんでいた。
「――この帝都に、『学問のすゝめ』を広めるための、小さな塾さ」
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