第4章 八月十五日の灯(ひ)

 夜の闇は、音を吸い込むように深かった。

 停電した家の中で、透は懐中電灯を頼りに階段を下りていった。

 外では雷の残響がまだ響き、風が木々を鳴らしている。


 台所の窓を開けると、濡れた空気が流れ込んできた。

 遠くで、川の方角がぼんやりと光っている。

 月の光ではなかった。もっと青白く、低く、地面から滲み出すような光だった。


 ——八月十五日の夜、光が戻る。


 母の声が、再び耳の奥で蘇った。

 透は懐中電灯を握りしめ、外に出た。

 雨は止み、空気は不自然なほど静かだった。



 川までの道はぬかるんでいた。

 電線の間を縫うようにして歩くと、途中の街灯がひとつだけ点いていた。

 その光の下に、誰かの影が立っていた。


 「……透」

 未央だった。

 彼女も同じ光を見て、ここへ来たのだろう。

 透が頷くと、未央は傘を少し傾け、彼の方を見た。

 「見える? 川が光ってる」


 川面は確かに淡く青い光を放っていた。

 その光は波に合わせて揺れ、まるで生き物のようにゆらめいていた。


 「母さん、言ってたんだ。八月十五日の夜に、光が戻るって」

 「……それって、どういうこと?」

 「わからない。でも、行かないと」


 二人は川岸に近づいた。

 水は冷たく、足首を濡らす。

 光は、流れの中ほどに集中していた。

 まるで何かがそこに“戻ってきた”かのように。


 透は膝をつき、水に手を入れた。

 瞬間、体の奥に電流のようなものが走った。

 ——声が、した。


 「透、逃げて」


 母の声だった。

 透は思わず手を引いた。

 未央が驚いたように声を上げた。

 「どうしたの!?」

 「……母さんの声が、した」

 「え?」

 「ここから、だ。水の中から」


 風が強くなり、木々がざわめいた。

 光が一瞬、明るさを増し、川の底に何かが映った。

 それは、白い布のようなもの——いや、人の衣服のように見えた。


 未央が息を呑む。

 「透……あれ、誰か、いる」


 透は一歩踏み出そうとしたが、未央が腕を掴んだ。

 「だめ。行っちゃだめ」

 「でも——」

 「行ったら、戻れなくなる」


 彼女の手は冷たかった。

 その冷たさは、まるでこの世のものではないように思えた。



 翌朝、川の光は跡形もなく消えていた。

 新聞には「局地的な落雷による発光現象」として小さく記事が載った。

 透は窓辺でその記事を見つめながら、昨夜の光景が夢だったのか現実だったのか、判断できずにいた。


 机の上には、濡れたビー玉が置かれていた。

 中の泡が少し増えているように見えた。

 まるで、誰かがそこに閉じ込められたかのように。


 透はもう一度、ラジカセの再生ボタンを押した。

 テープから流れた母の声は、昨夜とは違っていた。

 「透、あの子を、見つけて」


 ——あの子。


 透の頭の中に、一瞬だけ少女の顔が浮かんだ。

 幼い日の記憶。川辺で笑っていた誰か。

 けれど、輪郭が掴めない。

 ただ、水音と笑い声だけが残った。



 夜、未央が再び訪ねてきた。

 彼女は少しやつれた顔で、玄関に立っていた。

 「昨日のこと……夢じゃないよね?」

 「たぶん」

 「ねえ、透。私、ひとつだけ思い出したの」


 「なにを?」

 「昔、あなたのお母さんに言われたの。“あなたと透くんは、同じ夢を見ている”って」


 透は言葉を失った。

 同じ夢。

 それは、現実と記憶の境界を溶かすような言葉だった。


 未央はゆっくりと彼を見た。

 「だから、たぶん——あなたの見た光も、私の中にある」


 その瞳には、確かに青い光が宿っていた。

 それは、昨夜の川と同じ色だった。

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