第3章 残響の家
朝の光は、どこか白く濁っていた。
蝉の声はもう弱まり、風の音が濃く聞こえる。
透は居間の畳に腰を下ろし、箱の中のカセットをひとつずつ取り出していた。
「冬の手紙」「八月の声」「透へ」。
どのラベルも、母の丁寧な文字だった。
彼女は几帳面な人ではなかった。
家事は苦手で、料理もよく焦がした。
だからこそ、この几帳面なラベルには、何か意図があるように思えた。
テープの一本を選び、ラジカセに入れる。
ノイズが混じり、やがて母の声が流れた。
「透。あなたがこの声を聞く頃、私はもういないと思う。
でも、聞いてね。……あの日、私はひとつの約束を破ったの」
透は息を詰めた。
母の声はどこか震えていた。
「あなたが六歳の夏。川で何かを拾った。
それを私は“見なかったこと”にした。
あのときから、家の中に何かがいる気がしていた。
夜になると、誰かが階段を上がる音がした」
再生ボタンを止めた。
心臓の鼓動が、自分のものではないように感じた。
窓の外で、風がカーテンを揺らしている。
まるで家全体が呼吸をしているようだった。
透は立ち上がり、階段をゆっくり上がった。
二階の一番奥——子どものころ、自分の部屋だった場所の前で止まる。
ドアノブに触れた瞬間、冷たい感触が指を伝った。
中は、思っていたよりも整っていた。
机の上に、埃をかぶった絵本。棚には小さな石の箱。
その箱を開けると、中には白く濁ったビー玉が一つ入っていた。
光にかざすと、内部に何かが揺れている。
それは、水の中に閉じ込められたような、小さな泡の群れだった。
「……これか」
手の中のビー玉を見つめながら、透は呟いた。
母の言っていた“拾ったもの”。
もしかしたら、これかもしれない。
——そのとき、背後で音がした。
誰かが廊下を歩くような、ゆっくりとした足音。
透は息を殺した。
振り向いても、そこには誰もいない。
ただ、階段の下から風が吹き抜け、カーテンがまた揺れた。
⸻
午後、未央が家に来た。
麦茶を出すと、彼女は小さく会釈して座った。
「……おばさん、残してたのね」
透はテーブルの上のテープを指さした。
「聞いてくれ。母さん、僕が拾った何かを“見なかった”って言ってた」
未央は黙っていた。
少しして、ビー玉を見つけ、そっと手に取った。
「これ、覚えてる気がする」
「本当に?」
「うん。……でも、なんでだろう、すごく嫌な感じがする」
ビー玉の中で、光が微かに動いた。
二人は同時に黙り込んだ。
「ねえ、透。おばさんって、昔……誰かと喧嘩してたよね?」
「喧嘩?」
「ほら、小学校の頃。夜、川の方で誰かと大声で話してるのを見たの」
透は記憶をたどった。
母はいつも穏やかだったが、一度だけ帰りが遅く、翌朝泣いていたことがあった。
あのとき、何かを隠していたのかもしれない。
「その相手が誰か、わかる?」
「顔までは。でも、白い帽子をかぶった人だった」
透はふと、近藤さんの姿を思い出した。
葬儀のとき、誰よりも泣いていた人。
母の親友であり、唯一の相談相手。
⸻
夜、透はもう一度テープを再生した。
「透。……もしあなたがこの声を聞いたなら、川に行って。
八月十五日の夜、光が戻る」
ノイズが強くなり、声が途切れる。
テープの回転が止まると同時に、外で雷鳴が響いた。
空が割れるような音。
次の瞬間、停電。
部屋が闇に沈む。
暗闇の中、ビー玉がわずかに光った。
その光は、水の底でゆらめく月のように、静かに震えていた。
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