第2章 記憶の底を歩く
未央は、透の前に立っていた。
十年という歳月は、彼女の輪郭を少しだけ変えていたが、目の奥の光は昔と同じだった。
少し驚いたように口元を押さえ、そしてふっと笑う。
「まさか、またここで会うなんてね。……おばさんのこと、聞いたわ」
透は頷いた。
「ありがとう。……なんで、ここに?」
「夜の散歩。昔から眠れないの。あの頃から、ずっと」
その声には、懐かしさと同時に、どこか言葉にできない距離のようなものが混じっていた。
川の流れが、二人の間に細く揺れている。
「東京に行ったって聞いたけど、戻ってきたの?」
「葬儀のために。一週間だけ」
「そう……」
未央はしばらく川面を見つめていた。
「この川、変わらないね。濁ってて、でも底の方は意外ときれいなんだよ」
透は、その言葉に小さく反応した。
“底”。——母の声が脳裏で蘇る。
「川の底にあるものを、見つけてほしい」
未央は、何かを思い出したように続けた。
「子どもの頃、この川で一緒に石を投げたの、覚えてる?」
「……覚えてる。夕方まで競争して、僕だけ先に帰った」
「うん。その日、透が帰ったあと、私ね、川で何かを見たの」
「見た?」
「水の中で、光ってた。何か、ね」
風が吹いた。草が擦れ、夜の匂いが強くなった。
未央の声は低く、どこか遠くから聞こえるようだった。
「それから、ずっと気になってるの。その光、なんだったんだろうって」
「……それ、母さんの言葉と同じだ」
透がつぶやくと、未央はゆっくり顔を上げた。
「どういう意味?」
透はポケットからテープのラベルを見せた。
“八月の音”。そこに母の筆跡があった。
「母さん、亡くなる前にこれを残してた。“川の底にあるものを見つけてほしい”って言ってた」
未央の表情が凍った。
「……おばさんも?」
二人はしばらく黙っていた。
遠くで電車の音が鳴り、橋の上を照らす街灯が一つずつ消えていく。
静けさの中で、未央の唇がかすかに震えた。
「透。——あの日のこと、思い出せる?」
「どの日?」
「私たちが最後に会った、あの日の夕方。あのとき、あなたは泣いてた」
透の記憶が、一瞬だけざらついた。
夏の陽炎のように、過去の光景が揺れる。
赤いランドセル。濡れた川岸。泣きながら、何かを握りしめていた小さな手。
それが何だったのか、どうして泣いていたのか——思い出せない。
「……ごめん。思い出せない」
「ううん、いいの。私も、きっと忘れた方がいいのかもしれない」
未央はそう言って、川面を見た。
月の光がわずかに水底を照らしていた。
その光が、ほんの一瞬、人の形のように見えた。
透は思わず息を呑んだ。
「今、見た?」
未央は首を振った。
「何を?」
「……いや、なんでもない」
風が止んだ。蝉の声も、遠くの車の音も消えた。
ただ、川の底からかすかに響くような音が聞こえた。
まるで誰かが、沈んだまま囁(ささや)いているようだった。
⸻
夜が明けるころ、透は実家の縁側に座っていた。
テープを再生すると、母の声がまた流れた。
「——透、あなたは覚えていないでしょう。でも、八月の川で、あなたは何かを拾ったのよ」
ノイズが入り、声が途切れた。
再生を止める。
胸の奥が、冷たく締めつけられる。
拾ったもの。
それは、いったい何だったのか。
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