水の底で光る声

@meichou0609

第1章 夏の残響

 八月の風は、街をまるごと溶かしてしまいそうだった。

 アスファルトの照り返しが低くうねり、駅前のロータリーを回るたびに、空気の色が一段濃くなるように思えた。


 川原透かわはらとおるは、午前十時の電車で故郷に戻ってきた。

 十年ぶりの駅だった。改札を抜けた途端、鼻をつくようなセミの声と土の匂いが、記憶の底をかき回す。

 けれど、それは懐かしさというより、もう少し違う種類のもの——過去から投げ捨てられた石が、今になって波紋をつくるような感覚だった。


 「透くん?」

 背後で声がした。振り返ると、灰色の帽子をかぶった老女が立っていた。母の友人の一人、近藤さんだ。

 「まあ、あんた、帰ってきたのねえ。お母さん、喜ぶわ」

 その言葉に、透は小さく頷いた。


 母は、三日前に亡くなった。

 知らせを受けたのは、東京の小さな編集プロダクションで原稿を直している最中だった。

 電話の向こうで伯父が淡々と伝えた——心臓が止まったのは夕方の四時過ぎ。誰にも看取られなかった、と。


 駅から歩いて十五分ほどの実家は、かつての面影をかろうじて残していた。

 庭の柿の木は枝を広げすぎて、もう家の屋根に触れている。雨樋は歪み、玄関のチャイムは押しても音が出なかった。

 透は鍵を回し、重たい扉を開けた。


 空気が、止まっていた。

 十年前のまま、時計の針さえ動かないように感じた。

 リビングには、母が好きだった白いレースのカーテン。壁のカレンダーは、平成の数字で止まっている。

 部屋の真ん中に、小さな骨壺が置かれていた。そこに母の名が書かれているのを見て、ようやく現実に戻る。


 ——帰ってこなければ、よかったのかもしれない。


 そう思った。

 けれど、もう引き返すこともできなかった。


 葬儀の翌日、透は古い納戸を整理していた。

 そこで、ひとつの箱を見つける。

 青いリボンで縛られた厚紙の箱。中には、古びたカセットテープが十数本入っていた。

 ラベルには、黒いマジックで「夏の声」「透へ」「八月の音」などと書かれていた。


 再生機はもう動かないだろうと思いながらも、押し入れの奥から古いラジカセを見つけた。

 電源を入れると、奇跡的にランプが点いた。

 テープを差し込む。

 再生ボタンを押した瞬間、ざらついたノイズが流れ——やがて、母の声が聞こえた。


 「透、今、どこで聞いているのかしら。……この声が、まだ届くといいんだけど」


 その瞬間、透の中で、止まっていた時間がわずかに動いた。

 母の声は、過去からの呼びかけのようでもあり、未来への記録のようでもあった。


 テープの最後に、こう記されていた。

 ——「この町の、川の底にあるものを、見つけてほしい」


 透は夜、懐中電灯を持って外に出た。

 蝉の声は止み、かわりに川面(かわも)を渡る風の音だけが耳に残った。

 小学校の裏手を抜けると、かつて友人たちと遊んだ川があった。水面は濁り、流れはゆるやかで、月の光がわずかに反射している。


 母の言葉が、胸の奥でくり返された。

 ——「川の底にあるもの」。


 それが、何を意味するのかは分からない。

 けれど透は、その言葉の響きに、どうしようもなく惹かれていた。

 まるで、自分の生き残りの理由がそこに沈んでいるような気がした。


 川辺で立ち尽くしていると、背後から声がした。

 「……透?」

 振り向くと、一人の女性が立っていた。

 月明かりの下、長い髪が風に揺れている。どこかで見た顔だった。

 「やっぱり、あなたなのね」


 透は息を呑んだ。

 彼女の名は——篠原未央しのはらみう。十年前、透がこの町を出るきっかけになった人だった。

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