第15話 バリにて(2)ウフ・ココット
パリの朝の光は、東京のそれよりも白く、輪郭を際立たせる。
アパルトマンの一室。配信用のカメラが起動する。
いつもより少しだけ遅い時間の開始にもかかわらず、ログは瞬時にして待機していた視聴者のコメントで溢れかえった。
『Bonjour. 「銀の匙」、パリ便り、二回目です』
玲華の声が、静かな室内に響く。
≫ きたあああ!
≫ 待ってた!
≫ ん? あれ、今日の玲華様、声が……
≫ わかる。なんか、すごく柔らかい
≫ 艶があるというか……
≫ 昨夜なんかありましたね??(勘)
玲華は、コメント欄の鋭い指摘に、ふふ、と吐息だけで笑った。
その仕草が、かえって視聴者の想像を掻き立てる。
「皆様、鋭いですね。……昨夜は、ひかりさんと少しだけ、ワインをいただいてしまいましたから」
カメラの隅で、ひかりが「……ノンアルコールのものです」と小さく付け加える。
「ええ。でも、パリの夜の空気は、それだけで人を酔わせてしまうようです。……少し、話し込みすぎました」
玲華はそう言って、悪戯っぽく片目をつむる。
その表情は、ひかりと「何か」を共有したあとの、満たされた人間のそれだった。
≫ ワイン(意味深)
≫ #二人の夜
≫ 話し込みすぎた(意味深)
≫ もうだめだ、今日のひかりちゃんも見てみろ
≫ いつもよりリラックスしすぎてる
≫ #匂わせまで、おフランス
「今日は、そんな、少しだけ『夜更かし』をした朝にぴったりのものをお願いしました」
ひかりは、こくりと頷くと、手元に集中する。
彼女が取り出したのは、昨日マルシェで買った、黄身の色が驚くほど濃い卵。そして、小さなラメキン(ココット皿)。
今日のメニューは「ウフ・ココット(Oeufs Cocotte)」——卵のココット蒸しだ。
「……昨夜、食べきれなかったブリオッシュがありますから。それを添えます」
ひかりが、オーブンの天板に湯を張り(湯煎)、ラメキンを並べていく。ラメキンの底には、生クリームと、ほんの少しのトリュフオイル。そこに、卵が静かに割り入れられる。
それは、ひどく優しい「熱」でしか作れない料理だった。
(……昨夜、玲華さんが見せてくれた、あの無防備な顔を思い出す)
ひかりは、オーブンの扉を閉めながら、昨夜の情景を反芻していた。
研修の緊張から解放された夜。二人は、テラスで星を見ながら、日本ではしなかったような、互いの子供時代の話、未来への不安、そして……その不安を、隣にいる存在がどれだけ和らげてくれているかを、途切れ途切れに語り合ったのだ。
それは、恋人同士のそれとは違う、だが、魂の最も深い場所での「親密さ」だった。
≫ うわ、ウフ・ココット
≫ 美味しいやつだ…
≫ 優しい味付けが沁みそう
≫ 湯煎、丁寧な仕事
≫ #夜更かしの朝
≫ つまり寝不足(幸福な)
やがて、オーブンから取り出されたココット皿は、完璧な半熟状態でふるふると震えていた。
傍らには、黄金色にトーストされたブリオッシュが「ムイエット(浸すためのパン)」として添えられている。
「……どうぞ、玲華さん。火傷しないでください」
「ありがとうございます。……ふふ、ひかりさんは、心配まで温かいですね」
玲華が、ラメキンを大切そうに受け取る。
カメラが、その手元に寄る。
スプーンが、そっと白い膜を破る。とろり、と、太陽の色をした黄身が溢れ出した。
玲華は、それを一口、ゆっくりと味わう。
そして、長く、甘い、陶然とした息を吐き出した。
「……これは」
玲華の目が、潤んでひかりに向けられる。
「……これは、夜明けの約束、ですね」
コメント欄が「#玲華舌」と「???」で埋まる。
「昨夜までの、暗くて冷たい不安や緊張……それが、このラメキンという『守られた世界』の中で、あなたの優しい熱によって、ゆっくりと解かされていきます」
玲華は、もう一口、今度はブリオッシュで黄身を掬って味わう。
「……この、とろける黄身は、私がずっと隠していた……一番柔らかい部分です。ひかりさん、あなたは、昨夜、そこに触れた」
その言葉は、配信に乗せるにはあまりにも大胆で、しかし事実だった。
「このトリュフの香りは、秘密を共有した共犯者の『印』。
……そして、このすべてを包むクリームの甘さは……」
玲華は、ひかりを真っ直ぐに見つめて、言い切った。
「夜が明けても、決して冷めない、あなたの『熱』そのものです」
それは、味語りという名の、昨夜の答え合わせだった。
「ひかりさん。この一皿は……私が、あなたの前でだけ、こんなにも『駄目』になってしまってもいいのだと教えてくれる……世界で一番、甘美な『許し』の味です」
≫ ああああああああ
≫ #昨夜何があった!?
≫ #二人の秘密
≫ 駄目になる(意味深)
≫ 許し(意味深)
≫ (訳:ひかりの前では全部さらけ出しました)
≫ #玲華舌 が限界突破
ひかりは、顔を上げることもできず、耳まで真っ赤に染まっている。
だが、その口元は、確かに微笑んでいた。
「……玲華さんが、昨夜、とても……綺麗でしたから。それを、朝にも味わってほしくて」
小さな声で呟かれたその返答は、玲華にしか聞こえなかったかもしれない。
だが、カメラは、ひかりの手を玲華がそっとテーブルの下で握りしめた瞬間を、確かに捉えていた。
≫ (見えなくてもわかる)
≫ #テーブルの下
≫ 供給過多
≫ パリ、ありがとう
≫ 結婚おめでとう(早い)
パリの朝。二人の「親密」な時間は、まだ始まったばかりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます