第2話 学園と配信
翌日の教室は、昨夜の濃密な空気など欠片も存在しないかのように、乾燥した光に満ちていた。
白銀玲華は「白銀玲華」として完璧に振る舞っていた。教科書の角は折れ目一つなく、教師の質問には誰より早く的確に、しかし決して出しゃばらない声量で答える。休み時間には、クラスメイトたちが遠巻きに形成する「輪」の中心で、当たり障りのない話題に優雅な微笑みを返している。
「玲華様、昨日の配信、最高でした!」
「ありがとう存じます。藤森さんのおかげですわ」
……まただ。
廊下の隅で、次の授業の準備をしていたひかりの耳に、その声が届く。
玲華は学校では、ひかりのことを「藤森さん」と呼ぶ。配信中の、あのとろけるような甘い声で「ひかり」と呼ぶのとは、まるで別人のように。
それは二人が決めたルールだった。人気配信者である二人が、学園生活の平穏を保つための、暗黙の境界線。
ひかりもまた、「天才料理少女」としての視線に晒されている。だが、それは玲華への憧憬とは違う、どこか「異質なもの」を見るような、遠慮がちな距離感だ。
だから、ひかりも玲華に近づかない。玲華の完璧な「白銀玲華」像を、自分がそばにいることで崩してはいけない気がして。
昼休み。
玲華はクラスメイト数人と、中庭の見えるテーブルで上流階級の作法めいた完璧な所作でランチボックスを開いている。
ひかりは、校舎裏の、あまり人の来ないベンチで一人、膝の上でレシピノートを広げていた。
不意に、視線を感じて顔を上げる。
数メートル先。渡り廊下を歩いていた玲華と、真正面から目が合った。
玲華の動きが、一瞬、ほんの僅かに止まる。
ひかりも、息を止めた。
時間が引き伸ばされる。
玲華の唇が、何かを言おうと微かに動いた。
だが、玲華の隣にいた生徒が「玲華様?」と声をかけた瞬間、玲華の表情は完璧な微笑みに戻る。
小さく、ひかりにだけ分かるか分からないかの会釈を一つ。
それだけ。
すぐに背を向け、玲華は友人たちの会話に戻っていった。
(……それで、いい)
ひかりは自分に言い聞かせ、冷たくなったサンドイッチを無感情に口に運んだ。
玲華が守りたい日常を、自分が壊すわけにはいかない。
分かっている。分かっているのに、胸の奥が、レシピ通りにいかないオーブンのように、じりじりと焦げ付くような鈍い痛みを訴えていた。
***
放課後。
スタジオ(玲華の家の離れ)の扉を開けるまで、二人の間には言葉らしい言葉はなかった。
学校での姿のまま、玲華は「藤森さん、よろしくお願いします」と硬い挨拶さえした。
だが。
スタジオの空気が二人を包み、ひかりがいつもの白いエプロンを結び、玲華がカウンターの定位置に座った瞬間。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
「……ひかり」
先に沈黙を破ったのは、玲華だった。
それはもう「白銀玲華」の声ではなかった。ひかりだけが知っている、少し疲れて、甘えを含んだ「玲華さん」の声だ。
「はい」
「……今日は、寒かったですね」
「そう、ですね。風が、冷たかったです」
意味のない会話。だが、その数秒で、教室での数メートルが、一気にゼロ距離になった。
ひかりは配信開始ボタンを押す。
> ▷ きたあああ
> ▷ 今日は二人の距離、近くない?
> ▷ #玲華舌 はよ
> ▷ 学校お疲れ様ー!
今日のメニューは「二種の出汁巻き玉子」。ひかりが朝、玲華の「寒かった」という言葉を予期していたかのように用意していた、シンプルな料理。
「本日は、少し冷えますので……温かいものを。こちらは京風の白出汁。こちらは、少し甘めの関東風です」
ひかりの手元が、小気味よいリズムで玉子を溶き、熱した玉子焼き器に流し込んでいく。
じゅ、という音。香ばしい匂い。
玲華は、学校での姿が嘘のように、カウンターに頬杖をつきそうなほど身を乗り出して、ひかりの手元を熱心に見つめている。
「……ひかりの手は、魔法みたいです」
「……そんなこと」
「いいえ。学校では、あんなに遠くにいるのに。今は、こんなに近くで、私だけのために、温かいものを作ってくれている」
その言葉は、マイクが拾うか拾わないかのギリギリの音量。
コメント欄は、その親密すぎる「学校では遠い」という言葉に即座に反応する。
> ▷ ん?
> ▷ 学校では遠い???
> ▷ どういうこと!?同じクラス?
> ▷ あっ(察し)
> ▷ 尊い……学園モノじゃん……
ひかりは咳払いをして、熱々の出汁巻きを皿に乗せる。
「玲華さん。火傷、しないでください」
「ふふ。ひかりに、そんな風に心配されると、わざと火傷したくなります」
玲華が、湯気の立つ白出汁の玉子を一口。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
「……ああ……」
吐息が漏れる。
「これは……雪解けの後の、陽だまりの味です。
学校の廊下は、どこまでも続く氷の回廊のようで。足音が、冷たく響いて……自分の息でさえ、凍ってしまいそうになる。
でも、今、この一口が、その凍てついた廊下の先にあった、たった一つの、暖かい部屋の扉を開けてくれました」
彼女は甘い関東風を一口食べ、さらに表情を緩ませる。
「……そして、この甘さ。
『大丈夫、あなたは一人じゃない』
そう言って、頭を撫でてくれる、優しい手のひらの味。
……ひかり。あなたの料理は、いつも、私が一番欲しい『帰り場所』をくれるんですね」
学校での、あの完璧な微笑みはもうない。
配信画面の向こう側で、何万人が見ているというのに、玲華の瞳は、ひかりだけを真っ直ぐに映していた。
まるで、世界に二人きりしかいないとでも言うように。
ひかりは、玲華の熱っぽい視線から逃れるように、そっと目を伏せた。
学園での「藤森さん」という呼び名と、今、目の前にある「ひかり」と呼ぶ声。
その二つの顔の、どちらが本当の玲華で、どちらが本当の自分との距離なのか。
ひかりには、まだ分からなかった。
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