第1話 誓いの夜の回帰

建国記念日の夜。メインパレスの賑わいは遠く、裏庭園の暗がりには、祝賀とは無縁の冷たい空気が張り詰めていた。人々が宴に酔いしれている間、僕――第2王子エリオス――と、僕の全てである君――公爵令嬢セリナ――は、影に紛れ、荒れた石畳の上を走っていた。


逃げ道は、もうどこにも残されていなかった。僕が事前に調べ上げた抜け道は全て塞がれ、進むたびに追手の足音が冷酷に、そして確実に石畳に響く。硬質な軍靴の音が僕らの心臓を叩き、政敵の放った暗殺者たちの冷たい殺意が、すぐ後ろに迫っていた。


「エリオス……どうしよう、こんなに追われるなんて」

君の声は、夜気に溶けてしまいそうなほど微かだった。僕は振り向かず、ただ君の手を、冷たく震える小さな指を、力の限り握りしめる。この震えは恐怖だけではない。公爵家を背負い、僕という孤独な王子を支え続けてきた君の誇りが、今、絶望的な運命に打ち砕かれそうになっている証だった。


思い起こす。初めて君に出会ったのも、この建国記念日の喧騒の中だった。幼い僕は七歳、君は五歳。あの日は、警備の手薄な離宮の一室で、僕たち二人だけの時間が許されていた。だが、今夜は違う。僕たちは、この冷酷な宮廷の闇に、完全に飲み込まれようとしていた。


僕は、母の死以来、十二年間、孤独の中に生きた。

母は、立場の弱い小国の姫としてこの国に嫁いできた側妃だった。父――皇帝レオンハルト三世――には既に正妃と第一王子ユリウスがいたが、母は稀有な美貌と聡明さで父から深く寵愛され、一時は正妃すら霞むほどの存在だった。


しかし、僕を出産した後、母の体は後遺症により弱り始めた。正妃とその実家である大公爵家からの陰湿な圧力に耐えながら、母の衰弱は進み、僕はその姿を傍で見続けることになった。母は、僕が四歳になる頃に、静かに息を引き取った。


母を深く愛していた父は、その死を境に精神的な均衡を失った。彼は、寵愛する母を奪った僕を**『母の死を早めた存在』として憎悪するようになり、一切の関心を失った。それからというもの、僕は宮廷の最も古びた離宮の奥**に追いやられ、冷遇されることになったのだ。


与えられた部屋は、古びて煤けた北向きの部屋。部屋の隅には冷たい水が溜まったままで、冬場は凍えるような寒さだった。使用人は名ばかり。彼らは正妃からの圧力を恐れ、僕の部屋には一切足を踏み入れなかった。王子でありながら、僕は食事の準備、部屋の掃除、古びた衣服の手入れ、全てを自力で行う下働き以下の生活を強いられた。その孤独は、壁のひび割れや、古びた絨毯の煤のようなもので、僕の肌に染みついて離れなかった。


学問も独学だ。教師などつくはずがない。夜中に警備の目を欺き、古書庫に忍び込む。蝋燭の微かな光を頼りに、外交、戦術、経済学、そしてこの国の歴史書を盗み読む日々。知識を得ることは、僕にとって唯一の抵抗であり、生存戦略だった。孤独と不遇が、僕の思考と意志を、誰よりも鋭く研ぎ澄ませていった。


僕の唯一の支えは、母の最期の言葉だった。母は、冷たい離宮の部屋で、僕の小さな手を握り、涙ながらに告げた。その言葉は、まるで熱い烙印のように僕の魂に焼き付いている。

「王子として、この国を変えなさい。そして、その胸に誇りを持ちなさい。決して、彼らに屈してはいけない」

この誓いが、僕の魂を繋ぎ止めてきた。誰にも認められない王子が、いつかはこの国の未来を塗り替えるという、孤高の誓いだ。


セリナもまた、深い孤独を抱えていた。

公爵家は商業で栄えた名家であり、強大な経済力を持っていたが、彼女の立場は複雑だった。現在の公爵は祖父ルシアンであり、セリナの父は本来の跡継ぎ候補だった。しかし、八歳の頃、父は志半ばで病に倒れ、亡くなった。


これにより、次の跡継ぎ候補は父の弟、すなわちセリナの叔父バルドへと移った。祖父である現公爵は、他に後継者がセリナと叔父しかいない状況で深く悩んだが、公爵家には歴史上、女当主が存在しないという慣例、そしてセリナがまだ幼いという理由から、叔父バルドを次の跡継ぎ候補とした。


叔父は、公爵の地位こそまだ得ていないものの、この決定により公爵家のあらゆる権限を掌握した。叔父は、公爵家の経済力を私腹を肥やすために悪用し、伝統ある商会を破滅へと導こうとしていた。


しかし、セリナは屈しなかった。彼女は父から受け継いだ商才と、驚異的な計算力を持っていた。そして、父が亡くなってからというもの、祖父である公爵は彼女の類稀な能力を認め、叔父に権限が移った後も、裏側で家の重要な仕事の一部を彼女に任せていた。


叔父が仕掛けた無理難題な取引も、セリナは水面下で阻止し続けた。叔父の不正な帳簿の隠し項目を深夜まで精査し、その裏で、新たな海外取引先との秘密交渉を成功させたこともある。そのために費やした労力は、想像を絶するものだった。幼い体で、歴代公爵が築いた誇りある伝統と、家の信頼を守り続けたのだ。彼女の目は、いつだって数字と未来を見据えていた。


僕たちの孤独は、離宮で初めて出会った時に共鳴した。七歳の僕と五歳の君。僕の部屋の暗がりで、君は幼いながらに宮廷の冷酷さを理解し、涙を流した。そして、その涙を拭う僕に、君は初めて、公爵家の重荷を打ち明けた。僕たちは、この腐敗した宮廷の中で、互いの存在だけが唯一の真実だと知っていた。君を守ることが、僕の誇りであり、僕の誓いの証だった。


そして今夜、僕たちは再び運命に遭遇している。

僕たちは宮廷の壁沿いに身を伏せ、影に溶け込むように走る。追手の影は増え、三方向からの包囲態勢に移りつつあった。政敵の目的は、僕たちの存在そのものの抹消だ。


僕が、母の誓いを胸に、孤独な中で学んだ知識と公爵家の力を借りて、宮廷と貴族社会の腐敗に切り込み始めたのが、ほんの二年前。公爵家の商業権益の透明化、軍部の不正経理の摘発、そして皇帝直下の親衛隊の改革。それらの改革は、既得権益を持つ大貴族や正妃派、そして父である皇帝の不興までも買った。


「こっちだ……!」

僕は、幼い頃に君と秘密を語り合った古びた噴水の横を通り過ぎ、最後の抜け道を目指した。


だが、運命は、僕たちに味方しなかった。噴水を回り込んだ瞬間、正面から現れた暗殺者たちによって、逃げ場は完全に尽きた。僕はセリナを庇い、戦闘態勢に入ったが、相手は多勢。プロの暗殺者の強烈な一撃が、僕の側頭部を鈍く貫いた。


視界が歪む。耳鳴りが響き、体から力が抜けていく。僕の目の前で、君の手が、僕から離れていく。暗殺者たちがセリナの小さな体を乱暴に捕らえた。


「エリオス!」

君の悲鳴が、僕の意識の最後の砦を打ち砕いた。僕は必死に手を伸ばしたが、君の指先は、僕の手が届かない、遠い暗闇の中に消えた。


絶望が、全身を支配した。君を守れなかった。母に誓った誇りも、君との誓いも、全てを失った。


倒れ伏す僕の意識の中で、最後の言葉が、血の誓いとなって刻まれた。

「もし、次があるのなら……二度と君を泣かせはしない」

その言葉だけを魂に刻みつけ、僕の意識は、宮廷の冷たい闇に飲まれ、断絶した。


――次に目を開けた時、僕の全身を襲ったのは、石畳の冷たさや血の痛みではなく、古びたシーツの感触と、微かな埃の匂いだった。


意識が朦朧としながらも、僕の視界が捉えたのは、見慣れた、しかしあまりにも懐かしい光景だった。家具も絨毯も古びた、陽の当たらない離宮の自室。そして、窓から差し込む光は、まだ昼下がりだ。僕の体が発する体温は低く、そして七歳特有の、未熟な肉体の軽さを感じた。


僕は、飛び起きる。頭部には、暗殺者の鈍器で殴られたはずの痛みも、傷跡もない。ただあるのは、未来十二年間の全ての記憶という、重すぎる情報だった。


混乱が僕の頭を支配した。未来の記憶が、七歳の僕の脳髄を、激しい熱と痛みで焼き尽くそうとする。追手の包囲。セリナが捕らえられた絶望。そして、僕自身の死。すべてが鮮明すぎた。しかし、この光景は、紛れもなく、僕が七歳だった、あの建国記念日の昼下がりだ。


そして、ふと、部屋の片隅に、小さな影を見つけた。


幼い子供が、僕の部屋の片隅で、両膝を抱えて座り込んでいる。七歳の僕の部屋に、いるはずのない、五歳の少女。彼女は離宮で迷子になり、偶然この部屋に足を踏み入れたのだ。


「き、君は……」

僕が掠れた声で問いかけると、少女はびくりと震え、顔を上げた。真っ赤に腫らした目。小さな手で、目元を必死に拭こうとしている。


君――公爵令嬢セリナ――は、あの初めての出会いの時と同じ、迷子の不安と、幼い無力感に苛まれ、涙を流していた。


その涙を見た瞬間、僕の内部で、未来の僕の**「誓い」**が爆発した。

「二度と君を泣かせはしない」


この涙は、追手から逃げ切れない絶望の涙ではない。僕が、命と引き換えに「流させない」と誓った、過去の涙だ。この涙を、未来の記憶を持つ僕が、今、拭い取る。


僕は立ち上がり、幼い体に鞭打ち、セリナに向かって歩み出す。七歳の僕の歩幅はもどかしいが、その足取りには、十二年間の政治的駆け引き、戦術、そして君への愛の全てが詰まっていた。


「大丈夫だ、セリナ。もう、怖くない」

僕は、五歳の君の隣に跪き、震える小さな背中を、優しく、しかし確固たる決意を込めて抱きしめた。この瞬間、未来の記憶を持つ僕は、幼い自分自身を、そして君を救うため、孤独な戦いを始めることを決意した。


幼い頃の不遇、宮廷政治の陰謀、そして二人の運命――全てを背負い、僕は、この七歳の体で、**「二度と君を泣かせない」**という、新たな、そして強靭な誓いを胸に、孤独な戦いを始めることを決めた。この二度目の人生で、僕たちの運命は、必ず変えてみせる。

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