それでも生きていたほうがいい

三角海域

それでも生きていたほうがいい


 反復が山本隆の日常のすべてだった。


 スーパーマーケット「サンライズ」のバックヤードから段ボールを運び出し、棚に並べる。ラベルの向きを揃え、奥まで隙間なく詰める。気づけば一日の大半を、その反復に捧げている。


 隣の通路からは、自分より十歳は若いアルバイトたちの笑い声が聞こえてくる。


 春からの就活の話。新しくできた恋人の話。昨夜のアニメの話。

 これから先の未来を信じている者だけが持つ、希望に満ちた響きがそこにあった。


 隆は、耳に蓋をするように黙々と手を動かす。

 彼らの時間がさきへさきへと流れていく一方で、自分の時間は、過去の失敗の上で延々と足踏みしている気がしてならない。


 二十代のほとんどを、隆は自室で過ごした。大学卒業後、就職した先で大きく躓き、外に出るのが怖くなった。


 朝が来ても布団から出られず、カーテンを閉めたまま、ただ時間が過ぎるのを待っていた。


 時々、母が部屋のドアの前に食事を置いていく音が聞こえた。

反復の中にいると、またあの頃へ戻るのではないかと不安になることがある。


 そんな時は、初めてもらった給料を両親に手渡した時のことを思い出す。


 封筒を受け取った母、涙を浮かべながら「ありがとう……頑張ったね」と言ってくれた。


 二十代のほとんどを自室で潰してしまった自分に、こんな優しい言葉をかけてくれるものなのか。

 そんなことを考えて呆けている隆を、父は強く抱きしめてくれた。


 自分なんて生きている価値がない。いつもそんな風に考えていた。けれど、両親はそんな自分を肯定してくれた。


 生きよう。この出来事により、隆は強く思うようになった。


 自分は生きていたほうがいい。いまはそう思う。思うことができるようになった。



 仕事を終えると、隆は自転車にまたがる。

目指すのは、土の匂いが濃くなる郊外のはずれ。


 どこまでも続く畑のすぐ近くに、それはぽつんと建っていた。


 古民家を改装した「メイドカフェ いのうえ」。

 地主の井上源蔵という老人が、亡き妻の夢だった喫茶店を「趣味で」始めたと、常連が教えてくれた。


 なんでメイド喫茶なのかというと、それも井上老人の趣味であるらしい。衣装なども自費でオリジナルのものを作成したというのだから驚きである。


 引き戸を開けると、カウベルがからんと音を立てる。


「おかえりなさいませ、ご主人さま!」


 ツインテールを揺らす女子高生メイド、鈴木莉奈が弾ける声で迎える。


「あっ、隆さん! お疲れ様です!」

「お疲れさまです」


 隆は小さく会釈し、窓際にある「いつもの席」へ向かう。

 そこからは、夕陽に染まる井上さんの畑がよく見えた。


「今日は何になさいます?」


 メニューを持ってきたのは、三十代後半の主婦メイド、佐藤恵美。


 少し恥ずかしそうにメイド服を着ているが、その姿がむしろ人気があると隆は聞いたことがある。


 指先で軽くページをめくる仕草に、大人の余裕が滲んでいる。


「ブレンドコーヒーで」

「かしこまりました……あ、隆さん」


 恵美が悪戯っぽく声を潜める。


「尾崎さん、いらっしゃってますよ」



 カウンターの奥の薄闇に、彼女はいた。


「隆さん、こんにちは」


 抑揚の少ない声と、長い黒髪。この世の者ではないような、独特の雰囲気がある。


「こんにちは、尾崎さん」


 彼女がコーヒーを淹れる所作には、静謐な美しさがあった。

 そんな風にコーヒーを注ぐ尾崎を見るのが、隆は好きだった。


「お待たせしました」


 コーヒーの表面に、小さな音符のラテアートが浮かんでいた。


「……音符?」

「なんとなく。元気でるかなって思って」


 何気ない一言が、乾いた心に染み込んでくる。


 空いているときにメイドが客の向かいに座るのが、この店の緩いルールだった。

 尾崎は静かに椅子を引いた。


「隆さんって、毎日同じ時間に来て、同じもの頼むよね」


 唐突にそう言う。


「ルーティンってやつ?」

「そうですね。安心するんですよ、決まったことをこなしていると。そういう儀式みたいなものなのかもしれません」

「そっか」


 尾崎は小さく笑う。


「そういうのがないと、生きていけない人って、結構いるよね」


 その横顔に、一瞬だけ深い影が差したような気がした。




 変化は、夏の終わりのある夕暮れにやってきた。


 健康のために始めた散歩の途中、隆は畑の脇の小径に小さな東屋を見つける。

その柱にもたれて煙草を吸っていたのは、見慣れた人影だった。


「……隆さん」


 メイド服ではなく、シンプルなシャツとジーンズ。

 仕事中の仮面を外した尾崎は、心なしか小さく、頼りなく見えた。


「どうも」


 近づくと、彼女は紫煙を吐きながら、少し照れたように笑う。


「見られちゃった。幻滅した?」

「え?」


 意図が読めず、隆は首を傾げる。


「メイドが煙草なんて、普通は引くでしょ」

「尾崎さんが吸いたいなら、吸えばいいと思います。僕がどうこう言うことじゃないです」


 尾崎はきょとんと瞬きをしてから、くすりと笑った。


「……隆さんって、面白いね」

「そうですか」

「うん。嫌いじゃない」


 それから、散歩の途中で尾崎の姿を見つけると、会話をするようになった。


 彼女が一本吸い終えるまでの短い時間だけ、季節の話や、テレビの話や、どうでもいい愚痴を交わす。


 ある日の夕方、いつもより煙草の香りが濃いことに隆は気づいた。

「……何本目ですか」

「四本目」

「何かあったんですか」


 尾崎は、煙を吐き出しながら小さく笑った。


「よくわかるね」

「なんとなくです」


 しばらく沈黙が続いた後、尾崎がぽつりと言った。


「私、妹がいたの」


 過去形。その意味を、隆は察した。


「五歳下。すごく明るい子で、いつも私にくっついてきてた。でも、中学生のときに事故で」


 煙草の先が、小さく震えている。


「あの子が死んでから、私はずっと……なんで私じゃなかったんだろうって」

「そんな……」

「妹は将来のこと、いっぱい語ってた。私は何も考えてなかった。何にもない私が生きてて、あの子が死んだ。おかしいよね。時々、そんな風に思い出しちゃうんだよ」


 隆は言葉を探した。けれど、何を言っても軽くなる気がした。


 だから、ただ黙って隣に立ち続けた。

 尾崎が煙草を吸い終えるまで。


「……ありがと」


 尾崎が呟いた。


「何も言わないでいてくれて」


 それから数日後、また東屋で会ったとき、尾崎が不意に言った。


「隆さん、趣味とかないの?」

「特には」

「もったいない。何か始めなよ。ギターとかさ」


「ギター?」


 不意を突かれて聞き返すと、彼女は煙の向こうで頷く。


「私の好きなバンドのギターボーカルに、ちょっと似てるんだよね、雰囲気が」

「へえ」

「その人ね、バカみたいに真っ直ぐな歌ばっか歌うの。『それでも生きていたほうがいい』って、不器用に何回も叫ぶの。ね、ギター、やってみなよ」


 唐突な提案だった。

 けれどその言葉は、色のなかった隆の世界に、ささやかな彩りをくれた気がした。




 一週間後、「いのうえ」のカウンターに、立派なギターケースが置かれていた。


「隆さん、これ」

「え?」


 尾崎は何でもないことのように言う。


「プレゼント」

「いや、無理です。こんな高そうなの……」

「いいの。隆さんに弾いてほしいから」


 ケースを開けると、木目の美しいアコースティックギターが、静かに横たわっていた。


 あとでこっそり調べてみると、隆の月給が飛ぶような代物だった。


 どんな思いで尾崎がこれを用意したのか、想像が追いつかない。

 ただ、弦に触れた指先が、自然と震えた。


「……絶対、弾けるようになります」


 その夜、隆はそう誓った。


 それからの日々は、一変した。


 仕事から帰ると、テレビもスマホもつけず、ひたすら弦に触れた。

 固い弦で指の腹が裂け、血が滲む。


 それでも、尾崎が教えてくれたバンドの曲を繰り返し聴き、コード表とにらみ合う。


『諦めるな』『生きろ』『それでも前を向け』


 飾り気のない直線的な歌詞が、かつての自分に向けられているようで、隆の胸を打った。


 部屋に閉じこもっていたあの頃の自分。誰にも会えず、誰とも話せず、ただ時間が過ぎるのを待っていた自分。


 あの時にこの歌を聴いていたら、何か変わっていただろうか。


「いつか、このバンドのライブに行きたい」


 そう思い、隆は空き缶をひとつ用意した。

毎月、給料から千円を抜いて缶に落とす。

その小さな行動に、未来を感じられた。



 そんな日々が続いていた、ある日。


「隆さん、ごめんなさい……」


 いつもの時間に店に入ると、恵美が申し訳なさそうな顔で言った。


「尾崎さん、辞めちゃったの」

「……え?」


 カウンターの影から莉奈が、今にも泣きそうな顔で付け足す。


「これでおしまいなんて悲しいから、連絡先を聞いたんだけど、教えてくれなくて」


 隆は、畑の東屋にも足を向けた。

けれど、そこにも尾崎はいなかった。


 翌日も、その次の日も同じだった。

まるで、最初から存在しなかったみたいに、彼女の痕跡は消えていた。


 それでも隆は、ギターだけは弾き続けた。


 彼女が残していったこのギターだけが、自分を支える唯一の柱だった。

 いつかふと戻ってきた彼女に、胸を張って聴かせるために。


 指先に堅いタコができ、爪が割れ、それを乗り越えると、コードチェンジが少しずつ滑らかになる。


 数ヶ月後には、最後まで通して一曲歌えるようになっていた。


 ある日、店で恐る恐る披露してみると、恵美がそっと目元を拭った。


「尾崎さんにも、聴かせてあげたかったね」


 彼女がくれたギターと、音楽がある。

それは隆にとって、とても大きな喜びだった。




 ある日の午後、スーパーがざわつき始めた。


「屋上! 飛び降りるぞ!」


 誰かが叫ぶ。

 客も従業員も、入口へ殺到する。


 隆も流れに押されるまま外に出た。

見上げた屋上駐車場の縁に、人影が立っていた。


 風に揺れる、長い黒髪。


 尾崎だった。


 彼女は柵の外側ぎりぎりに立ち、虚空を見つめている。

 手には一本の煙草。


「おい、降りろ!」

「やめろ!」

「死ぬなよ!」


 地上から飛ぶ声は、半分が善意で、半分が野次だった。


 隆には、ひと目でわかった。

 尾崎は、すでにどんな言葉も届かないところにいる。


 このままじゃ、彼女は飛ぶ。

 そう決めて、ここまで来ている。


 どうすればいい。


 頭の中が真っ白になる。


 だが、そんな動揺の中で、一つだけはっきりと浮かび上がったものがあった。


 ギター。


 気がついたとき、隆は走り出していた。


――


 息が荒い。


 視界が滲んでいる。呼吸もうまくできない。それでも前に進むのは止めない。


 ギターを背負った隆が人垣の前に戻ってきたとき、まだ尾崎は屋上の縁にいた。


 だが、その手にもう煙草はない。


 間に合え。

 隆は祈るような気持ちで人垣をかき分けた。


「どいてください!」


 叫びながら前へ。


 ようやく先頭に出ると、その場でギターを抱えこむ。

 震える指で、慣れたコードを押さえる。


 そして、力任せにかき鳴らした。


 不細工な音。

 だが、その音は喚声を一瞬で消し飛ばした。


 静まり返った空気の中、屋上の尾崎がこちらを見た。


 隆は、声を絞り出す。


 あのバンドの歌。

 彼女が教えてくれた、何度も何度も「生きろ」と繰り返す歌。


 音程なんて合わない。

 声も震えて、途中で裏返る。

 それでもかまわない。


「それでも――生きていたほうがいい!」


 彼女にだけ届けばいい。

 世界中の誰にも届かなくていい。


「うるせえよ!」

「邪魔すんな!」


 背中に罵声が飛ぶ。

 隆は歯を食いしばり、その上にさらに声を重ねた。


「尾崎さぁん!」


 喉が裂けるほどの声で叫ぶ。


「死なないでください!」


 屋上で、尾崎の肩がびくりと震えた。


 無表情だった顔が、ゆっくりと歪む。

 驚き、困惑、諦め――そして、そのどれとも違う何か。


 尾崎が、笑った。


 隆の目から、堰を切ったように涙があふれる。


「……死なないで」


 隆の口から小さく声が漏れる。


 尾崎は、目を閉じた。


 それから、縁の外ではなく、内側へと一歩さがった。




 いくつかの季節が巡った頃。


「メイドカフェ いのうえ」の窓際席で、隆はいつものブレンドを飲んでいた。


「隆さん」


 カウンターの奥から恵美が顔を出す。


「尾崎さん、呼んでるよ」


 以前より少し痩せた尾崎が、控えめに手を上げた。

 しばらく支援を受け、今はゆっくりと復帰しているのだと聞いていた。


「隆さん」


 彼女はカウンター越しに近づき、封筒をひらひらさせる。


「ライブのチケット、取れた。一緒に行こ」


 頭に、満杯になった千円貯金の缶の手触りが浮かぶ。


「……はい。行きましょう」


 尾崎は隆の正面に腰を下ろした。


「あの時は、ただ必死で。かっこ悪かったですね」

「そんなことない。あれじゃなきゃダメだったと思う」


 尾崎は窓の外に視線を向ける。

 畑では、井上さんが黙々と土を返している。

店内には、莉奈の笑い声と、恵美の柔らかな声。いつもの光景だ。


「隆さんの、あのめちゃくちゃな歌を聞いてさ……まだ死にたくないなって、思っちゃった」


 尾崎は、不器用に笑った。


「『それでも生きていたほうがいい』、でしょ?」


 隆はゆっくり頷く。


「はい。それでも、生きていたほうがいいです」


 ギターケースを開け、一度だけ弦を撫でる。

まだまだ拙い。

 けれどこの音は、確かに誰かの命を縫いとめた。


 それを確かめるように、隆は小さくコードを鳴らす。


 たどたどしいその響きとともに、隆の日々は、これからも続いていく。

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