第2話




 まず、丘があった。


 ずっと昔に、地殻変動があって一帯が隆起したのがことの始まりである。大抵の丘はそうやって出来るものだ。思うに極東にぽつんと浮かぶ三千キロに及ぶ列島でさえ、地殻変動とやらが起こるまでは大陸のすくそばにぴったり張り付いていたのであり、それはさながら腸壁にひっ付くサナダムシのようだったと言う。更にさかのぼるなら、世界は美しいひとつの大陸であった。


 今はもう、そうではないが。


 車窓から見えた丘は何の変哲もない。つまり特筆するものがなく、とはいえ馬鹿には見えないだけで経済的価値か政治的コネがうなりを上げる地であり、でないと新幹線なんてものが通る道理もないじゃないかと、見ている者をどこかはらはらとさせる景色。これも山陽地方が終始見せる一流の光景で——山々や田園や街並みに降り注ぐ日光さえ冴えないし、年中代わり映えもしなかった。


 朝倉アサクラ碧彩はその丘を眺めている。というより、後からこの瞬間を思い返し、もう一度改めて席に着き丘を眺めているというシミュレーションをもよおしたというのが正しいだろう。息吐いきつく合間に、過去と未来、そして現在のある地点は、実は数十分前から待っていたがさっき来たばかりだとよそおって出会い、お互い初対面なので気の合う所を探し合ったが、それを人は連想とかデジャヴとか呼びならわす。彼女は三つの丘を股にかけたセシル・ローズとなって、時空の境界をまたぎ奇々怪々なる反復横跳びをしている最中なのだ。


 第一の丘の名は「運命」というが、数時間前に始まったばかりの安っぽいものだった。阪急三国駅から数十分やって来てさすがに疲れ果てた彼女が、ほどけたまま何キロも放置されていたハイカットの靴紐を結ぼうと、新御堂筋が走る高架のすぐ直下に続く高い緑の鉄柵のそばに腰を下ろした。向かい側に高校があった。校門から一面に張り巡らされた鉄柵の上には有刺鉄線まで付いてあった。親愛なる同級生のひとりは、彼の小指の爪ほどある吟遊詩人としての才を働かせ、辺りを塹壕戦の最前線や動物園の鳥獣区にたとえたが、まずもって都会というのはあらゆる人工物が集積した肥溜めのようなもので、泥まみれになって横たわるどん詰まりの終着点だったが、そこで腐ったものは潰して再開発されるのであり、みんなどこかしら見覚えがあるのはそういう訳だった。


 彼女は次にベージュのストッキングを引っ張って直し、その下にっすら見える脚はフラミンゴの毛並みのようにほの紅く血色が良さそうだった。冬本番が腕まくりしてやってきたというような朝明け前の寒さと全身に回ったアルコールのお陰で、生命の危機を感じた身体が対抗策として講じた血流亢進こうしんの為である。それから、膝下まである長丈の、頭巾フード付きアノラックのポケットを探る。中にはスマホと小銭入れ、駅前で貰ったティッシュ、薬用リップ、「クリーム」との店名の入った名刺と、そこのカウンターに置いてあった個別包装の爪楊枝。これで全部、と彼女は溜息をく。


 顔を上げ背面を見やると鉄柵の続く先に両開きの扉があり、ラミネート加工された「進入禁止」の張り紙が掲げられている。扉は錆とほこりで繋がっているような古めかしいかんぬき状の鍵で留まっていて、用心深く押しやると抵抗なく開き、できた隙間からアメーバ赤痢のように潜り込んだ。


「誰だ」と奥から呼びかけがあったものの彼女は構わず突き進んで、横数メートルに渡るブルーシート製の幕の目前まで迫り、昔文化祭なんかで教室の仕切りに段ボールを代用したことを思い出しながら、同じ役目を果たすシートの切れ目を分けてめくり中を覗いた。男がひとりラグに腰かけていて、一瞬立ち上がろうと腕置きに手をけたがまた止めて、それを誤魔化すように片手を振った。


「勝手に入るな」

「座っていい? 疲れちゃって」といい彼女はシートで区切られた一応の部屋らしき空間のなかに並んだ椅子たちを指差した。それはいわば追い剥ぎや非正規軍のようにまとまりのない集団で、指の先を追うとその中でもひときわ凡庸なキャスター付きの事務椅子に行き当たった。この提案が彼女なりの、初対面の相手に対するつつしみだと気付く者はそういない。

「疲れてたらアメーバ赤痢みたいに、こっそり他人の家に押し入って、そのまま勝手に居座っても誰も構わないって訳だ」といって男はにらみ付けるのと変わらない視線を向けたが、返事を待たずして彼女は席についており、再度辺りをじっくり見渡した。

「言うなら、破傷風菌のほうがそれっぽい」

「へえ。独創的な発想だな」

「ここってあなたの家なの?」

「表札が出てたか? こんなとこ住んでる訳ないだろ」

「じゃあ別にいいじゃない」

 男は足を組み直してから口を開く。「住んでないからって、何の権限もないっていうなら大間違いだ」


「それは何?」という朝倉の放埓ほうらつな興味を次にきつけるものは、幾つもの被覆コードが走るちょっとした鞄ほどの大きさの電子機器で、付属した液晶画面には三本の白線がちらちら揺れながら走っている。

「拾ったんだよ」男はそういうと、コードを一本取り糸をるように引き上げ、先端に付いたマイクを手に取って、「ジャジャジャジャーン!(聡明な方々は文面からベートーベンの交響曲第五番第一楽章を想起することができる)」と突然声を張り上げふざけた呪文を唱えると、画面の白線がむちのようにたわんで伸びて、その連続した波形が何十もの起伏となりやがて流れて消えていった。

「オシロスコープっていうんだが、あいにく俺は電気技師じゃないから、こんな使い道しかない」

「高く売れそう」

「売らないさ。こうやって」男は意味深長に目盛りの付いたダイヤルをいじったが、判らなくなる前にまた元に戻した。「曲を聴いたりなんかしても音程を確かめられるし。声帯の異常も観察できる。まあ医者でもないがな。でそろそろアンタが誰かを教えてくれ」


 朝倉は自分の名前を舌の上で転がしてからガムみたいに吐き出した拍子に、なにか失念していたことを思い出し、けれども忘れていたものそれ自体が思い出せず、思考だけが躍起やっきになって働いて血が巡ったので、くすぶっていた酔いやも余すことなく行き渡って、座ったままでも眩暈めまいがした。男は黙ってどこからかペットボトルを持ち出した。彼女は素直に受け取って口を付けると、男はスマホを取り出して画面を見やる。


「昨日、いや今日かもしれないが、ともかく俺に電話したのは覚えてるか」

「いやあんまり」と朝倉はいったが、それでも少し、いやかなり見栄を張っていた。

「まあ構いやしないさ」と液晶画面を見せつけ軽く叩いてみせる。「履歴は残ってるだろ」

 彼女は一旦考えを打ち切りたかった。

「えっと。悪いんだけどちょっと寝ても良い?」

「駄目だ」

「なんでよ」

「ここは借りてるんだよ。レンタルオフィスだからな」といって男は立ち上がる。

「誰だって職場じゃ寝泊まりしたくないだろ」

「ここが『オフィス』?」といいながら彼女は空っぽな胃の痛みに顔をしかめた。「そこらの緑地公園のほうが、まだスマートに見えるけど」


 さて、第二の丘はたった今、現実の時間軸というやつで、とうとう名も無き丘がまばたきより早く左右へと受け流され車窓からは見えなくなると、彼女は頭をヘッドレストに押し付け、家の戸締りやさっき買った特急券の値段なんかにようやく胃を痛くすることができた。隣に座るのはさっきの男、名前を左リヒダリとかいって、発車する前から今回の業務内容について口うるさく言及してきた。曰く、自分は「約束屋」というやつで、酒の席なんかで安易に結ばれる次の遊びや旅行の日程、はたまた貸付の保証人や相続の約束まで、その場で口先で交わされる約束を履行させるという仕事だという。


「それって割に合うの」

「合わない。でも副業だから」

「本業はなに」

再生資源事業リサイクルだよ」

「へえ」

「青色申告もしてる」

「ほんと?」

「いや嘘だ。税金を払ってないからな」

「あっそ。そんであなたの胡散うさん臭そうな仕事って、誰が金を払うの」

「頼んだ奴だよ」と左リはいった。「つまりアンタだ」

「私はなんて言ってたわけ? その……電話口で」

「あんまり覚えてないな。近々アンタの母校が大規模改修でみんな一旦取り壊すって話で、まずそれは改修ってか新築だし、アンタらが卒業しきった後に、自分が毎年払ってた学費でその分をまかなうっていうのも変な話で、それなら重機の前に寝っ転がってでも邪魔してやるんだって言ったんだっけか?」

「へえぇえよく覚えてんね——冗談はもういいんだけど」

「始めはみんな、決まってそう言う」といい左リはひたいにあった目隠しアイマスクを下ろす。「こっちは酔っ払いの記憶や私生活を逐一探り当てようって気はないんだ。占い師じゃあるまいし」

「じゃあほっときなよ」

「ああ。付いて来てくれなんて頼んでもないしな」


 朝倉のあまり大きくない(いえ、小さく可愛らしい)頭に収まった脳の機能ですら、いくらでも言い返す余地があったし、なんなら怒ってすらいなかった。まるで怒り心頭の際、それを悟らせない為の苦しい出まかせみたいに聞こえる文句だが、本当のことだった。しかし実際に彼女がやったのは「!」とかいってわめき出すことで、これが数日分の鬱憤うっぷんが制御を失って飛び出してきただけだとしても、人前で癇癪かんしゃくをおこした事実を彼女が恥じ入って更に落ち込む羽目になり、それはそれで面倒だと察したのか、〈なあ落ち着けよ〉と繋がったままの電話越しからなだめる別の声。が朝倉は、横で狸寝入りする男を告訴する手段を探して(じゃあ恐喝や脅迫? どれも違うと彼女は思った。早々に家に帰ってしまえたのに、こんなとこまで自分の足で付いて来たばっかりに。いや違うそれは、判断力の鈍った私に付け込んだ向こうの責任で——おいおい、随分と不機嫌そうだな!)、一向に怒鳴り散らしたまま。車内の同乗者たちは賢明だったので、眉をひそめて見て見ぬふりをする。


 第三の丘は、まだしばらく見えてこない。



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