狐哲学

颯々うみ

第1話

 サークル棟には妖怪が住み着いている、というのは我が大学では有名な話だ。


 ようかい、ヨウカイ、妖怪。物の怪、アヤカシ、魑魅魍魎。

 時に豊穣を、時に凶事を。

 古代から今日に至るまで様々な逸話と奇々怪々な姿で語られてきた彼らは、常識では説明のつかない超常現象を気分一つで引き起こす自分勝手な存在として敬われ、恐れられてきた。


 ただ悲しいかな。現代において、彼らの影はすっかり薄くなってしまったと思わないだろうか。ホラー映画といえば幽霊、呪い人形、ゾンビに悪魔、チェーンソーを振り回すおじさん。最後のもある意味妖怪といえば妖怪だが、やはり僕らの祖父母の時代から考えれば妖怪そのものに対する印象は随分マイルドなものになった。


 とにもかくにもサークル棟の妖怪、である。そういった類の話は大学に限らず全国の小中高等学校にはつきものであり、いつの時代にもありふれた、どこにでもある怪談話に過ぎない。


 曰く、サークル棟に住み着いた妖怪は女の姿をしており、夜な夜な人の生き血を求めて構内を徘徊している。

 曰く、開かずの休憩室がどこかに存在し、そこから流れてくる怪しげな呪文を聞くと呪われる。   

 曰く、ある教室で居眠りをすると淫夢を見る。

 曰く、昼時になると使用不可になっているはずの三階女子トイレの個室から何かを貪り食うような音が聞こえてくる――えとせとらえとせとら。


 四月一日。

 入学式の会場で、ぼっちを回避するために話のネタを仕入れてきたのであろう卑怯者と、まんまとその策にハマって悲鳴を上げる女生徒の会話に耳をそばだてた僕は心底がっかりしたものだ。いよいよもってAIが発達し、人間から職を奪おうかと危惧されるこの時代に何を馬鹿げたことを、と。

 「せめて最後のは放っておいてやれよ」と、突然名前も知らぬ同級生に言い出すこともできず、結局悶々とした気持ちを抱えながら学内を散策する羽目になった。


 そんな入学式の日から一週間が経ち。

 僕は今、大学近くの総合病院の待合室で、固い座席の感触に尻鼓を打っている。

 およそ四百床に届くか届かないか程度の規模を持つ三日月総合病院の待合室では、朝も早くから妖怪百鬼夜行かのごとく、顔中を皺だらけにしたジジババ――もとい魑魅魍魎たちが保険証を片手に所せましと会合を重ねている。


 やれ先月のゲートボール大会で腰痛を患った岸本さんもいよいよ寝たきりになりボケが始まっただの、やれ今年大学生になった栗山さん家のお嬢さんは飛び切りの美人だの、犬も狐も食わないクソみたいな話をぺちゃくちゃぺちゃくちゃと。

 しかも皆一様に耳が遠いせいで、ひそひそ話のつもりがずぶずぶ話になっているのだから、これはもう救いようがない。勿論それらは聴力の問題だけに留まらないのは、彼らに比べればまだまだ青臭いガキんちょの僕でも想像に難くないのだが。


 年を重ねるにつれて記憶力も判断力も衰えていくというのは、今春から晴れて大学生になった僕自身もそろそろ実感が湧いてくる年頃ではあるが、後ろの座席で身振り手振りを交えながら話す爺様は何回も何回もおなーじ内容を話すせいで、一向に起承転結の結まで辿り着かない。身振り手振りに合わせて、彼が握る杖が座席から少し覗いた僕のケツをぼこぼこと叩くとなってはいよいよ性質が悪いことこの上ない。

 「その話ならさっきしてただろうが」と思わずツッコミ手が出そうになるが、話している方も聞いている方も、そんなことはとうの昔に忘れてしまっているので、隣で補聴器を傾けている婆様も常に新鮮な反応を返すのだ。ならば誰が不幸になるわけでもないし、ここは自分のおケツを犠牲にしてでも不平不満は胸の内に留めておくことにした。

 これが大人になる、ということなのであろう。

 栗山さんとこの娘さんに、果たしていわゆるカレシという存在がいるのかどうか。その話だけでもどうか結びに至ってほしいと切に願ったところで、受付の医療事務員が僕の名前を呼んだ。


 生まれて此の方風邪もひいたことのない健康優良モヤシたる僕が、どうしてこんな山の麓に古くからある病院なんぞに来る羽目になったかといえば、時間を遡って説明する必要がある。


 四月一日。再び入学式の日である。

 つい数行前に風邪もひいたことがないと述べたが、あれは少々語弊があった。元来物事を斜め上から見下ろす性格であった僕は、高校に入学してから遅れてやってきた中二病という大病を患ったわけだが、華の大学生となってからは心機一転。ようやく人間らしい文明的なコミュニケーションの素晴らしさを思い知ることになる。


 それもサークル勧誘に精を凝らす先輩方々の中で、一層目を引く楚々の方とばっちり視線がぶつかったことでまんまと「宇宙力こすもぱわー研究会」なる怪しげな団体に、半ば無理やり引き込まれたことがきっかけだった。

 これが万有引力か、とニュートンの教えに少しばかり感心していた僕の視線を掴んで離さないその麗人は、その陶磁器のような指で僕の肩甲骨をなぞると「キミもこっち側なんだね」と悪戯っぽく八重歯を覗かせながら宇宙電波を入力してきたのだ。

 毒を以て毒を制す。サブカル文化を中途半端に拗らせた程度の甘ちゃんは、幸か不幸かその一言で高校三年間の夢想から冷めてしまった。「本物」を前にしたことで右目の疼きも第二の人格もすっかりとそのナリを潜める結果となったわけである。


 「てんてこまい」と彼女は名乗った。


「随分奇天烈なお名前ですね。出身はどちらですか」


 僕の方こそ初対面の先輩に対して随分な態度であったが、当時はまさか本名であるとは思いもしなかったのだから仕方がない。何せ「てんてこまい」だ。どこにそんなバカげた名前をつける親がいるというのだろう。そんな暴挙が許されるのであれば、そのうちに「てんやわんや」君だとか「かくかくしかじか」ちゃんなんてキラキラネームならぬよぼよぼねぇむが日本中に氾濫してしまう羽目になる。

 怪しげなサークルに所属する怪しげな先輩に対する先制攻撃としては最善手であっただろう。断じて、いきなり自分の背中をなぞられた気恥ずかしさや動揺を誤魔化すために策を弄したわけではない。とだけは言っておく。念のため。

 少々つっけんどんな返しに臆することもなく、「てんてこまい」さんは黒い前下がりのボブカットを揺らしつつ僕の顔を見下ろして言い放った。


「生まれは栃木の山のほうだよ。捨て子だった私を天狗様が拾って育ててくれたんだ」


 嗚呼、電波。折角の美人が台無しだ。


「ささっ、サークルの申し込みはこっちだよ」


 開いた口を塞ぐ術を失った僕の手を強引に引っ張りながら「宇宙力こすもぱわー研究会」へと案内する彼女のお陰で、僕の中に燻っていた暗黒面は晴れて浄化されることとなったのだ。荒療治万歳。


 それにしても女性の手である。自分の母親を異性として定義しないのであれば、女性の手に触れるのはいつぶりだろうか。溢れかえるスーツと、はつらつとしたサークル勧誘の掛け声に後ろ髪を引かれつつも、段々と静けさを増していく道中を行く彼女のあとを、心臓の鼓動が手首の血管の躍動を通して伝わりはしないかと内心どぎまぎしながら続く。繰り返しになるが、「てんてこまい」さんは非常に顔面の整った人物である。ただでさえも異性に免疫のない生息子が、これから起こりうるかもしれないアバンチュールに心を躍らせることがないとすれば、それはよっぽどの女性嫌いか男色家であるに違いない。

 生憎僕はそのどちらにも属さない、至ってニュートラルな性嗜好を持つ男子学生であるため、この状況に少々浮足立っていたことは否めない。


 ただやはりというか、サークル棟の最奥にある「宇宙力こすもぱわー研究会」の会室へと案内された僕の口はしっかり一文字に結ばれることとなるのだが、それはまた別の機会に触れることにしよう。


 結局、一体どんな活動をしていて、どんな人間が所属しているのかもわからない珍妙なサークルに入学早々加入する羽目となり、満開の桜の下で真剣に休学を考え始めた僕であったが、結果的に先輩方はとても気前の良い人ばかりで、単位の取りやすい授業や提出物にうるさい教授の情報を実に事細かに教えてくれた。学内にほとんど知り合いらしい知り合いもおらず、友だちなるものの作り方も知らぬ僕にとっては一先ず懸念事項が解消されたといっても過言ではない。それとは別に大きな問題を抱えることとなったような気がしなくもないが、それはそれとして置いておくことにした。

 

 さて、満開だった桜から見える晴天がそれなりに面積を広げ始めた日和。今日である。我が「宇宙力こすもぱわー研究会」では新歓のお花見会が催されることとなった。モバイルメッセンジャーアプリに記された通りに大学近くの公園まで出向いた僕を迎えたのは、一升瓶を片手に白い肌を赤く染めた「てんてこまい」先輩であった。


「あれぇ遅かったねぇ。もう始めちゃってるぞぉ」


 記憶が正しければ開始予定時刻の一時間前である。

 ふらふらとおぼつかない足取りで近づいてきた彼女は、タイトなジーンズのポケットからビーフジャーキーを取り出して一齧り。春色のカーディガンがはだけて、薄いブラウスの隙間から破廉恥な紐が覗いている。普段の凛とした姿はどこへやら、すっかり出来上がった彼女はアルコール臭い息を周囲に撒き散らしながら、あろうことか僕に向かって思い切りダイブをかましてきた。

 これはいけない。へべれけになって受け身のことなど一寸も考えていないであろう彼女の体を避けることは容易いが、そうすれば「てんてこまい」先輩は固い地面に向かって熱い接吻を披露することになってしまう。慌てて受け止めようとしたが、ただでさえも身長差があるうえに僕は自他ともに認めるもやしっ子だ。躊躇のない飛び込みに、ひょろっちぃ体幹が耐えきれるはずもなく、あっさりと地面に背中を打ち付ける結果となった。


 頭をぶつけなかったのは幸いだろう。誤解しないでほしいのだが、先輩は細い。かなりのスレンダーでいわゆるモデル体型だ。しかしいくら細身だからといって人一人分の体重が無遠慮に、自由に、無責任に圧し掛かってくるとすれば相応の苦痛が伴う。

 そして思わず息が止まった僕に追い打ちをかけるようにすえた臭い。水気を含んだビーフジャーキーの成れの果てが、彼女のポケットから転がり落ちた学生証と僕の胸元に、見事なシミを作っていた。


 『天土狐てんてこ 舞衣まい


 一体全体どういう字を書くのか、そもそも本名なのかと気にはなっていたが、まさかこんな形で知ることになろうとは。近くで悲鳴が上がり、一連の寸劇を目撃した同級生が駆け寄って来て僕の顔を覗き込む。その背景に、まだらとなった桜の花。

 この間僅か三十秒。こうして僕の新歓お花見会は酒と嘔吐物のかほりとともに幕を下ろしたのであった。


 これが事の顛末。ほんの数十分前の出来事だ。あの後なんとか起き上がった僕は怪我らしい怪我もなく、ちょっとした打撲程度であろうと自己診断に至ったのだが、心配した先輩方からすぐに病院へ行くように説得された。僕だって男の子である。格好悪い姿を見せたくはなかったし、これくらいへっちゃらであるとアピールを続けたが、どうも天土狐先輩に急性アルコール中毒の可能性があるとのことで、彼女を搬送する救急車についでだからと無理矢理押し込まれたのだ。


 天土狐先輩は処置室と書かれた部屋へストレッチャーごと運び込まれ、僕は一応自分で歩けるとのことで救急車を降りた足で整形外科へと案内された。ちなみに美女の嘔吐物がかかった一張羅は公園で脱ぎ捨て、今は居合わせた同級生の上着を借りている。大学入学と合わせて買ったばかりのシャツであったが致し方あるまい。流石にゲロの臭いを満員御礼の待合室に充満させるわけにもいかないだろう。


 以上、ここに至るまでの簡単な回想を終えたわけだが。そう、妖怪。妖怪である。  

 診察室の扉の前に立ち、馬鹿馬鹿しいとかぶりを振る。妖怪ならついさっき会ってきたばかりだ。一升瓶とビーフジャーキーを携えた世にも恐ろしい怪物は、狙いを定めた獲物に嘔吐物を吐きかけて攻撃してくるのだ。あれこそまさに妖怪変化の所業であろう。

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