エピソード12:チーズは近くて遠い

 山への道は狭かった。いや、狭すぎた。危険なレベルだ。


 左には雪に覆われた岩壁がそびえ、右には霧の中へ消える崖。そしてその真ん中に、馬車一台がなんとか転覆せずに進めるだけの幅しかない細い道があった。


「ねえ、あとどれくらい?」


 フユネが窓に顔を押し付けながら聞いてきた。


「二時間くらい…かな」


「もしそこに着いてなかったら?」


「それならもっとかかる」


「それ、答えになってないよ」


「僕が言えるのはこれだけなんだ」


 僕は窓の外、崖の方を見ないようにしていた。高いところは昔から苦手だ。そしてこの崖は、まるでパニック発作を起こさせるために作られたかのようだった。


 突然、馬車が止まった。危うく前のめりに倒れそうになる。


 馬たちがかなり怯えた様子でいななく。


「どうしたんだ?」


 僕が呼びかけたが、返事はない。完全な沈黙。


 御者が席を離れて、僕たちの馬車に近づいてきた。


「御者さん?」


「中にいてください…動かないでください」


 それは決していい兆候じゃない。


 ユミズキはもう扉のところにいて、刀の柄を握りしめながら地平線を見つめていた。


「見てくる」


「中にいろって言ったじゃないか」


「あなたたちに中にいろって言ったの」


 そう言って扉を開け、飛び降りた。


「その理屈は…」


 僕はため息をついた。


「行こう、フユネ」


「でも、ここにいたほうがいいんじゃない?」


「僕たち、いつやるべきことをやったことがある?」


「…たしかに」


 外に出た瞬間、僕は人生で最も恐ろしい驚きに見舞われた。


 目の前に、文字通り、イエティが道を塞いでいた。


 霧が晴れると、はっきりと見えた。


 完全にチーズでできている。


 チーズで覆われてるんじゃない。チーズに似てるんじゃない。文字通りチーズ。


「な…何だあれは?」


 なんとか言葉を絞り出した。


「チーズモンスター。この山に千年に一度現れる」


「千年に一度?」


「ああ。最後に記録された目撃は千年前。五十人が死んだ。三つのキャラバンが破壊された」


 ユミズキはイエティを、そして僕を見た。


「どうやら僕たちがそれに遭遇する運命らしい」


 完璧だ。もちろん。


 僕の頭は瞬時に点と点を繋げた。


 千年前、転生勇者なし。今、転生勇者あり。モンスターは千年に一度現れるが、本当は主人公がいるときに現れる。


 強制イベント。都合のいいタイミング。必須のボス戦。


「もちろん今出てくるよな」


 声のトーンが上がっていく。


「千年前じゃない。千年後でもない。今。僕がここにいるから。転生勇者が地図を移動してるから、世界が初めての本物のボスの時間だって決めたんだ」


「ダイキさん?」


 フユネが僕の腕に触れた。


「大丈夫?」


「最高だよ。完璧だ。ただ自分の人生がクソゲーだって受け入れてるだけさ」


 イエティが凄まじい力で吠えた。鼓膜が破れそうだ。


 その音は奇妙だった。まるでチーズが叫んでるみたいな。


 そして動いた。速い。あの大きさにしては速すぎる。


 拳を振り上げ、地面に叩きつけた。すべてが揺れ、岩が崖に落ちていく。


「下がれ!」


 ユミズキが刀を抜きながら叫んだ。


 彼女は猛スピードでイエティに向かって走った。完璧なフットワーク。巨大な脚の下を滑るように通り抜ける動きは、まるでスケートのようだった。跳躍し、首に向かって真っ直ぐ飛び上がる。


 しかし接触した瞬間、刀が跳ね返された。見えない壁にぶつかったかのように、衝撃が彼女に返ってくる。


 完璧だ。物理攻撃を反射する。チーズでできたモンスター。


「何?」


 ユミズキは信じられないという顔で自分の刀を見た。


「どうして?」


 イエティは躊躇なく彼女を殴りつけた。彼女は刀で受け止めるしかない。衝撃の力で雪の上を数メートル引きずられ、ようやく止まった。明らかに疲労してる。そして初めて、彼女が汗をかいているのが見えた。この凍てつく寒さの中で。


「ユミズキ!」


 僕は叫んだ。


 彼女は立ち上がり、頭を振った。


「大丈夫。でも…刀が効かない」


「効かないってどういうことだ?」


「チーズの密度が高すぎる。柔軟すぎる。切らずに衝撃を吸収する」


 もちろん。


 たぶんこのモンスターは普通の武器じゃ倒せない。だから勇者に魔法か戦略を使わせる。


「フユネ…魔法を使ってほしい」


「私の魔法?」


 彼女の目が輝いた。


「本気?」


「本気だ」


「全部?」


「全部だ」


「あの大きな呪文も? あなたが危険で無責任でたぶん全員殺すって言った、絶対に使っちゃいけないやつも?」


「特にそれを」


 彼女の笑顔が瞬時に現れた。人生最高のプレゼントみたいに。たぶん本当にそうだった。


「ついに!」


 杖を掲げた。


「出会ってからずっとこの瞬間を待ってたの!」


「ただ…馬車から離れて」


「ダイキさん」


 歌うように言った。


「これを何回夢見たか知ってる? 何回こっそり練習したか知ってる? 何回いつか彼が使わせてくれる、いつか大きなものを破壊することを信頼してくれるって思ったか知ってる?」


「フユネ…お願い…集中して」


「してるわよ!」


 そして眠れる神を持ち上げるような畏敬の念で杖を掲げた。


「見て! 今まで以上に集中してる!」


 イエティが再び吠えた。もう二十メートルの距離だ。


「フユネ!」


「行くわ!」


 目を閉じると、杖が輝き始めた。周囲の空気が一変する。僕にできることは馬車の後ろに隠れることだけだった。いや、正確にはユミズキの後ろだ。


「状況を利用して私の後ろに立つのね、ダイキさん」


 明らかに冷やかす口調。


「な、なにを! 違う! ただ…君がここで一番安全だから」


 彼女の髪がほとんど誇張されたドラマチックさで揺れ動いた。服が風の圧力で震えてる。


「風の精霊たちよ…嵐の祖先たちよ…青き帳の永遠なる守護者たちよ…我が呼びかけに応えよ!」


「私はあなたたちの道を歩んできた…骨の中にあなたたちの足音を感じてきた…」


 振り向くことなく僕を指差した。もちろん。


「私の仲間が危険で無分別で集団死の原因になるって言ったときでさえ、あなたたちの記憶を尊んできた」


 杖の光がもう眩しい。


「フユネ! 呪文に僕を巻き込むな!」


 彼女は笑った。どうして笑えるんだ?


「今日…」


 彼女の目が二つの月のように輝いた。


「今日ついに自制を止める」


「だから解放して!」


 フユネが叫んだ。


「私に縛られたものを解放して! 私の魂を、私の力を、私の名を解放して!」


 やばい。これは大きくなる。


「そして皆に思い知らせよう!」


「フユネ、やめ」


「なぜ風の魔術師が恐れられていたかを!」


「神聖なる嵐よ…終焉の…!」


 そして空が僕たちの上に落ちてきた。


 最初に聞こえたのは鋭い音。


 次に、唸り声が呻き声に変わる音。


 そして三つ目、まるで神が巨大な家具を空から落としたような轟音。


 イエティが、僕たちの頭を引き千切ると約束していた止められないモンスターが、今は落ちている。いや、崩れ落ちている。二十メートルのジャガイモの袋のように。溶けたチーズのような粘性の物質に変わりながら崖に落ちていく。


「す、すごい…」


 まだ半分しゃがんだまま呟いた。


「フユネ、あれは…」


 でも言葉が口の中で死んだ。


 フユネがそこに立っていたから。呪文が残した円の真ん中に。


 膝が震えた。目が上に転がった。ドラマチックな正確さで。


 そしてスローモーションで――本当にそう感じた――前に倒れた。


「すごかった…ね…」


 ばたん。


 顔から地面に。完全に意識を失ってる。そして巨大な満足した笑顔で。人生で最も重要な夢を叶えたかのように。


「フユネ! フユネ! 大丈夫?」


「…んー…」


 存在しない言語で囁いた。


「それ、大丈夫って意味じゃないよな?」


 僕は聞いた。


 ユミズキが隣でため息をつき、腕を組んだ。


「あなたたち二人は公共の危険だわ」


「おい! 僕はただ魔法を使えって言っただけだ」


「全部の魔法をね」


 彼女が思い出させた。


「まあ、そうだけど。でも僕は思わなかった」


「ダイキさん、あなたは文字通りたぶん全員を殺す危険な呪文って言ったのよ」


「僕は彼女を信じてた!」


 だから僕はため息をついて、しゃがんで、もう伝統のように、フユネを背中に担いだ。


 だらんとしてる。軽い。そして幸せ。地元の生態系を爆破してとても幸せ。


「認めたくないけど」


 杖が首の後ろを叩かないようにしながら言った。


「でも…かっこよかった」


「それは確かね」


 ユミズキが答えた。


「唯一残念なのは、明日目を覚ましたらまたやりたがること」


 クレーターを見た。イエティを見た。いや、イエティがいるべき場所を。崖からはもう何も見えない。


 フユネを見た。少しよだれを垂らしてる。


「…ああ。僕たち終わってる」


 ◇◇◇


 長い旅の後、自分の物語と向き合った後、ついに到着した。偉大なるチーズ工房に。このような成果にふさわしいドラマチックさで。


「やったな」


 僕は呟いた。


「本当にやった」


「まだ帰らないといけないけど」


 ユミズキが思い出させた。


「五秒でいいから達成感に浸らせてくれない? たった五秒」


「だめ」


「なんで?」


「楽観主義は不注意につながる」


「君の人生哲学は暗いな」


「でも効果的」


 フユネが僕の背中で静かにいびきをかいてる。


 そして僕は…ただ疲れていた。


 でも同時に安心もしていた。


 それでもまだハムが残ってるけど…

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