第12話 疫病の火
報せが届いたのは、朝のことだった。
「侯爵様!」
護衛の隊長が、謁見室に駆け込んできた。
「東の村で、疫病が発生しました!」
レオナールは、書類から顔を上げた。
「疫病?」
「はい。昨夜から、十数名が高熱と発疹で倒れています。症状は急速に悪化しており……」
「それは、例の病か?」
「おそらく」
隊長は青ざめた顔で頷いた。
「赤斑病かと」
赤斑病。
致死率九割を超える、恐ろしい疫病だ。
感染力も強く、一度流行すれば村一つが全滅する。
帝国でも、最も恐れられている病だった。
「すぐに隔離しろ」
レオナールは立ち上がった。
「村への出入りを禁止する。誰一人、出すな」
「はい!」
「医者を派遣しろ。それと……」
レオナールは、窓の外を見た。
東の方角に、小さな村がある。
人口は二百人ほど。
貧しいが、真面目な農民たちが住んでいた。
「焼却の準備もしておけ」
「焼却……ですか?」
隊長が聞き返した。
「ああ。もし疫病が拡大すれば、村ごと焼き払う」
「し、しかし……」
「しかし、何だ?」
レオナールの目が、鋭く光った。
「この領地全体を守るためだ。一つの村を犠牲にすることは、やむを得ない」
「……かしこまりました」
隊長は退出していった。
レオナールは、再び窓の外を見た。
青空が広がっている。
美しい朝だった。
「疫病か」
彼は呟いた。
「面倒なことになったな」
*
だが、レオナールの表情には、焦りはなかった。
むしろ、どこか期待に満ちていた。
なぜなら、この疫病こそが、彼の計画の一部だったから。
レオナールは書斎に戻ると、机の引き出しから一冊の帳簿を取り出した。
表紙には「疫病研究記録」と書かれている。
ページを開く。
そこには、詳細な記録が並んでいた。
『赤斑病、感染力極めて高し。致死率九割。治療法なし』
『実験体による観察。感染から死亡までの平均期間、七十二時間』
『特効薬開発、進捗八割。あと一歩で完成』
レオナールは、ページをめくった。
『東の村、感染予定日。本日』
彼は、口元に笑みを浮かべた。
そうだ。
この疫病は、偶然ではない。
レオナールが、意図的に流したものだった。
鉱山の実験で開発した薬物の副作用として、免疫力が極端に低下することが分かっていた。
そして、東の村には、その薬物を密かに混ぜた食料を配給していた。
慈善事業として。
村人たちは、感謝しながらそれを食べた。
そして、免疫力が低下したところに、赤斑病の病原体を持つ鼠を放った。
すべては、計画通りだった。
「さあ、これからが本番だ」
レオナールは帳簿を閉じた。
そして、ジュリアンを呼んだ。
「はい」
ジュリアンが現れた。その顔は相変わらず蒼白で、目は虚ろだった。
「東の村の状況を、逐一報告させろ」
「かしこまりました」
「それと、特効薬の準備を進めろ」
「特効薬……ですか?」
「ああ。村人たちが十分苦しんだ頃に、私が特効薬を持って現れる」
レオナールは、優雅に微笑んだ。
「そうすれば、私は救世主になる」
ジュリアンは、何も言わなかった。
ただ、黙って頷いた。
「それと……」
レオナールは、地図を広げた。
「隣の領地、カーライル男爵領。あそこにも、疫病を広げろ」
「隣領に……ですか?」
「ああ。カーライル男爵は、私の薬物取引に反対している。邪魔だ」
レオナールは、地図上の男爵領に印をつけた。
「疫病で男爵領を混乱させろ。そして、私が特効薬を提供する。そうすれば、男爵は私に頭が上がらなくなる」
「……かしこまりました」
ジュリアンは退出した。
レオナールは、一人残された。
彼は再び窓の外を見た。
そして、呟いた。
「疫病は、最高の商機だ」
*
三日後。
東の村は、地獄と化していた。
感染者は百人を超え、既に五十人が死亡していた。
村中に、死臭が漂っている。
生き残った者たちは、家に閉じこもり、震えていた。
医者は逃げ出した。
護衛も、村の入り口で立ち往生しているだけだった。
誰も、中に入ろうとしなかった。
レオナールは、その村を丘の上から見下ろしていた。
白い馬に乗り、純白の外套をまとっている。
その姿は、まるで天使のようだった。
だが、その目は冷たかった。
「素晴らしい」
彼は呟いた。
「計画通りだ」
ジュリアンが、後ろに控えていた。
「侯爵様、特効薬の準備が整いました」
「そうか」
レオナールは、村を見つめ続けた。
「では、そろそろ行くか」
「今、ですか?」
「ああ。タイミングが重要だ」
レオナールは馬を降りた。
「あまり早く行けば、感謝が薄い。遅すぎれば、全員死んでしまう」
彼は口元に笑みを浮かべた。
「今が、最高のタイミングだ」
レオナールは、村へ向かって歩き出した。
ジュリアンと護衛たちが、後に続く。
村の入り口に着くと、護衛たちが慌てて跪いた。
「こ、侯爵様! 危険です! 疫病が……」
「分かっている」
レオナールは、優しく微笑んだ。
「だが、私は領主だ。民を見捨てるわけにはいかない」
「しかし……」
「心配するな」
レオナールは、懐から小さな布袋を取り出した。
「これは、疫病を防ぐ護符だ。神官から授かったものだ」
もちろん、嘘だった。
だが、護衛たちは信じた。
「さすが、侯爵様……」
「では、行くぞ」
レオナールは、村の中へ入っていった。
村は、静寂に包まれていた。
通りには、死体が転がっている。
家の中からは、呻き声が聞こえる。
悪臭が、鼻を突いた。
だが、レオナールは表情を変えなかった。
彼は、一軒の家の前で立ち止まった。
扉を開ける。
中には、一家が倒れていた。
父親は既に死んでいた。
母親は、高熱で意識が朦朧としている。
子供が二人、母親にしがみついて泣いていた。
「助けて……」
母親が、か細い声で言った。
「子供たちだけでも……助けて……」
レオナールは、優しく微笑んだ。
「大丈夫です。私が来ました」
彼は、懐から小さな瓶を取り出した。
「これは、特効薬です。これを飲めば、治ります」
母親の目が、希望に輝いた。
「本当に……?」
「ええ。信じてください」
レオナールは、瓶の中身をスプーンに垂らした。
そして、母親の口に含ませた。
母親は、それを飲み込んだ。
しばらくして、彼女の呼吸が楽になった。
熱も、少しずつ下がっていく。
「……ああ、楽に……」
母親は、涙を流した。
「ありがとうございます……侯爵様……」
「どういたしまして」
レオナールは、子供たちにも薬を飲ませた。
そして、立ち上がった。
「他の家も回りましょう」
レオナールは、村中を回った。
生存者全員に、薬を与えた。
人々は、感謝の言葉を口にした。
涙を流し、レオナールの手に口づけした。
レオナールは、すべてに優しく応えた。
慈悲深く、献身的に。
だが、その心の中では、別のことを考えていた。
「この薬、一瓶で百金貨の価値がある」
「今日配ったのは、五十瓶。つまり五千金貨だ」
「だが、これで村人たちは私に一生頭が上がらない」
「そして、この話は帝国中に広まる。『白百合侯は、自らの命を危険にさらして民を救った』と」
「名声と忠誠。それらは、金では買えない」
レオナールは、心の中で計算していた。
すべてが、投資だった。
すべてが、利益のためだった。
*
その夜。
レオナールは城に戻った。
体を洗い、新しい服に着替えた。
疫病の臭いを、すべて洗い流した。
そして、書斎で酒を飲んでいた。
ジュリアンが、報告に来た。
「侯爵様、東の村の生存者、八十三名全員が回復に向かっています」
「そうか」
レオナールは、満足そうに頷いた。
「カーライル男爵領は?」
「疫病が広がり始めています。既に五つの村で感染者が出ました」
「いい」
レオナールは、グラスを傾けた。
「男爵から、救援要請が来たら、すぐに特効薬を送れ。ただし……」
「ただし?」
「高値で売れ」
レオナールは笑った。
「一瓶、三百金貨だ」
「三百……それは……」
「高すぎるか?」
「いえ……」
「疫病で苦しんでいる者にとって、金など関係ない。命の方が大切だ」
レオナールは、グラスを置いた。
「だから、払う。いくらでも」
彼は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
月が、夜空に浮かんでいる。
その光が、東の村を照らしている。
「あの村の者たちは、私を救世主と呼ぶだろう」
レオナールは呟いた。
「だが、彼らは知らない。疫病を流したのが、私だということを」
彼は、月を見上げた。
「燃える街ほど、美しいものはない」
その言葉は、静かだった。
だが、その奥には、狂気が潜んでいた。
ジュリアンは、何も言えなかった。
ただ、黙って立っていた。
�*
だが、事態は予想外の方向に動いた。
翌日、カーライル男爵領から使者が来た。
だが、救援要請ではなかった。
「レオナール侯爵。貴殿の領地から、疫病が流れてきた」
使者は、怒りに満ちた声で言った。
「我が領地は、貴殿の責任において発生した疫病で大混乱だ。賠償を求める」
レオナールは、驚いたふりをした。
「賠償? それは誤解です」
「誤解ではない!」
使者は、書類を叩きつけた。
「証拠がある。疫病の発生源は、貴殿の領地の東の村だ」
「それは……」
「そして、貴殿が特効薬を持っているという噂も聞いている」
使者は、レオナールを睨みつけた。
「もしや、貴殿が疫病を意図的に流したのではないか?」
謁見室が、静まり返った。
レオナールは、一瞬だけ表情を硬くした。
だが、すぐに悲しそうな顔に変えた。
「それは……酷い言いがかりです」
彼の目に、涙が浮かんだ。
「私は、民を守るために必死に戦っています。それなのに、そんな疑いをかけられるとは……」
「……」
「ですが、分かりました」
レオナールは深く息を吐いた。
「カーライル男爵領にも、特効薬を無償で提供しましょう。それが、私の誠意です」
使者は、予想外の言葉に戸惑った。
「無償で……?」
「ええ。疫病は、誰の責任でもありません。天災です。だからこそ、領主同士で助け合うべきです」
レオナールは、優しく微笑んだ。
「どうか、男爵にお伝えください。私は、いつでも協力する用意があると」
使者は、何も言えなくなった。
やがて、彼は頭を下げた。
「……ありがとうございます。男爵にお伝えします」
使者は退出していった。
レオナールは、その背中を見送った。
そして、一人になると。
顔が歪んだ。
「くそったれが」
彼は、椅子を蹴り飛ばした。
「証拠を掴んだだと? ふざけるな」
レオナールは、壁を殴った。
拳が、赤く腫れた。
「無償で薬を渡す? くそ! 何千金貨の損失だ!」
彼は荒く息をした。
そして、ジュリアンを呼んだ。
「はい」
「カーライル男爵領、焼き払え」
「……は?」
「焼き払えと言っている」
レオナールの目が、血走っていた。
「疫病で弱った村を、すべて焼き払え。証拠を消す」
「しかし、それは……」
「反論するな」
レオナールは、ジュリアンの胸倉を掴んだ。
「お前は、私の命令に従えばいい」
「……かしこまりました」
ジュリアンは、震える声で答えた。
レオナールは、彼を突き放した。
「今夜中にやれ。誰にも悟られるな」
「はい」
ジュリアンは退出した。
レオナールは、窓の外を見た。
西の方角。
そこに、カーライル男爵領がある。
「燃えろ」
彼は呟いた。
「すべて、燃え尽きろ」
*
その夜。
カーライル男爵領の村に、黒い影が忍び込んだ。
ジュリアンと、数名の部下たちだった。
彼らは、村の四隅に火を放った。
乾燥した藁葺き屋根が、すぐに燃え上がった。
炎が、あっという間に広がっていく。
村人たちが、悲鳴を上げて飛び出してきた。
だが、疫病で弱っている者が多く、逃げ遅れる者もいた。
炎が、家を飲み込む。
人々を飲み込む。
悲鳴が、夜空に響いた。
ジュリアンは、それを見ていた。
炎に照らされた顔は、蒼白だった。
手が、震えていた。
「……これでいいのか」
彼は呟いた。
だが、答えはなかった。
ただ、炎が燃え続けるだけだった。
やがて、村は灰燼に帰した。
生存者は、ほとんどいなかった。
ジュリアンは、その光景を見つめていた。
炎の残り火が、まだくすぶっている。
煙が、夜空に立ち上っている。
そして、風に乗って、焼けた肉の臭いが漂ってきた。
ジュリアンは、吐いた。
何度も、何度も。
だが、吐くものはもう残っていなかった。
*
翌朝。
レオナールは、丘の上に立っていた。
そこからは、焼け落ちた村が見えた。
黒い煙が、まだ立ち上っている。
廃墟だった。
何もかもが、灰になっていた。
レオナールは、その光景を見つめた。
そして、微笑んだ。
「美しい」
彼は呟いた。
朝日が、廃墟を照らしている。
その光が、灰を金色に染めていた。
レオナールは、深く息を吸った。
煙の臭い。
灰の臭い。
死の臭い。
すべてが、混ざり合っている。
「燃える街ほど、美しいものはない」
彼は再び呟いた。
その顔は、恍惚としていた。
目は見開かれ、唇は歪んでいた。
美しい顔が、狂気に染まっていた。
ジュリアンは、その横に立っていた。
だが、レオナールを見ることができなかった。
ただ、廃墟を見つめているだけだった。
そして、心の中で祈った。
神よ、許してください、と。
だが、神は答えなかった。
ただ、煙だけが、天に昇っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます