第11話 執事の沈黙
ジュリアン・ヴェルトは、鏡の前に立っていた。
そこに映る自分の顔を、彼はもう認識できなかった。
頬はこけ、目の下には深い隈ができている。肌は蒼白で、唇は血の気を失っていた。
三十二歳。だが、鏡の中の男は、四十を超えて見えた。
ジュリアンは、震える手で顔に触れた。
冷たい。まるで死人のようだ。
「……いつから、こうなった」
彼は呟いた。
答えは、分かっていた。
レオナール・リリウスに仕え始めてから。
幼馴染だった彼が、侯爵位を継いでから。
あの日から、すべてが変わった。
ジュリアンは、机の引き出しを開けた。
そこには、小さなガラス瓶がある。
薬だ。
透明な液体が、わずかに揺れている。
ジュリアンは、それを見つめた。
手が震えている。
いや、体全体が震えていた。
冷や汗が、額から流れ落ちる。
もう、六時間以上使っていない。
それだけで、体は悲鳴を上げていた。
「……くそ」
ジュリアンは瓶を掴んだ。
蓋を開ける。
甘い香りが、鼻腔をくすぐった。
その匂いだけで、体が反応する。
心臓が早鐘を打つ。
唾液が溢れる。
手が、勝手に動く。
瓶を傾け、一滴を舌に垂らした。
瞬間。
世界が変わった。
震えが止まる。
冷や汗が引く。
呼吸が、楽になる。
「……ああ」
ジュリアンは、椅子に座り込んだ。
天井を見上げる。
薬が、体中に広がっていくのが分かる。
温かい。
柔らかい。
すべてが、遠くなる。
罪悪感も。
後悔も。
恐怖も。
すべてが、どうでもよくなる。
「……これが、なければ」
ジュリアンは呟いた。
だが、言葉は続かなかった。
なぜなら、もう「これがなければ」という仮定が、無意味だったから。
彼は、もう戻れない。
薬なしでは、生きられない。
それが、現実だった。
*
その日の午後、ジュリアンは城の廊下を歩いていた。
レオナールから、いくつかの指示を受けていた。
鉱山への薬の追加納品。
北の密売ルートの調整。
そして、マルセル神官の「事故死」の手配。
すべて、いつもの仕事だった。
だが、今日のジュリアンは違った。
足取りが重い。
頭が回らない。
薬の効果が、切れ始めていた。
「ジュリアン執事」
廊下で、侍女の一人が声をかけてきた。
「厨房から、今夜の献立の確認を求められています」
「……ああ、後で」
「でも、至急だと……」
「後でと言った」
ジュリアンの声が、鋭くなった。
侍女は驚いて、後ずさった。
「も、申し訳ございません……」
彼女は慌てて去っていった。
ジュリアンは、自分の手を見た。
また震えている。
もう、我慢できない。
彼は自室へ急いだ。
扉を開け、中に入る。
鍵をかける。
机の引き出しを開ける。
だが。
瓶がない。
「……え?」
ジュリアンは、引き出しの中を探った。
だが、どこにもない。
慌てて、他の引き出しも開ける。
ない。
どこにもない。
「どこだ……どこに……」
ジュリアンは部屋中を探し始めた。
机の下。
ベッドの下。
棚の中。
すべてを引っくり返した。
だが、瓶はなかった。
「くそ……くそ……!」
ジュリアンは床に座り込んだ。
手が、激しく震えている。
冷や汗が、滝のように流れる。
吐き気が、込み上げてくる。
視界が、霞む。
「どこだ……どこに……」
その時、扉がノックされた。
「ジュリアン、いるか?」
レオナールの声だった。
ジュリアンは、慌てて立ち上がった。
「は、はい……」
「開けてくれ」
ジュリアンは、震える手で鍵を開けた。
扉が開き、レオナールが入ってきた。
その手には、小さなガラス瓶が握られていた。
「これを、探しているのか?」
ジュリアンは、その瓶を見て息を呑んだ。
「それは……」
「お前の部屋から、回収させてもらった」
レオナールは、瓶を指で弄んだ。
「最近、使いすぎだろう?」
「そんな……」
「嘘をつくな」
レオナールの目が、冷たくなった。
「お前の顔を見れば分かる。もう、中毒だ」
「……」
「ジュリアン」
レオナールは、瓶を高く掲げた。
「お前は、これが欲しいか?」
ジュリアンは、その瓶を見つめた。
喉が渇く。
体が熱い。
心臓が、破裂しそうだ。
「欲しい……」
ジュリアンは、搾り出すように言った。
「お願いします……それを……」
「ほう」
レオナールは笑った。
「執事が、主人に懇願するか」
「お願いします……侯爵様……」
ジュリアンは、膝をついた。
「それがなければ……もう……」
「もう、何だ?」
「生きられない……」
ジュリアンは、床に額をつけた。
「お願いします……どうか……」
レオナールは、その姿を見下ろした。
そして、満足そうに微笑んだ。
「いいだろう」
彼は、瓶をジュリアンの前に転がした。
ジュリアンは、それを掴んだ。
まるで、溺れる者が浮き輪を掴むように。
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
ジュリアンは、すぐに蓋を開けた。
そして、一滴を舌に垂らした。
いや、一滴では足りなかった。
二滴、三滴、四滴。
気づけば、瓶の半分を飲み干していた。
薬が、全身に広がる。
震えが止まる。
視界が、クリアになる。
呼吸が、楽になる。
「……ああ……」
ジュリアンは、床に倒れ込んだ。
天井が、ゆっくりと回っている。
すべてが、遠くなる。
レオナールの声も。
自分の罪も。
すべてが。
「見ろ、ジュリアン」
レオナールの声が、遠くから聞こえた。
「お前は、もう人間ではない。ただの薬の奴隷だ」
「……」
「だが、安心しろ」
レオナールは、ジュリアンの横に座った。
「お前が従順である限り、私は薬を与え続ける」
彼は、ジュリアンの頭を撫でた。
まるで、犬を撫でるように。
「これは、美しい忠誠だ」
ジュリアンは、何も言えなかった。
ただ、薬に溺れているだけだった。
レオナールは立ち上がった。
「今夜、北の商人を始末しろ。例の件だ」
「……はい」
「それと、マルセル神官の遺体を鉱山に埋めろ。誰にも見つからないようにな」
「……はい」
「よろしい」
レオナールは、部屋を出ていった。
ジュリアンは、床に横たわったまま、天井を見つめていた。
薬の効果で、思考が霞んでいる。
だが、心の奥底では、小さな声が聞こえていた。
これでいいのか、と。
お前は、どこまで堕ちるのか、と。
だが、その声は、すぐに薬に飲み込まれた。
そして、ジュリアンは目を閉じた。
*
その夜。
ジュリアンは、北の商人の屋敷に向かっていた。
黒い外套を羽織り、顔を隠している。
腰には、短剣がある。
いつもの仕事だった。
だが、今夜は違った。
薬の効果が、まだ残っていた。
体は軽く、恐怖も感じない。
ただ、機械的に動いているだけだった。
商人の屋敷は、静かだった。
ジュリアンは、裏口から侵入した。
使用人たちは、既に眠っている。
警備も、金で買収してある。
誰も、彼を止める者はいなかった。
ジュリアンは、商人の寝室に忍び込んだ。
ベッドで、太った男が眠っている。
いびきをかいている。
平和そうな顔だ。
ジュリアンは、短剣を抜いた。
刃が、月光を反射して光る。
彼は、ベッドに近づいた。
そして、短剣を振り上げた。
だが、その瞬間。
薬の効果が、切れた。
突然、現実が戻ってきた。
ジュリアンの手が、止まった。
目の前に、眠る男がいる。
無防備な、何も知らない男が。
この男には、家族がいる。
妻と、二人の娘。
ジュリアンは、彼女たちのことを知っていた。
なぜなら、その娘たちを人身売買ルートに流すよう、レオナールから命じられていたから。
「……くそ」
ジュリアンの手が、震え始めた。
冷や汗が、額から流れる。
吐き気が、込み上げる。
できない。
殺せない。
だが、殺さなければ。
レオナールが、許さない。
薬を、もらえなくなる。
それは、死を意味する。
ジュリアンは、歯を食いしばった。
そして、短剣を振り下ろした。
刃が、男の喉を切り裂いた。
血が、噴き出す。
男は目を開けた。
驚愕の表情で、ジュリアンを見た。
だが、声は出なかった。
喉が切れているから。
男は、もがいた。
ベッドのシーツを掴み、必死に生きようとした。
だが、血は止まらなかった。
やがて、動きが止まった。
男は、死んだ。
ジュリアンは、短剣を握りしめたまま、立ち尽くしていた。
手が、血で赤く染まっている。
その血が、腕を伝って落ちていく。
「……ああ」
ジュリアンは、床に膝をついた。
吐き気が、抑えられなくなった。
彼は、床に吐いた。
何度も、何度も。
胃の中のものが、すべて出るまで。
やがて、吐くものがなくなった。
ジュリアンは、震えながら立ち上がった。
そして、部屋を出た。
廊下で、誰かとすれ違った。
使用人の少女だった。
彼女は、血まみれのジュリアンを見て、悲鳴を上げようとした。
だが、ジュリアンは反射的に動いた。
短剣が、少女の腹に沈んだ。
少女は、目を見開いた。
血が、口から溢れた。
ジュリアンは、短剣を引き抜いた。
少女は、床に崩れ落ちた。
まだ、息がある。
彼女は、ジュリアンを見上げた。
その目には、問いかけがあった。
なぜ、と。
ジュリアンは、答えられなかった。
ただ、再び短剣を振り下ろした。
そして、少女の息の根を止めた。
静寂が、戻った。
ジュリアンは、血まみれの手を見た。
商人の血。
少女の血。
すべてが、混ざり合っている。
「……私は」
ジュリアンは呟いた。
「いつから、こんな……」
だが、答えは出なかった。
彼は、屋敷を後にした。
夜の闇に、消えていった。
*
城に戻ると、ジュリアンは自室に直行した。
服を脱ぎ捨て、血を洗い流した。
冷たい水が、体に染みる。
だが、罪は洗い流せなかった。
ジュリアンは、机の引き出しを開けた。
瓶がある。
レオナールが、返してくれた瓶が。
だが、もう半分しか残っていない。
ジュリアンは、それを手に取った。
そして、蓋を開けた。
一滴、舌に垂らす。
効かない。
二滴。
まだ効かない。
三滴、四滴、五滴。
気づけば、瓶は空になっていた。
ジュリアンは、空の瓶を握りしめた。
薬が、体中に広がる。
今度は、効きすぎた。
視界が、歪む。
呼吸が、浅くなる。
心臓が、不規則に打つ。
「……ああ」
ジュリアンは、床に倒れた。
意識が、遠のいていく。
このまま、死んでしまうかもしれない。
だが、それもいいかもしれない、と思った。
もう、疲れた。
もう、何もかもが嫌だ。
だが、死は訪れなかった。
薬は、彼を殺すほど強くはなかった。
ただ、意識を奪うだけだった。
ジュリアンは、闇の中に沈んでいった。
そこには、何もなかった。
ただ、静寂だけが。
*
翌朝。
ジュリアンは、レオナールに報告した。
「商人は、始末しました」
「そうか」
レオナールは、満足そうに頷いた。
「娘たちは?」
「人身売買ルートに、手配しました」
「よろしい」
レオナールは、書類に目を通しながら言った。
「お前は、本当に有能だな、ジュリアン」
「……ありがとうございます」
「これからも、頼むぞ」
「はい」
ジュリアンは、一礼した。
そして、部屋を出ようとした。
「ああ、待て」
レオナールが声をかけた。
「何でしょうか」
「お前、薬を使いすぎているな」
「……」
「顔色が悪い。目も虚ろだ」
レオナールは、引き出しから新しい瓶を取り出した。
「ほら、これをやる」
ジュリアンは、その瓶を見た。
手が、伸びる。
だが、途中で止まった。
「どうした?」
「……いえ」
ジュリアンは、瓶を受け取った。
「ありがとうございます」
「いいか、ジュリアン」
レオナールは、ジュリアンの肩を叩いた。
「お前は、私の最高の道具だ。壊れるな」
「……はい」
ジュリアンは、部屋を出た。
廊下を歩きながら、彼は瓶を握りしめた。
温かい。
手の中で、薬が揺れている。
これがあれば、生きられる。
これがあれば、すべてを忘れられる。
だが、同時に。
これがある限り、彼はレオナールの奴隷だった。
ジュリアンは、足を止めた。
窓の外を見た。
青空が、広がっている。
美しい空だった。
だが、ジュリアンには、それが遠く見えた。
まるで、別世界のように。
彼は、再び歩き出した。
瓶を、懐にしまった。
そして、呟いた。
「……私は、もう戻れない」
その声は、誰にも聞こえなかった。
ただ、廊下に響いて、消えていった。
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