第10話 白百合の処刑場
朝陽が昇る頃、リオは鉱山に戻っていた。
手には、あの紙を握りしめている。証拠を、誰かに見せなければならない。
だが、誰に?
鉱山の子供たちは、皆疲弊していた。希望を失い、ただ生きることに必死だった。
監督官は、侯爵の犬だ。
では……。
リオは、フィンのことを思い出した。
彼なら、信じてくれるかもしれない。
リオは坑道の奥へ急いだ。
だが、その時。
「リオ・サーラン」
背後から、冷たい声が聞こえた。
振り返ると、監督官が立っていた。その後ろには、護衛が三人。
「お前、昨夜どこにいた?」
「……坑道で、寝てました」
「嘘をつくな」
監督官は、鞭を鳴らした。
「お前が夜中に抜け出しているのは知っている。今夜も、いなかった」
「それは……」
「何を隠している?」
監督官が近づいてくる。
リオは後ずさった。
「何も……」
「左手を見せろ」
「え……?」
「見せろと言っている」
監督官が手を伸ばした。
リオは反射的に手を引っ込めた。
だが、それが裏目に出た。
「やはり、何か持っているな」
監督官は護衛に合図した。
護衛たちが、リオを押さえつけた。
「離せ!」
リオは暴れた。
だが、大人の力には敵わなかった。
監督官が、リオの手を無理やり開いた。
そして、紙を取り上げた。
「これは……」
監督官の顔色が変わった。
紙には、鉱山実験体のリストが書かれている。そして、侯爵の署名が。
「どこで、これを手に入れた?」
「拾った」
「拾った? どこで?」
「森で」
「森?」
監督官は、リオの顔を睨んだ。
「お前、昨夜の神官のことを知っているな」
「知らない」
「嘘をつくな!」
監督官の鞭が、リオの頬を打った。
皮膚が裂け、血が滲む。
「お前は、何を見た? 何を聞いた?」
「何も……」
「この紙は、侯爵様の重要な文書だ。これを持っているということは、お前は盗みを働いたか、あるいは……」
監督官は、何かに気づいたように目を見開いた。
「お前、神官と接触したな」
「してない!」
「嘘をつくな!」
再び、鞭が振り下ろされた。
リオの背中に、鋭い痛みが走る。
「白状しろ! さもなくば、死ぬまで打つぞ!」
だが、リオは答えなかった。
ただ、歯を食いしばって耐えた。
監督官は、やがて鞭を下ろした。
「……いい。どうせすぐに分かる」
彼は護衛に命じた。
「こいつを、城へ連れて行け。侯爵様に直接報告する」
「はい」
護衛たちが、リオを引きずっていった。
リオは抵抗した。叫んだ。
だが、誰も助けに来なかった。
子供たちは、ただ黙って見ているだけだった。
恐怖に支配され、動けなかった。
リオは、坑道から引きずり出された。
朝の光が、目を刺した。
*
城の謁見室。
レオナールは、玉座に座っていた。
その顔には、いつもの穏やかな笑みが浮かんでいた。
だが、目は笑っていなかった。
「これが、その少年か」
彼は、引きずられてきたリオを見下ろした。
「はい。リオ・サーランです」
監督官が答えた。
「こいつが、この紙を持っておりました」
監督官は、あの紙を差し出した。
レオナールは、それを受け取った。
ページを一瞥し、そして静かに笑った。
「なるほど。マルセルの帳簿の一部か」
彼は、リオを見た。
「リオ・サーラン。お前は、昨夜何を見た?」
リオは答えなかった。
ただ、侯爵を睨みつけた。
「答えろ」
レオナールの声が、冷たくなった。
「お前は、神官と接触したのか?」
「……してない」
「嘘をつくな」
レオナールは立ち上がった。
そして、ゆっくりとリオに近づいた。
「お前の目を見れば分かる。お前は、何かを知っている」
レオナールは、リオの前に膝をついた。
そして、その頬に手を当てた。
優しく、まるで慈悲深い父親のように。
「リオ。お前は、まだ子供だ。間違いを犯しても、赦される」
「……」
「だから、正直に話してくれ。昨夜、何があった?」
リオは、その優しい声に惑わされそうになった。
だが、彼は思い出した。
トビアスの死を。
フィンの絶望を。
そして、この男が書いた帳簿の内容を。
「お前が……」
リオは呟いた。
「お前が、みんなを殺した」
レオナールの手が、止まった。
「何?」
「トビアスも、他のみんなも……お前が薬を打たせて、殺した」
リオの目から、涙が溢れた。
「お前は……悪魔だ」
一瞬、沈黙が落ちた。
そして、レオナールは笑った。
静かに、だが確かに。
「そうか」
彼は立ち上がった。
「お前は、知りすぎたな」
レオナールは、踵を返した。
「この少年を、広場に連れて行け」
「広場……ですか?」
監督官が聞き返した。
「ああ。民衆の前で、公開処刑する」
「公開……」
「いや、待て。処刑ではもったいない」
レオナールは、何かを思いついたように微笑んだ。
「見せしめにしよう。この少年が、どれほど愚かだったかを、皆に見せてやる」
彼は、ジュリアンを呼んだ。
「はい」
「広場に、民衆を集めろ。『重大な発表がある』とな」
「かしこまりました」
「それと……」
レオナールは、リオを見た。
「この少年を、綺麗にしろ。服も新しいものを着せろ」
「え……?」
「聞こえなかったか?」
「いえ……すぐに」
監督官は、困惑しながらも命令に従った。
リオは連れて行かれた。
その背中を見送りながら、レオナールは呟いた。
「さて、どんな劇にしようか」
*
正午。
広場には、数百人の民衆が集まっていた。
皆、侯爵の「重大な発表」を待っていた。
ざわめきが、広場を満たしていた。
「何の発表だろう?」
「また、慈善事業かな?」
「侯爵様は、本当に民思いだからな」
期待に満ちた声が、あちこちから聞こえた。
やがて、大聖堂の扉が開いた。
レオナールが現れた。
純白の外套をまとい、胸には百合の紋章が輝いている。
群衆は、歓声を上げた。
「侯爵様!」
「白百合侯!」
レオナールは、優雅に手を振った。
そして、演壇に立った。
「皆さん、お集まりいただきありがとうございます」
その声は、広場の隅々まで届いた。
「今日は、皆さんに大切なことをお伝えしなければなりません」
群衆が静まり返った。
「この領地を脅かす、恐ろしい陰謀が発覚しました」
ざわめきが広がる。
「陰謀?」
「誰が?」
レオナールは、悲しそうに目を伏せた。
「それは……私を信じていた者による、裏切りでした」
群衆が息を呑んだ。
「マルセル・クレメンス神父。皆さんもよく知る、施療所の神官です」
驚きの声が上がった。
「マルセル神父が?」
「まさか!」
「彼は、密かに私の書類を盗み出し、外部に売り渡そうとしました」
レオナールの声が、悲痛に響いた。
「私は、信じられませんでした。なぜ、彼が……」
群衆は、同情の声を上げた。
「それは酷い!」
「恩を仇で返すとは!」
「ですが、彼は捕らえられました」
レオナールは顔を上げた。
「そして、彼には共犯者がいました」
護衛たちが、リオを連れてきた。
リオは、新しい服を着せられていた。綺麗な服だが、手足は縛られている。
顔は洗われ、傷も手当てされていた。
まるで、人形のようだった。
「この少年です」
レオナールは、リオを指差した。
「リオ・サーラン。鉱山で働く孤児です」
群衆は、リオを見た。
その目には、好奇と軽蔑が混ざっていた。
「この少年は、マルセル神父と共謀し、私の領地を混乱させようとしました」
「そんな……子供が?」
「信じられない」
「ですが、証拠があります」
レオナールは、あの紙を掲げた。
「これは、私の機密文書の一部です。この少年が、所持していました」
群衆がざわめいた。
「では、本当に……」
「共犯者なのか……」
レオナールは、リオに近づいた。
そして、その肩に手を置いた。
「リオ」
その声は、優しかった。
「なぜ、こんなことをした?」
リオは答えなかった。
ただ、レオナールを睨みつけた。
「答えなさい」
レオナールの声が、少し強くなった。
「私は、お前を助けてきた。食事を与え、寝床を与え、仕事を与えた」
「それは……嘘だ」
リオは、ようやく口を開いた。
「お前は、俺たちを実験台にした」
群衆がざわめいた。
「実験台?」
「何を言っているんだ?」
「トビアスを殺した! 他のみんなも殺した! 薬を打って、苦しませて、殺した!」
リオの声は、絶叫に変わった。
「お前は、悪魔だ! 人殺しだ!」
群衆は、唖然とした。
そして、すぐに怒りの声が上がった。
「何を言っているんだ、この餓鬼は!」
「侯爵様を侮辱するとは!」
「恩知らずめ!」
レオナールは、悲しそうに首を振った。
「皆さん、落ち着いてください」
彼は、リオの頬を優しく撫でた。
「この子は……病んでいるのです」
「病んでいる?」
「はい。長い間、過酷な労働を強いられ、心が壊れてしまったのです」
レオナールの目に、涙が浮かんだ。
「私の監督が、行き届きませんでした。この子を、こんな状態にしてしまった……」
群衆は、感動した。
「ああ、侯爵様……」
「なんと慈悲深い……」
リオは、愕然とした。
また、同じだ。
セリーヌと、同じだ。
真実を叫んでも、誰も信じない。
侯爵の美しい嘘に、皆が騙されている。
「違う……違う……」
リオは、必死に叫んだ。
「この男は、悪魔だ! 信じるな!」
だが、群衆は彼を嘲笑した。
「可哀想に、本当に狂っている」
「侯爵様が、助けてくださる」
レオナールは、リオを抱きしめた。
まるで、愛する息子を抱くように。
群衆は、涙を流した。
だが、リオには聞こえた。
レオナールが、小さく囁く声が。
「これが、秩序の顔だ」
リオの体が、震えた。
怒りで。
屈辱で。
絶望で。
レオナールは、リオを離した。
そして、群衆に向かって言った。
「この子を、療養施設に送ります。そこで、心の傷を癒やしてあげたい」
群衆は、拍手した。
「侯爵様、万歳!」
「白百合侯、万歳!」
歓声が、広場を包んだ。
レオナールは、満足そうに微笑んだ。
そして、護衛に合図を送った。
リオは、引きずられていった。
群衆は、彼を憐れみの目で見送った。
誰も、彼の言葉を信じなかった。
誰も、真実に気づかなかった。
リオは、連れ去られながら、歯を食いしばった。
いつか。
いつか、必ず。
この男を、倒す。
その誓いだけが、彼の心に残った。
*
その夜。
レオナールは、書斎で酒を飲んでいた。
上質なブランデーが、グラスの中で琥珀色に輝いている。
「見事だった」
彼は、自分に言い聞かせるように呟いた。
「あの少年、いい表情をしていた」
レオナールは、グラスを傾けた。
酒が、喉を焼く。
「絶望と怒り。それを抱えながら、何もできない無力さ」
彼は笑った。
「人間の感情は、本当に面白い」
ジュリアンが、部屋に入ってきた。
「侯爵様、リオ・サーランをどうなさいますか?」
「ああ、あの少年か」
レオナールは、窓の外を見た。
「鉱山に戻せ。ただし……」
彼は振り返った。
「最も過酷な場所でな。そして、他の子供たちに見せしめにしろ。『侯爵に逆らえば、こうなる』と」
「かしこまりました」
「それと、薬の投与を開始しろ」
「はい」
「あの少年が、どう壊れていくか。観察する価値がある」
レオナールは、再び酒を飲んだ。
「希望を持つ者が、絶望に堕ちる瞬間。それは、最高の見世物だ」
ジュリアンは、何も言わなかった。
ただ、黙って一礼すると、部屋を出ていった。
レオナールは、一人残された。
彼は、グラスを掲げた。
「リオ・サーラン。お前の苦しみに、乾杯」
彼は、酒を飲み干した。
そして、グラスを暖炉に投げ込んだ。
グラスは砕け散り、炎の中で溶けていった。
レオナールは、その炎を見つめながら笑った。
声を殺して。
肩を震わせながら。
その笑い声は、誰にも聞こえなかった。
ただ、闇だけが、それを知っていた。
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