記憶を編む光

AURA

第1話 最初の光

 西暦3000年。

 空は淡い金色の膜に包まれ、街は静かすぎるほど整っていた。

 思考共鳴は完全に成熟し、人々は共鳴ネットという端末を介して即座に感情や情報を共有できる。

 怒りはフィルタリングされ、悲しみは自動的に和らげられ、孤独という概念は旧時代の症状として教科書の中にだけ存在していた。


 カイは、その教科書の端を指でなぞりながら、ページを閉じた。

 孤独がないはずの世界で、彼はずっと説明できない空洞を抱えていた。

 共鳴ネットにつなげば笑い声は届く。称賛も共感も簡単に手に入る。

 なのに、それらが胸のどこにも触れない。

 本物の声で呼ばれた記憶が、ひとつもないからだ。


 両親は研究都市に常駐し、家にいる時間はほとんどない。

 カイの感情状態は定期的にモニタされ、安定と判定される。

 画面のグラフはなめらかで美しく、何も問題がない。

 それだけが、ひどく腹立たしかった。


 その日、カイは都市外縁の温室ドームに足を向けた。

 そこはかつて地球にあった本物の森を再現するために作られた空間だが、いまは教育用プログラムの一部で、ほとんど訪れる者はいない。

 ドーム内は、金色の世界とは違う、やわらかな緑と湿った土の匂いに満ちていた。

 空調の微かな音だけが響く中、カイはふと、規定ルートから外れて林の奥へ進む。

 そこだけ、空気が少し甘かった。

 かすかな光が落ち葉のあいだから漏れている。

 装飾用のライトにしては、揺れ方がおかしい。

 生き物みたいに、息をしている。


 カイがしゃがみこむと、その光は彼のほうへ近づいてきた。

 手のひらほどの透明な生き物。

 丸みを帯びた身体はガラスのように透き通り、内部に淡い橙色の光が脈打っている。

 耳とも角ともつかない小さな突起があり、大きな瞳は夜明け前の水面みたいに静かだった。


「……なに、これ」


 共鳴ネットは自動で解析を始めようとしたが、次の瞬間、接続がふっと切れた。

 頭の中のざわめきが止み、世界から音が消える。

 残ったのは、自分の鼓動だけ。


 透明な生き物は、カイの指先にそっと鼻先を触れさせた。

 ひやりとした感触を想像していたのに、感じたのは逆だった。

 柔らかく、あたたかく、胸の奥にじんわりと広がる熱。


 次の瞬間、カイの視界に光景が流れ込んだ。


 知らない部屋。

 小さな子どもが泣いている。

 それを抱きしめ、「大丈夫、大丈夫」と繰り返す女性の声。

 頬に触れる掌の温度。

 嗚咽まじりの笑い。

 涙と一緒にこぼれる「ありがとう」という言葉。


 それは、あまりにも“生身”の記憶だった。

 滑らかなグラフには決して変換されない、不恰好な感情の塊。


 映像が消えると、カイの目頭が熱くなっていた。


 泣いたことなんて、いつ以来だろう。


 透明な生き物は、彼の涙をじっと見つめている。

 まるで、それでいいと肯定しているような顔で。


「きみ…今の、誰の…」


 問いかけかけた時、頭の奥に微かな文字情報が浮かんだ。


――Lissphia(リスフィア)。

 

 記憶を光として還元する、共感媒介生命体。

 接触した人間の真実の感情記憶を一片だけ受け取り、それを光として環境に解き放つ存在。


 聞いた覚えはないが、言葉はなぜか懐かしく胸に落ちた。


 リスフィアは、トン、とカイの胸元に軽く飛び乗る。

 淡い光が、彼の心臓の鼓動と同じリズムで点滅し始めた。

 

 その瞬間、カイははっきりと理解する。


孤独がない世界ではなく、孤独を感じる権利を失った世界に、自分は生きていたのだと。


 胸の奥に空いた穴は、消えるわけではない。

 けれど、そこにそっと手を伸ばしてくれる存在が、今この手の中にいる。


 カイはリスフィアを両手で包み込んだ。


「……行くなよ」


 かすれた声がこぼれる。

 リスフィアの光が、少しだけ強くなった。


 その夜、温室ドームの天井近くで、誰にも気づかれぬまま、小さな光がゆっくり広がった。

 それは、知らない誰かの大丈夫と、カイの小さな行くなよが溶け合って生まれた、新しい感情の気候だった。


 人類が忘れていた本当の感情のリハーサルは、すでに始まっている。

 誰も気づかない場所で、手のひらサイズの光が、静かに世界を書き換えはじめていた。

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