ホットコーヒーに鈴の音を

浦河なすび

追憶

 喫茶クロシェットは、あたし、佐伯さえきすずが自己満足でやっているだけの、お店ともいえないような隠れ家だった。だからお客さんなんて来るはずなかったのに、これは一体どういうことだろう。

 視線をそっと斜め前に向ける。カウンター席の端っこで、ホットコーヒーをお行儀よく啜る白いパーカーの青年。この人は、もう三日連続でここに来ている。



 高校生、ましてや三年にもなっていかがなものかとは自分でも思うんだけど、学校帰りのあたしが真っ先にするのは、クロシェットの開店準備だ。

 自宅から三軒隣の古びた建物へ迷わず向かい、ドアにかけたCLOSEDのプレートをひっくり返す。落ち葉を巻き上げる秋の風に身震いしながら、年季の入った木製の立て看板をガタゴトと整えた。筆記体で書かれた「Clochette」の文字が、呆れたように滲んでいる。

 上品なベルの音と共に店内へ入ると、どっかの古城みたいな仄暗さが迎えてくれる。カーテンは堅く閉め切っていて、光源はいくつかのアンティークなランプだけ。カウンター席が五つしかないほどの狭い店内にはこのくらいがちょうどいい。あたしみたいな、どうにもできない中途半端な存在を押し込めとくのにも、まさにぴったり。

 あたしはまず、奥の棚の上に置かれた薄っぺらい黒のCDプレイヤーの電源を入れた。現代っ子だから、使い方はよく知らない。全部スマホで済むものを、ほんと、馬鹿みたいだと思う。かろうじて覚えている再生とリピートのボタンを、機械的にぽちっとする。店内がたちまち小洒落たBGMの音色に包まれた。ジャズとかクラシックとか、たぶんそんな感じの。歌詞のない曲は粋だけど、カラオケで歌えないから、真剣に聴く暇はあんまりない。

 一段高くなったカウンターの中に入って、重たい通学鞄を放り出す。ぬるい水道水を喉に流し込んでから、仕方なく勉強道具を作業台の上に広げた。理科室に置いてあるような、座り心地最悪の丸イスにどかっと座る。仮にも食材を扱う場所で消しカスをまき散らしながら勉強とか、SNSにでもアップしたら一発で燃えそうだ。まあ、その食材を提供するお客さんなどうちにはいないのだ、だから大丈夫。シャーペンをくるりと回した時だった。カランコロン。ドアのほうから、泥水みたいによどんだ空気を裂くように、鳴るはずのない音が響いた。


 呆然と目をしばたたかせるあたしをよそに入店してきたのは、白パーカーに黒のスウェットという、部屋着の典型みたいな服を妙にお洒落に着こなした、三十後半くらいの男だった。彼は落ち着かないようすで店内を見渡すと、最も入り口に近い席に座り、「ホットコーヒー、お願いします」と言った。

 信じられないことに、彼はお客さんらしかった。ぽわんとした微妙に弱々しい瞳と目があって、あたしは唇をパクパクと動かす。絶対そんな場合じゃないけど、この人、彼女いたことなさそうって思った。現実逃避。

 動転して注文を受けてしまったのが大間違いだった。三秒後に正気を取り戻して、超後悔。やけになったあたしは、うさぎさんが描かれたファンシーな紅茶用ティーカップに、インスタントのコーヒーを淹れてやった。豆の煎り方なんて知るわけない。すごすごと出したホットコーヒーはうさぎさんも苦笑いしてそうなくらい妙ちきりんだったが、彼は何の疑問も持たずに粛々と味わっていた。

 しばらくしてコーヒーを飲みほした彼は、トートバッグから理系の大学生が使ってそうなノートを取り出し、なにやら書き物を始めた。伸びた前髪の奥の眼差しはまさに集中!って感じで、あたしがチラチラ送る視線にまったく気づかずに罫線を追っている。芯をこれでもかってほど出して戦闘力を高めたシャーペンでも投擲してやろうかと思った。あたしは彼が来店して以降、とても勉強どころではない。


 彼はいたって普通に喫茶店を満喫して、一時間くらいで退店していった。会計を頼まれたときはもうどうしようかと思い、パーカーって着心地最高ですよね割という謎のサービスでなんとか一円も払わせずに帰ってもらった。正気の沙汰じゃない。カランコロン。やっとこさ救済のベルが鳴り、あたしは丸イスにへなへなと座った。無性に死にたくなった。畜生背もたれのないクソ椅子め、と意味も無く八つ当たりする。

 なんというか八割くらいあたしが悪いんだけど悪夢みたいな一日だった。今後はもっとちゃんとしなければ。コーヒーのちょっと焦げたみたいな残り香と共に、認識を改める。

 改めたはずだったのに、彼が三日連続で来るものだからもう、どうしようもなかった。これは最早あたし悪くないのでは。と、別方向に認識を改める。



「大丈夫なんですか」

 遠慮がちな低い声に、思わず顔を上げてしまったのが今週二度目の間違いだった。カウンターを越えた斜め前、淡く灯るような瞳。ぱちりと視線が噛み合う。「え、あ……」焦って発した声はしどろもどろだった。

「なにが、ですか?」

 随分とぶっきらぼうに返してしまったあたしに不機嫌になるようすもなく、彼は静かに口を開いた。

「この店の経営。この三日間、俺以外の客を見たことないから……」

 これの代金も三日連続受け取ってくれないですし、と独り言のように付け足してコーヒーを啜る。注文と会計以外で声をかけられたのは初めてだったが、その話題は考えうる中でも最悪のものだった。あたしは世界史の年号を意味もなく書き写しながらボソボソと答えた。

「別に、大丈夫ですけど……」

「……まじすか。凄いですね」

「まあ」

「えっと、あれですか。朝とか深夜とかに来るお客さんが多いとか」

「……逆です」

 話を広げられたことでタガが外れて、気づいたときにはもう、吐き捨てるように言い放っていた。

「お客さんなんていないので大丈夫です。ほっといてください」

 ああ、やってしまった。コーヒーなんて比にならない苦味が全身を巡る。彼のほうも、流石に居た堪れない表情をしていた。「あの、今日もお代、結構ですから」消え入りそうな声で付け加える。嫌になるくらい優しくて、遠くの誰かの心音みたいに穏やかな旋律が、店内をうっすらと流れていく。CDをかけておいて、ほんとうによかった。この状況で静寂だったらお互いにあんまりむごい。


「おかわり、いいですか」

 しばらくして、気まずそうな、なのにしっかり芯のある声があたしを捉えた。そんな図太いことあるかよ。呆気にとられる。でもこれ以上みっともなく騒ぐのも癪で、黙ってヤカンに火をかけた。

「……俺の記憶だと」

 やかんから湯気が立ちのぼる前に、彼がまた口を開いた。

「ここの店主は、紺のエプロンを着たお爺さんだったと思うんですけど」

 心臓の一番柔らかいところを刺された気分だった。喉が動かない。あたしは気づかれないように唇を噛みしめて、コーヒーの粉をマグカップにぶち込んだ。案の定盛大に飛び散って、開きっぱなしだった世界史のノートは素晴らしい有様になった。


 おじいちゃんのエプロンはちんちくりんで不恰好で、クロシェットの常連さんによく笑われていた。そのたびに「孫が家庭科の授業で作ってくれたんだ」と自慢げに胸を張っていたおじいちゃんの笑顔を、あたしはもう覚えていない。


「この喫茶店はね、おままごとなんです」

 ヤカンがシューシューと鳴き始めたので、あたしはそれに対抗するみたいにつぶやいた。「ほっといてください」なんて言っておいて、これ見よがしに、さぞ滑稽なことだろう。何も言わない彼に、あたしは意地でも視線を向けない。

「おじいちゃんは施設に行きました。結構前から認知症で、半年前に大きい病気も発症しちゃって。きっともう、ここには戻ってこられない」

 コーヒー豆が詰められたコルク瓶を指先で撫でる。面白みのないひんやりとした感触に、泣きそうになる。おじいちゃんが患った病の名前を、あたしは未だに教えてもらえていない。たぶん、あたしの家族にとって、あたしがまだ子供だから。こうやって理由を察せるくらいには、あたしはもう大人なのに。

「施設に入ってから初めて面会したとき、おじいちゃん、かなり朦朧としてて。あたしの顔見て、なんて言ったと思います?」

 口に出したせいで鮮明に思い出して、うんざりして鼻をすすった。カウンター越しの彼に、気づかれていませんようにと思う。耳の奥でピアノの旋律が小さく揺れる。ぽろんぽろん、名前の判らない楽器がうつくしく波打つ。ああ、この淑やかな音たちを、今だけライブハウス並のでかさにしてしまいたい。どうか、全てを搔き消して。あたしの声も、記憶もぜんぶ。

「……なんて、言ったんです」

「クロシェット、って。ただそれだけ」

 あたしは、歪に笑う。

「それだけしか言わなかった」

 だから、あたしは今日もクロシェットを開く。どんなに虚しくても、そんな未来が訪れないことをわかっていても、おじいちゃんが戻ってきたとき、綺麗に迎えられるように。喫茶クロシェットは、孫の名前を呼ばなかったおじいちゃんが、唯一覚えていたものだ。

 でも、あたしがしたのは結局、自己満足のおままごとだった。

 ちゃんと喫茶店としてやっていけるような資格や技量は持っていない。常連客だけで賄っているような店だったし、その常連客はみんなおじいちゃんの事情を知っている。だから、お客さんは来ない。過去の優しい光に縋る、哀れな女子高生がただ一人いるだけ。たとえ看板が真っ直ぐに立っていて、プレートがOPENを示していたとしても。来るはずが、なかったのに。


 ヤカンがぐつぐつ言い始めたので、火を止めた。今日は無地の赤いマグカップだから、粉もう少しどうにかしないと濃いわよ、と忠告してくれるうさぎさんはいない。とぷとぷと慎重にそそぐと、苦しいくらいにあたたかい香りが沸き立つ。

「お待たせいたしました」

 おじいちゃんの言葉をまねる。ぐっと身を乗り出して、ホットコーヒーを丁寧にカウンターに置いた。柔らかいハープの音色が揺蕩う。「あ、どうも……」と言ってマグカップに口をつけた彼が、わかりやすく硬直する。ああ、最低なあたし、死んでしまえ、と思った。

 お客さんに美しい一杯を届けるんだ。それがおじいちゃんのモットーだった。あたし、彼に、お客さんに、醜くてたまらない、身勝手な感傷をぶちまけた一杯を出してしまった。ああもう最悪だ。ごめんなさい。コーヒーの淹れ方のひとつくらい、教わっておけばよかった。


 ローファイのリズムが、スピーカーの奥でくもぐって聴こえる。ドラムのスネアがやけに遠く、洗練されたクラシックギターが耳に痛かった。

「——鈴」

 そのとき、たった二拍ぶん、世界から音が消えた。

 それはなんだ、あたしの名前か。なんで知ってんの、この人。目をむいたあたしに気押されたのか、彼は「あ、いや変な意味はなくて」ともごもごと続けた。

「……ただ、お爺さん、本当に鈴が好きなんだなぁって思って」

 彼は長いまつ毛を物憂げに伏せた。鈴。二回聞いて、合点がいった。イントネーションがあたしの名前とは異なる。楽器の鈴のことを言っているらしい。どこかで落胆した自分が酷く惨めで、拳を強く握り込んだ。

「なんで、そう思うんですか」

 こぼれ落ちたあたしの声に、凛とした鈴の音が重なる。ああくそったれBGM、こんなときにその音色を聴かせるな!

「だって、クロシェットの意味は鈴でしょう」

 至極当然のように言うものだから、あたしは立ち尽くすことしかできなかった。全身の血液が蒸発していくみたいに、感覚が霞んだ。

 ねえ、知らない。何語だよそれ。知らなかったよ。あたしはぶるりと身震いする。おじいちゃんがクロシェットを開店したのが、あたしが生まれてからちょうど一年後だということを、思い出してしまった。


 チリンチリン、寄り添うような鈴の音。スピーカーから聴こえる音楽が、どうしようもなく鮮烈で苦しくなった。覚束ない手つきで、コレクションのように並べてあったマグカップをひとつ手繰り寄せる。イチョウみたいな、目も覚めるような黄金色が眩しい。あたしはきちんとスプーンを使って、丁寧にコーヒー粉を入れた。

 ヤカンに残った湯を注ぐと、さっきよりも覇気のない湯気が立ちのぼる。マグカップの中で、樺茶色がぐるぐると回転する。同時に、胸の奥のざらざらしたものが混ざって、世界に少しずつ霧がかかっていくような気がした。不思議と嫌な感じはしない。包み込むような、心地良い霧だった。あたしは黙ってスプーンを置いて、できあがったホットコーヒーをカウンター越しにそっと差し出した。

「……すみませんでした」

 それ濃すぎますよね。苦笑いしようとして、でも口の端が震えて崩れたから、あたしはもう俯くしかなかった。しばらくのあいだ、店内は嫌味なくらいチルいBGMだけに支配されていた。なにも反応が返ってこないので顔を上げると、ちょうどそのまま目が合った。彼は照れくさそうに笑って、首を振る。

「俺、ブラックのほうが好きですよ」

 シュガーポットに手を伸ばす。どこか遠くを懐かしむように、真っ白な砂糖をひとすくい。赤いマグカップに波紋が広がる。見事にフラれた新しいホットコーヒーが、鼻腔に焼き付くような香りを放っていた。


「ねえ」

 あたしは彼の瞳を見遣った。あんなに痛かった鈴の音が、今は背中を押していた。

「あなたは、誰なんですか?」

 ここでタイミングよく、ピアノの繊細なグリッサンド。彼は棚の上のCDプレイヤーに視線を向けた。

「……ふんだんに鈴を使った曲を、って。昔、依頼されたんです」

 彼は右手の人差し指をピンと立てて、CDプレイヤーを指した。そして左手を耳に当てる。慈しむようなその笑顔が、おじいちゃんと重なる。鈴の音が聴こえた。店内が優しい旋律で満ちてゆく。

 滲み出す感情を抑えようと目を伏せると、カウンターの上で開きっぱなしになっていた彼のノートが、視界にするりと飛び込んできた。

 そこには、ページいっぱいの五線譜に、美しい黒の音符が、いくつもいくつも踊っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ホットコーヒーに鈴の音を 浦河なすび @urakawa789

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ