完璧?
あの話し合いの後から、琴音は何度か喫茶店に足を運んでいた。
店の中での琴音は、本を読んだり携帯をいじったりすることもあるが、かなりの時間を勉強に費やしている。
学校での琴音は、成績優秀、頼れる才能人といった印象が根強いが、その通りという訳でもないらしい。
それが発覚したのは、話し合いの次――三度目の来店のときだった。
■■■
「若峰くん助けてえ」
カウンター席から頭を覗かせた琴音が、困り眉を作って呼びかけてきた。
「何をですか」
「勉強。君の成績が意外に高いのは、私の記憶するところだよ」
「意味が分からないんですが」
怜は眉を寄せながら、困惑したように言葉を返した。
琴音の言う通り、怜は勉強が得意な部類だろう。家庭の事情などを加味しても基本的にアルバイトが許されない立岡高校で、無条件に許可が下りるくらいには。
とはいえその事実を知っているのはごくわずかな人間だけであるし、その人たちとの関わりを琴音が持っていないのは当人たちから聞いている。
「別にあの学校入れてるだけでそれなりに秀才でしょ。あと、授業とかも、寝たり肘ついたりふざけた態度で受けてるのに、先生たち誰も注意しないじゃん」
「ふざけた態度って……それだけで僕が頭いいと決めつけないでください」
高校一年生の範囲くらいは、よっぽどの難しい問題以外は解けるため、学校の授業の時間は戦略的休息を取ることもある。
教員は多少なりとも事情に通じているはずなので、咎められないと高をくくっているのもまた事実ではあるが。
「あーじゃあもう頭悪くてもいいから教えて。お願いだからさ」
「……分かりました。仕事上がるまでお待ちください」
高校生であることや、閉店までの数時間はたいてい人が来ないことから、怜はいつも早めに上がらせてもらっている。
「……これ、まだ習ってないところですよね」
「あー、そっか、そうだね。予習しないと成績保てないからさあ。高校入学までの春休みで一年の半分くらい終わらせたんだ。そこからずっと先取りだよ」
「どうして……」
「春休みは暇だったってだけなんだよ? けど入学してからは、その性格ならに賢くないと、みたいな風潮になっちゃったからさあ。必死でやってるよ」
「凄いですね……」
怜だって多少の先取りはしているが、それは長い時間をかけて積み上げたものである。春休みから高校の勉強を始めて、ここまで進められているのは、ひとえに本人の努力によるものだろう。
「で、どこが分からないんですか」
「えっとねえ……ってわかるの!?」
「……まあ。惰性で続けていただけなんですけど」
賢くなりたいとも、自分に能力があるとも思っていなかった。ただ褒めて欲しかった昔の記憶である。
「あー、ここですか。どこまで理解出来てますか」
解説を指しながら、疑問点を伝えてくる琴音に、複雑な心情を抱いてしまう。
その問題は分野の中ではどちらかと言うと初歩的な問題で、授業を受けた後なら誰でも解けるものだった。つまり琴音は、誰にも頼らず一人で勉強をしている。
世の中には問題を解いたり、またそれを周回するだけで学習が完結できると考える人も多いようだが、誰かに教わるのとただ読むのとでは、そもそもの情報量が違う。
授業は内容を噛み砕いて説明してもらうとともに、視覚、聴覚、触覚など、あらゆる情報と繋げて記憶する時間でもあるのだ。
誰にも教わらず、始めから問題を解き始めていては、いくら量を積んでも、応用は難しい。
学校の定期テストくらいならそれでもどうにかなるのだろうが……。
「教科書貸すので、一回読んできてください。少しでも分からないところがあれば教えるので」
「え、いいの?それに、教科書……?」
まあ困惑するのも無理はない。高校では、まだその範囲の教材はなにも配られていないのだから。
「解説書みたいなものです。……高校範囲は他教科も多少教えられると思います」
「……ありがと!助かる」
琴音の顔に浮かんでいるのは、喜色ばかりではなかった。どこか懐疑的な目でこちらを見てくる。
聞くところによると、琴音は学年で上の一割には入る成績らしい。
進学校に合格した、世間では賢い部類の300人。その中で高い成績を維持することがどれだけ凄まじいことか、想像に難くない。
だからこそ、琴音も琴音で上澄みの方だという自覚もあったはずだ。そんな自分が答えられない問題を、あまり目立たない同級生が理解した。それに加え、教科書という妙な言葉。訝しむのは当然だろう。
まあ、別にどう思われてもいい。
大して関わりもない人間からの評価など、気にする必要はない。
「では僕は帰り支度をしますので」
「うん。……私もそろそろ帰らないと」
そう言って琴音が後ろを振り向く。
窓の外を見て、驚いたように呟いた。
「あっ。雨降ってる」
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