第二章 銀翼は祈りを抱いて
第二十二話 仲間たち
甲板――。
エルドゥは陣の中心で踏みとどまっていた。敵は波状だが、波の合間に必ず隙がある。彼は雷でその隙の前後を「強調」し、味方の身体が自然とその隙に乗るように導いた。
「そこだ、踏め!」
轟、と雷は鳴らない。発光だけが短く走る。見た者は足を置く場所を間違えない。
足元が揺れ始めたとき、エルドゥは空を一度だけ見た。
(落ちるか。なら、支える)
彼は大斧を甲板から抜き、両手で柄を構え直した。雷の魔力を刃ではなく、柄に流す。木の繊維が密になり、しなりが強くなる。
「守れ! ここが門だ!」
門がある限り、人は帰って来られる。エルドゥはそういう戦い方をする。
*
サンドが甲板に飛び出したとき、風が顔を叩いた。だが、それは敵意のある風ではない。
「サンド!」
ラウニィーが駆け寄る。
「リヴィは?」
「生きてる。気を失ってる。……この子も」
ラウニィーは一瞬だけ目を見開き、すぐ頷いた。
「この人数じゃ、飛び降りる脱出は無理。……不時着に合わせて守る」
言いながら、ラウニィーはもう矢筒から紐を引き、魔力の符を矢羽根の間に結び始めている。
「セレナ!」
「ここよ!」
動力室から、解放された人々が列になって上がってくる。顔色は悪いが、生きている。
「防御は地と風。重ねすぎない。層をずらす」
セレナが手を上げ、魔法兵を四つの小隊に割る。
「第一層、地。第二層、風。第三層、地。第四層、風。順に薄く。衝撃は逃がす」
ぶ厚い壁は割れる。薄い壁を重ね、しなるように力を流す。
「ラウニィー、合図を」
「わかった」
彼女は矢を一本、高く掲げた。
「この矢が空に留まっている間、息を止める。落ちたら、息を吐いて次の構えに。……いいね!」
「「応っ!」」
甲板の端では、エルドゥの陣がまだ生きている。彼は短く親指を立て、こちらへ半歩ずつ退きながら敵の波を削り取っていく。
サンドはオリビアと娘を最も内側の位置に卸し、毛布をかけ、肩で大きく息を吐いた。
「ここから先は、オレが壁になる」
「サンド、無茶は――」
「無茶じゃねぇ。仕事だ」
彼は笑い、土の魔力を甲板にゆっくりと流した。甲板板材は応えるように、わずかに盛り上がり、縁が小さな土の唇のようになって、人の足を受け止める。
(転ばせない。誰も)
ラウニィーがオリビアの頬に手を当てる。
「……ねぇ、リヴィ。あと少しでいい。私に勇気を貸して」
返事はない。けれど、胸の上下は確かだ。
ラウニィーは涙を吸い込んで、まっすぐ前を見た。
「来るよ!」
空気が、底から抜けた。
飛空艦の腹が大地を見つけ、重力が一気に手綱を引く。
ラウニィーは矢を放った。
矢は真上へ。風の層に触れ、ふっと止まる。
「――今!」
第一層、地。甲板の下に土の板が滑り込む。
第二層、風。風が土の板を持ち上げ、わずかにしならせる。
第三層、地。土が風に重なり、薄く延びる。
第四層、風。最後の薄膜が衝撃の向きを横へと撫でつける。
「――来るぞ!!!」
エルドゥの叫びと、世界の端が重なる。
轟音。
火花。
骨が軋むほどの圧力が、しかし、殺しきられない。薄い層が砕け、また重なり、力は逃げ、逃げ、逃げ――。
やがて、音が遠のいた。
粉塵が白い朝日に煌めく。
耳はまだ高い音を鳴らしているが、息はできる。
ラウニィーは矢が落ちるのを見届け、ゆっくり息を吐いた。
「――生きてる?」
「生きてる!」
「こっちも!」
「大丈夫だ!」
叫びが重なり、泣き声が紛れ、笑い声が割り込む。
セレナは膝をつき、最初に倒れた老人の脈を取った。
「大丈夫。あなたは生きてる。……みんな、生きてるわ」
サンドは肩で息をしながら、オリビアの顔を覗いた。
「おい、オリビア。起きたら文句言っていいぞ。……それまでは、寝てろ」
彼は大きな手でオリビアの髪を一度だけ撫で、立ち上がる。
「エルドゥ! 周囲の警戒を頼む!」
「任せろ!」
エルドゥは部下と共に崩れた艦の影を回り、火の手が上がっていないか、追撃がないかを確かめる。
セレナは解放した人々を二つに分け、歩ける者は外へ、歩けない者は日陰へ。
「水を少しずつ。魔力の補填はあと」
彼女が指示を出すたび、混乱は秩序へと形を変える。
ラウニィーは、粉塵に霞む空を見上げた。
朝が来る。
「……リヴィが、空を引きずり下ろした」
呟きは小さい。けれど、確かだった。
遠くで子供が泣き、誰かがあやす声が混ざる。
気絶していたパン屋の娘が、毛布に包まれて微かに身じろぎした。ラウニィーはそっと膝をつき、目線を合わせる高さまで降りる。
「……大丈夫。怖かったね」
娘はまだ意識の底にいる。だが、呼吸は安定している。
(守れた)
胸の奥が温かくなり、同時に、重くなる。この重みは、これから先もずっと抱えて歩くためのものだ。
オリビアの睫毛が、わずかに震えた。
ラウニィーは息を呑む。
「リヴィ?」
返事は、まだない。だが、彼女の顔色に、ほんの少しだけ血の色が戻っている。
サンドはそれを見て、短く笑った。
「起きたら怒られるな。『勝手に担いでごめん』って言っとくか」
「言っときなよ。私は抱きしめる」
「おいおい、オレの前でやるなよ」
「見るな」
「見るなって言われると見たくなるだろ」
くだらないやり取り。だからこそ、世界が「戻って」きたのだと体が理解する。
エルドゥが戻ってくる。
「外周、異常なし。煙は向こうへ流れてる。ここに居付ける時間は短いが、逃げる余裕はある」
「ありがとう」
セレナが頷く。
「進めるわ」
ラウニィーは最後にもう一度だけ空を見た。
灰色の雲の切れ間から、淡い光がこぼれている。
銀の戦乙女はまだ目を閉じているが、彼女の戦いは、確かに新しい朝へと道を開けた。
――罪なき民を、鉄の空から取り戻した。
だが、この空を汚した手は、地上にも、心にも残っている。
終わりではない。始まりの、さらに前。
粉塵の向こうで、何かがまた、こちらを見ている。
ラウニィーは矢筒の紐を締め直し、微笑んだ。
「行こう。みんな、生きて帰るよ」
その声に、応える声がいくつも重なった。朝の風がそれを拾い、遠くへ運んでいく。
墜ちゆく鉄の空は、もう彼らの上にはない――。
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