第22話



「あ、あの、バールデン伯爵殿…手を……」



 俺に手を掴まれたままだったアイリーン夫人は小声で「手を離してくれ」と伝えてくる。



「ああ、失礼しました、アイリーン夫人。あなたと二人きりになれてつい嬉しくて馴れ馴れしくしてしまい申し訳ありません」


「え? う、嬉しい?」



 アイリーン夫人は明らかに俺の言葉に動揺したようだが俺は一度アイリーン夫人の手を離した。

 だが視線はアイリーン夫人の瞳から逸らさないままだ。



「ええ。私は以前からアイリーン夫人とお会いする度にとても綺麗な方だと思っていたのです。あなたの黒髪はまるで夜の女神のように美しいですしそれに反するような白い肌はまさに女神そのものです」


「っ!…そ、そんな、私が女神など…バールデン伯爵殿はお酒でも飲んでいらっしゃるのですか?」


「ああ、そうかもしれませんね。アイリーンという夜の女神の美しさに酔ってしまったのかもしれません。身体もなんだか熱いですし」


「っ!?」



 俺がアイリーン夫人の名前を敬称を付けずに呼ぶとアイリーン夫人の顔がさらにに赤くなる。

 もちろん俺はパーティー会場に来たばかりだからお酒など飲んでないがまるでお酒を飲んだかのようにアイリーン夫人を熱い眼差しで見つめた。



「そ、それなら、少しここで酔い覚ましをされた方がよろしいですわよ。私は会場に戻りますから」


「いえ、私の身体の熱は一人で休んでいても治まりません。恋という病魔に侵された私を救えるのは女神であるアイリーンだけです。私の病気を癒していただけませんか?アイリーン」



 今度は自分の胸に手を当てて俺は熱にうなされたような表情を作りアイリーン夫人に訴える。

 アイリーン夫人は戸惑ってはいたが俺を置いて部屋を出ようとはしない。

 そんなアイリーン夫人に俺はさらに言葉を続ける。



「ああ、あなたを想うだけで私の心臓は痛み、身体は熱で苦しむのです。あなたに恋をした私を哀れとお思いになる心があなたにあるのなら一晩だけ私にあなたの癒しを与えてくれませんか?」



 その言葉の意味をアイリーン夫人は的確に読み取ったようだ。



「で、でも、バールデン伯爵殿は、わ、私に好意を持ってるなど、い、今まで仰ったことはなかったではないですか」



 拒絶とも言えるような言葉を俺に告げながらもアイリーン夫人も俺の瞳から視線を外さない。

 アイリーン夫人の瞳には欲情と葛藤の光が宿っている。


 俺と関係を持つことに興味はあるのだろうが俺は自分の夫の親戚にも当たる人物。

 関係を持った後も顔を合わせることになるのでアイリーン夫人が慎重になるのも当たり前だ。


 行きずりの浮気相手なら二度と顔を合わせることはないから女としても割り切って関係を持ちやすいが俺とアイリーン夫人の場合はそうはいかない。



「ええ、そうですね。あなたは私の尊敬するロベルト兄さんの奥方ですから私があなたに恋をするなど許されないことなのでしょう。しかし私はあなたをロベルト兄さんに紹介された時からずっと恋焦がれておりました。なので私のこの邪な恋を終わらせるためにもあなたとの一晩の恋の想い出が欲しいのです」



 俺は恋を終わらせるために一晩の恋の想い出が欲しいとアイリーン夫人に強請る。

 アイリーン夫人の瞳が揺れ動いた。


 俺と関係を持つのは一晩だけ。

 それ以上の関係は望まないというならばそれは行きずりの浮気相手と同じこと。


 ずっと俺と関係を持ち続ければ夫のロベルトに自分の不貞がバレる可能性は高くなるが一度きりならその危険性も低い。

 そんな思いがアイリーン夫人の中で渦巻いているのだ。



 もう一押しだな。



 ニコリと笑みを浮かべて俺はアイリーンに囁く。



「アイリーンは私のことがお嫌いですか?」


「っ!?」



 その瞬間、明らかにアイリーン夫人はビクリッと身体を震わせて狼狽えた。


 アイリーン夫人も社交界で美貌とその地位で注目の的である俺のことに興味がない訳ではなかったようだ。

 それなら俺にとって好都合。



「もし今宵あなたという夜の女神の愛を受けられないのなら私は二度とあなたに愛を乞うことはしません。女神に恋をするという大罪を犯した私にどうか一晩の慈悲をお与えください」



 俺は再びアイリーン夫人の手を取る。

 アイリーン夫人の瞳から葛藤の光は消えて欲情の光だけが残った。



「……バールデン伯爵殿…ほ、本当に今夜だけですか?」


「もちろんです。私のことはエミリオとお呼びください」



 獲物が堕ちるかどうか俺は静かに待つ。

 アイリーン夫人は僅かに頷いた。



「…わ、分かりました…い、一度だけ…なら……エ、エミリオ様…」



 堕ちた。



「ありがとうございます。私の美しき夜の女神、アイリーン」



 恭しくアイリーン夫人の手の甲にキスをした。




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