第30話 はじまりの朝

 窓から差し込む朝日が、木の床を白く照らしている。

 私は目を開けた。

 見慣れた天井。

 使い込まれた布団の感触。

 そして、隣から聞こえる静かな寝息。


 カイルが眠っている。

 本物のカイル。

 ヤツがいた頃のような、怯えた表情でも、苦痛に歪んだ顔でもない。

 ただ、深く、安らかな眠り。

 鍛冶仕事で鍛えられた胸が、ゆっくりと上下している。


 私は、左腕を見た。

 黒い痣が、そこにある。

 消えない傷跡。

 だが、もう熱くはない。

 痛みもない。

 ただの、記憶の痕跡として、私の肌に刻まれている。


 私は、そっとベッドを抜け出した。

 カイルを起こさないように。

 台所へ向かう。

 水桶に水を汲む。

 冷たい水で顔を洗う。

 鏡を見る。

 そこには、かつての「か弱いヒロイン」の仮面を被った私はいない。

 ただの、一人の女。

 エリアナがいる。


 薪に火を点ける。

 スープを作る。

 今日は、カイルの好きな、根菜のスープにしよう。

 包丁がまな板を叩く音。

 トントン、と。

 それが、私の新しい日常の音。


「……おはよう」

 背後から声がした。

 振り返ると、カイルが立っていた。

 眠そうな目を擦りながら。

 その仕草。

 左手で、こめかみを掻く。

 本物の癖。


「おはよう、カイル」

 私は微笑んだ。

 作り物ではない、自然な笑み。

「早いのね」

「ああ。……夢を見たんだ」

「どんな?」

「変な夢だ。……知らない世界で、知らない言葉を喋ってる夢」


 カイルが、苦笑する。

「料理の作り方とか、変な道具の使い方とか。……まるで、誰かの記憶を覗き見てるみたいな」

「……そう」

 私は、鍋をかき混ぜながら答えた。

「それは、きっと……大切な夢よ」


 ヤツの記憶。

 斉藤護という男が生きた証。

 それが、カイルの中に根付いている。

 毒としてではなく、糧として。


「そうだな。……なんか、懐かしい感じがしたんだ」

 カイルが、私の隣に立つ。

 その手が、私の左腕に触れる。

 黒い痣の上を、優しく撫でる。

「……痛むか?」

「ううん。もう、全然」

「そっか。……よかった」


 カイルの手が、私の手を包み込む。

 大きくて、温かい手。

 鍛冶屋の手。

 私は、その手を握り返した。


「……ねえ、カイル」

「ん?」

「私、幸せよ」

「……急だな」

「うん。でも、言いたかったの」


 カイルが、照れくさそうに鼻を掻く。

「俺もだ。……お前がいてくれて、本当によかった」


 私たちは、しばらく黙って寄り添っていた。

 スープの煮える音。

 薪が爆ぜる音。

 窓の外から聞こえる、小鳥のさえずり。

 すべてが、愛おしい。


 朝食の後、カイルは鍛冶場へ向かった。

 私は、家事をする。

 洗濯物を干し、掃除をする。

 普通の生活。

 何も起こらない、退屈な日々。

 だが、それがどれほど得難いものか、私は知っている。


 昼過ぎ。

 村長が訪ねてきた。

 ニコニコしながら、採れたての野菜を持ってきてくれた。

「カイルくんは、精が出るねえ」

「ええ。張り切ってます」

「エリアナちゃんも、元気そうで何よりだ」


 村長は、私の左腕を見ても、何も聞かなかった。

 村の人々は、優しい。

 私たちが何を背負っているのか、詳しくは知らない。

 だが、受け入れてくれている。

 それだけで十分だ。


 夕方。

 カイルが鍛冶場から戻ってきた。

 汗と煤にまみれて。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 私は、タオルを渡す。

 カイルが顔を拭く。

「今日は、いい剣が打てたぞ。……あいつの記憶にあった、『カタナ』っていうのを試してみたんだ」

「へえ。凄そうね」

「ああ。切れ味が全然違う。……今度、見せてやるよ」


 ヤツの知識が、カイルの職人技と融合して、新しいものを生み出している。

 ヤツは、無駄じゃなかった。

 ヤツの人生も、ヤツの願いも。

 ここで、生き続けている。


 夜。

 私たちは、窓辺で月を見ていた。

 満月ではない。

 欠け始めた月。

 不完全な月。

 だが、その光は優しく、私たちを照らしている。


「……エリアナ」

 カイルが、私を呼んだ。

「ん?」

「これからも、ずっと一緒だぞ」

「……うん。当たり前でしょ」

「ああ。……当たり前だな」


 カイルが笑う。

 私も笑う。

 世界は、残酷で、理不尽だ。

 管理者も、魔王も、まだどこかにいるかもしれない。

 あるいは、新しい脅威が迫っているかもしれない。

 私たちの平穏は、薄氷の上にあるのかもしれない。


 でも、怖くはない。

 私には、カイルがいる。

 カイルには、私がいる。

 そして、私たちの中には、あの弱いけれど、必死に生きた「彼」もいる。


 私たちは、三人で生きている。

 このハードモードな世界を。

 しっかりと、足を踏みしめて。


 私は、カイルの肩に頭を預けた。

 左腕の傷跡が、微かに熱を持った気がした。

 それは、痛みではなく、温もりとして。

 明日も、明後日も。

 私たちは、生きていく。

 偽りの聖域ではなく、本物の場所で。


 はじまりの朝は、もう過ぎた。

 今は、続く日々の、その途中。

 物語は終わらない。

 私たちの人生が続く限り。


 (完)

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偽聖(ギセイ)の幼馴染 ~勘違い転生者の隣で、私は「本物」を取り戻す~ タカ @hayata999

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