第23話 分離の予兆

 夜が明ける前の薄紫色の空。

 冷たい風が宿の窓を叩く。

 私は目を開けた。

 夢を見た。

 カイルの夢。

 本物のカイルが、暗闇の中で私に「殺してくれ」と懇願する夢。

 その声がまだ耳の奥で反響している。


 隣のベッドを見る。

 ヤツが眠っている。

 カイルの身体で。

 カイルの寝息ではない、不規則で浅い呼吸。

 苦痛に顔を歪め、何かから逃げるように身体を縮めている。

 その姿を見るたびに、私の内側でどす黒い感情が渦巻く。

 殺意ではない。

 もっと冷たく、重い、鉛のような「義務感」


 左腕の瑕疵が疼く。

 熱を持っている。

 フィーネの追跡が近づいている証拠だ。

 ここにはいられない。


 私はベッドから起き上がった。

 カイルのナイフを腰に差す。

 黒く変色した刃。

 それが私の今の唯一の「力」


「……おい」

 私はヤツの肩を蹴った。

 軽く。

 だが、カイルの身体を汚さないように。

「起きろ。出発だ」


 ヤツがビクリと反応する。

 カイルの碧い瞳が開かれる。

 そこにあるのは、純粋な怯え。

 かつての傲慢な光は微塵もない。


「……エリアナ」

 ヤツがカイルの声で呟く。

「まだ暗い。……もう少し」

「死にたいなら寝ていろ」

 私は冷たく言い放つ。

 ヤツは慌てて身体を起こした。

 カイルの手足が震えている。


 宿を出る。

 朝霧が立ち込める街道。

 湿った土の匂い。

 私たちは北へ向かう。

 アルクスへの道ではなく、さらにその奥。

 地図にも載っていない、忘れられた土地へ。


 歩きながら、私は考える。

 あの禁書に書かれていたこと。

 『器が破壊される寸前、魂は本能的に分離を試みる』

 カイルを殺すか。

 それとも、別の方法があるのか。


 ヤツが私の後ろをついてくる。

 足音が重い。

 カイルの身体が悲鳴を上げている。

 魂の不適合。

 ヤツという異物が、カイルの聖域を内側から蝕んでいる。


「……腹減った」

 ヤツが言う。

 私は無言で干し肉を投げる。

 ヤツはそれを拾い、貪り食う。

 その姿に、私は目を逸らす。


 昼過ぎ。

 私たちは森の中で奇妙な遺跡を見つけた。

 崩れた石柱。

 苔むした祭壇。

 そこに刻まれた古代文字。

 アルクスの書庫で見たものと似ている。


「……なんだこれ」

 ヤツが呟く。

「ダンジョンの入り口か?」

 ヤツの「異世界知識」

 それが時折、的を射ることがある。


 私は祭壇に近づく。

 文字を指でなぞる。

 『魂の巡る場所』

 『二つの月が重なる時、扉は開かれる』


 二つの月。

 この世界には月は一つしかない。

 だが、ヤツの記憶にある「ニホン」の知識と照らし合わせれば、何か分かるかもしれない。


「……お前の世界に、月はいくつあった」

 私が問うと、ヤツは驚いたように私を見た。

「一つだよ。……こっちと同じだ」

「……そうか」


 期待外れだ。

 私は祭壇から離れようとする。

 その時、ヤツが言った。


「でも、ゲームの中なら……」

「……?」

「俺がやってたゲーム。『ファンタジー・ライフ』だと、隠しイベントで赤い月が出るんだ。その時だけ、隠しダンジョンに行ける」


 赤い月。

 フィーネの瞳の色。

 そして、ゼノスの虚無の色。

 偶然か。

 それとも、ヤツの妄想が現実を侵食しているのか。


 その時、森の空気が変わった。

 鳥の声が消える。

 風が止まる。

 あの感覚。

 「静寂」


「……来た」

 私が言うと同時に、空間が歪んだ。

 黒いドレスの女。

 フィーネ。

 彼女は遺跡の上に立っていた。

 見下ろす視線。


「……ご名答。ここは『魂の巡る場所』。……魔王様の儀式にふさわしい舞台」

 フィーネが微笑む。

「よく辿り着いたわね。……導かれたのかしら」


 導かれた?

 誰に。

 ヤツにか。

 それとも、私の左腕の瑕疵にか。


「……カイルを返せ」

 私はナイフを抜いた。

 黒い刃が、フィーネの魔力に反応して震える。

「あら。まだそんなことを言っているの?」

 フィーネが笑う。

「その抜け殻の中にいるのは、ただの『エラー』よ。……本物はもういない」


「いる!」

 ヤツが叫んだ。

 カイルの声で。

 カイルの顔で。

「俺の中に……いるんだ! カイルが!」


 ヤツが胸を押さえる。

 カイルの心臓がある場所。

 そこが熱いとでも言うように。


 フィーネの目が細められる。

「……ほう。共鳴しているの? ……面白い」

 彼女の手が上がる。

 黒い槍が出現する。

「なら、確かめてあげましょう。……器を壊して、中身を引きずり出してあげる」


 槍が放たれる。

 私は前に出た。

 ヤツを背に庇う。

 ナイフで槍を受ける。

 衝撃。

 左腕の瑕疵が熱く脈打つ。

 喰らう。

 フィーネの力を、私の糧にする。


 だが、数が多い。

 防ぎきれない。

 一本の槍が、私の肩を掠める。

 鮮血が舞う。

 痛みよりも先に、熱さが走る。


「エリアナ!」

 ヤツが叫ぶ。

 動け。

 逃げろ。

 役立たずの害虫。


 フィーネが次の一手を放とうとした時。

 祭壇が光った。

 青白い光。

 それが柱となって空に伸びる。

 空が割れる。

 そこから、赤い月が現れた。

 幻影ではない。

 圧倒的な質量を持った、不吉な紅い月。


「……扉が開く」

 フィーネが呟く。

 その顔に、焦りの色が浮かぶ。

「予定より早い。……共鳴が強すぎる」


 光が私たちを包む。

 身体が浮き上がる感覚。

 転移か。

 ヤツが私の手を掴む。

 カイルの手。

 温かい。


「離すな!」

 ヤツが叫ぶ。

 私はその手を振り払おうとする。

 だが、できない。

 カイルの身体が、私を求めている。

 あるいは、私がカイルを求めているのか。


 視界が白く染まる。

 フィーネの声が遠ざかる。

「……逃がさない」


 意識が途切れる寸前。

 私は見た。

 ヤツの背後に、もう一人の影を。

 カイル。

 本物のカイルが、悲しげに微笑んでいた。


 ---


 目が覚めると、そこは知らない場所だった。

 石造りの回廊。

 冷たい空気。

 天井はなく、赤い月が真上に見える。

 ここはどこだ。


 隣にヤツが倒れている。

 カイルの身体。

 息はある。

 私は身体を起こした。

 傷が痛む。

 だが、致命傷ではない。


「……ここ、どこだ」

 ヤツが目を覚ます。

 カイルの顔で周囲を見回す。

「……ゲームの、ラストダンジョンに似てる」

 ヤツが震える声で言う。

「魔王城だ」


 魔王城。

 フィーネが言っていた場所。

 私たちは、敵の本拠地に招かれたのか。

 それとも、自ら飛び込んだのか。


 私は立ち上がる。

 ナイフを握る。

 左腕の瑕疵が、今までになく強く脈打っている。

 ここにある。

 カイルを取り戻すための「何か」が。


「行くぞ」

 私はヤツに言う。

 ヤツは怯えながらも、立ち上がる。

 私についてくるしかない。

 この迷宮で生き残るために。


 回廊を進む。

 足音が響く。

 前方に、巨大な扉が見える。

 その向こうから、強大な魔力の気配がする。

 フィーネ以上の。

 ゼノス以上の。

 魔王。


 扉が開く。

 玉座の間。

 そこに座っていたのは、少年だった。

 金色の髪。

 透き通るような白い肌。

 そして、虹色に輝く瞳。

 その姿は、どこかヤツ(偽カイル)に似ていた。

 転生者特有の、異質な美しさ。


「……ようこそ」

 少年が微笑む。

「同郷の友よ。……そして、イレギュラーな器たち」


 ヤツが息を呑む。

「……お前、まさか」

「そう。僕も『プレイヤー』だ」

 少年が玉座から降りる。

「この世界を『クリア』するために来た。……だが、バグが多すぎる」


 少年の視線が私に向けられる。

 左腕の瑕疵。

「その『虚無』。……僕のシナリオにはない」

 そして、ヤツへ。

「その『器』。……僕が使うはずだった」


 魔王。

 転生者。

 すべての元凶。


「返してもらおうか」

 少年が手を伸ばす。

「カイルの身体を。……それは、僕の予備の器だ」


 ヤツが後ずさる。

 カイルの身体が震える。

 私は前に出た。

 ナイフを構える。

 誰にも渡さない。

 カイルは、私のものだ。


「……渡さない」

 私の声が響く。

「この身体は、カイルの聖域だ。……害虫にも、お前にも、渡さない」


 少年が笑う。

 無邪気で、残酷な笑い。

「面白い。……なら、力ずくで奪うまでだ」


 戦闘が始まる。

 最終決戦の幕が上がる。

 私の左腕が、熱く燃え上がった。

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