第21話 硝子の迷路

 魔導都市アルクスは、巨大な硝子細工のようだった。

 無数の尖塔が、空に向かって鋭く伸びている。

 陽光を反射する壁面。

 精緻な魔方陣が刻まれた石畳。

 すべてが人工的で、完璧に計算された美しさ。

 王都のような生活の匂いがない。

 下水も、腐敗も、生臭さもない。

 無機質な魔力の残滓だけが、冷たい風に乗って漂っている。


 私は、その透明な迷路に足を踏み入れた。

 左腕が重い。

 黒く炭化した皮膚の上から巻かれた包帯。

 その下で、瑕疵が静かに脈打っている。

 フィーネの「静寂」を喰らって以来、この異物は私の体温よりも高い熱を持ち続けていた。

 まるで、次の獲物を探す獣のように。


 隣をヤツが歩く。

 カイルの身体で。

 足取りは、王都を出た時よりもしっかりしていた。

 だが、その碧い瞳は、周囲の景色に怯えるように揺れている。

 ヤツの「物語」には、この都市の冷たさは記されていなかったのだろう。


「……すげえな」

 ヤツが、カイルの喉で呟いた。

 乾いた、空虚な称賛。

「ゲームみたいだ。……ラストダンジョンか?」

「……」

 私は、ヤツを無視して歩を進める。

 私の目的は、観光ではない。

 ヤツの妄想に付き合う時間もない。


 街路を行く人々は、皆、同じようなローブを纏っていた。

 視線が、私の左腕に注がれる。

 包帯の下の異質さを、彼らは本能的に感じ取っている。

 あるいは、魔導都市の住人特有の、魔力を視る目で。

 不快だ。

 私は、ヤツの影に隠れるように、半歩後ろを歩く。

 カイルの身体を、盾にする。


「おい、エリアナ」

 ヤツが振り返った。

 カイルの顔で、不安げに。

「どこへ行くんだ。……宿は?」

「まだだ」

「疲れた。腹も減った。……金はあるんだろ」


 ヤツの視線が、私の腰の袋に向けられる。

 王都でのネズミ駆除の報酬。

 その重みだけが、今の私たちの命綱。

 私は、ヤツの要求を無視して、路地裏へと入った。

 表通りの輝きが届かない、薄暗い影。

 そこには、王都と同じような、澱んだ空気が溜まっていた。


 私の目的は、禁書庫。

 古代の魔術書が眠る場所。

 そこに、カイルの魂を取り戻す手がかりがあるはずだ。

 イヴェッタの紹介状には、そう記されていた。


 路地の奥。

 古びた書店の看板。

 剥げかけたペンキで、『知識の墓場』と書かれている。

 ここが、入り口。


 ドアを開ける。

 カビと、古い紙の匂い。

 薄暗い店内には、天井まで届く本棚が迷路のように並んでいた。

 カウンターの奥に、男が座っていた。

 白髪の老人。

 虫眼鏡で、分厚い書物を覗き込んでいる。


「……客か」

 老人が、顔を上げずに言った。

 掠れた声。

「ここは、夢を売る場所じゃない。……現実(あくむ)を知りたい者だけが来る」

「紹介状がある」


 私は、羊皮紙をカウンターに置いた。

 老人が、虫眼鏡越しにそれを見る。

 ギルドの印。

 イヴェッタの署名。

 老人の目が、細められた。


「……王都の『災害』か」

 老人が、私を見た。

 その視線が、左腕に止まる。

「なるほど。……死神を連れているな」

「……」

「隣のそれは……抜け殻か」


 老人の目が、ヤツを射抜く。

 ヤツが、カイルの身体で、ビクリと震えた。

 カイルの聖域が、無遠慮な視線に晒される。


「……禁書庫へ行きたい」

 私が言うと、老人は立ち上がった。

 背後の本棚を押す。

 軋んだ音と共に、隠し扉が開いた。

 その先には、下へと続く暗い階段。

 冷たい風が、吹き上げてくる。


「……戻れなくなっても、知らんぞ」

 老人の警告を背に、私は階段を降りた。

 ヤツが、カイルの身体で、怯えながらついてくる。

 カイルの足音が、石段に響く。

 その音が、私の心臓を冷たく叩く。


 地下。

 広大な空間が広がっていた。

 無数の本棚。

 鎖で封印された書物。

 宙に浮く魔力灯の青白い光が、埃の舞う空間を照らしている。

 静寂。

 フィーネのそれとは違う、死んだような静けさ。


「……なんだこれ」

 ヤツが、カイルの声で呟く。

「ハリーなんとかの世界かよ」

 ヤツの知らない言葉。

 ヤツの「物語」の知識。


 私は、一番奥の棚へと向かった。

 『魂』の分類。

 分厚い背表紙が並ぶ。

 『魂の転写』『憑依と解呪』『精神の再構築』

 私は、手当たり次第に本を開いた。

 埃が舞う。

 カビの匂い。

 文字の列を目で追う。


 ない。

 カイルの状態に当てはまる記述がない。

 魂が「喰われた」後、その一部が「残存」しているケース。

 それは、魔術の理屈では「消滅」と同じ扱いだった。


 焦燥感が、胸の内で膨らむ。

 ページを捲る指が、震える。

 カイルの聖域を守るだけでは足りない。

 中身を取り戻さなければ、私は、ただの抜け殻を愛でるだけの、狂人だ。


「……おい、エリアナ」

 ヤツが、私の袖を引いた。

 カイルの手。

 私は、それを乱暴に振り払った。

「触るな」

「……痛えな」

 ヤツが、カイルの顔を歪める。

「俺だって、探してやってるんだぞ」


 ヤツの手には、一冊の本があった。

 『異界の魂と器の適合』

 ヤツが、それを私に突き出す。

「これ、俺のことじゃねえか?」


 私は、その本をひったくった。

 ページを開く。

 『異界より来たる魂は、器の魂を凌駕する。器の魂は、異界の魂に吸収され、その一部となる』

 『吸収』

 『一部となる』


 文字が、目に焼き付く。

 カイルの魂は、消えたのではない。

 ヤツの中に、溶け込んでいる。

 ヤツという害虫の、栄養分として。


 吐き気がした。

 目の前のヤツが、カイルを「喰った」捕食者そのものに見える。

 カイルの顔をして。

 カイルの声で喋り。

 その内側で、カイルを消化している。


「……返せ」

 私の口から、乾いた音が漏れた。

「……あ?」

「カイルを、返せ」


 私は、ヤツの胸ぐらを掴んだ。

 カイルの服。

 カイルの身体。

 その中にいる、害虫。

 殺意が、視界を赤く染める。

 今すぐ、コイツの喉を切り裂いて、中身を引きずり出したい。


「……やめろよ、エリアナ!」

 ヤツが、カイルの手で、私の手首を掴む。

 弱い力。

 魂を使い果たした、抜け殻の力。

「俺だって、知りたくなかった! 俺が、喰ったなんて!」

「……!」

「俺は、転生したかっただけだ! 主人公になりたかっただけだ! ……誰も、殺したくなかった!」


 ヤツが、カイルの顔で、泣き叫ぶ。

 鼻水と涙で、カイルの顔が汚れる。

 醜い。

 醜悪だ。

 だが、その碧い瞳の奥に、一瞬、違う光が見えた。

 怯えではない。

 深い、悲しみのような光。


 カイル?


 私の手が、止まった。

 ヤツの中に、カイルがいる。

 意識があるのか、ただの残滓なのか。

 だが、確実に、そこにいる。


 その時。

 空気が、震えた。

 地下の静寂が、破られる。

 階段の方から、音がした。

 硬い靴音。

 一つではない。

 複数の足音が、こちらに向かってくる。


「……見つけた」

 声。

 あの、鈴が割れるような、不快な音。

 フィーネ。


 私は、ヤツを突き飛ばした。

 カイルのナイフを抜く。

 黒く変色した刃が、魔力灯の光を吸い込む。

 左腕の瑕疵が、熱くなる。

 脈動が、速くなる。


「……ここか」

 フィーネが、現れた。

 黒いドレス。

 銀色の髪。

 その後ろに、数人の男たち。

 黒いローブを纏った、魔術師たち。

 アルクスの警備兵か、あるいは、魔王軍の手先か。


「……素晴らしい場所ね」

 フィーネが、書庫を見渡す。

「古代の知識。……魔王様の『器』を完成させるには、おあつらえ向き」


 フィーネの視線が、私を捉える。

 そして、床に倒れたヤツへ。

「……抜け殻も、一緒か。……手間が省けた」


 フィーネの手が上がる。

 黒い槍が、空間から生み出される。

 一本ではない。

 十本。

 それが、扇状に展開する。


「……逃げろ」

 私は、ヤツに言った。

 ヤツを見る余裕はない。

「走れ。……カイルの身体を、守れ」

「……え、エリアナ」

「行け!」


 私は、前に出た。

 ナイフを構える。

 左腕の感覚がない。

 ただ、熱い塊が、そこにある。

 瑕疵が、フィーネの力を求めている。

 喰らいたい、と。


 フィーネが、指を振る。

 黒い槍が、一斉に放たれる。

 私は、跳んだ。

 一本目の槍を、ナイフで弾く。

 衝撃。

 重い。

 王都の時より、力が強い。

 ナイフが、黒い火花を散らす。

 瑕疵が、その魔力を吸収する。


 二本目。

 三本目。

 躱しきれない。

 私は、身体を捻った。

 肩を、脇腹を、槍が掠める。

 焼けるような痛み。

 服が裂け、血が飛ぶ。


「……しぶとい」

 フィーネが、冷たく笑う。

「だが、所詮は人間。……その『瑕疵』に、食い殺されるのがオチ」


 フィーネが、両手を広げた。

 空間が、歪む。

 書庫の本棚が、音を立てて崩れる。

 重力そのものが、狂っている。

 私は、床に叩きつけられた。

 動けない。

 見えない重しが、全身を圧迫する。


「……終わりよ」

 フィーネが、近づいてくる。

 その足音だけが、静寂の中で響く。

 私は、顔を上げた。

 視線の先。

 ヤツが、いた。

 カイルの身体で、本棚の陰で、震えている。

 逃げていない。

 動けないのか。


 フィーネが、私の前に立つ。

 見下ろす視線。

 無感情な瞳。

 その手が、私の首に伸びる。


 その時。


「……やめろ」


 声がした。

 ヤツの声ではない。

 もっと、深く、静かな声。

 私の、知っている声。


 フィーネが、手を止めた。

 振り返る。

 ヤツが、立ち上がっていた。

 カイルの身体。

 だが、その立ち姿は、いつものヤツ(偽カイル)の、猫背で怯えたものではなかった。

 背筋が伸び、足が地についている。

 そして、瞳。

 碧い瞳が、澄んでいる。

 濁りがない。


「……カイル?」

 私は、呟いた。


 ヤツ(カイル?)が、右手をかざした。

 あの、チートじみた光ではない。

 もっと、小さく、淡い光。

 それが、一本の、光の線となって、フィーネに向かう。


「……『創生』」


 声が、重なる。

 ヤツの声と、カイルの声。

 二重の響き。


 光の線が、フィーネの黒いドレスを掠めた。

 布が、裂ける。

 フィーネが、驚いて飛び退く。

 重圧が、消えた。


 私は、跳ね起きた。

 ヤツに駆け寄る。

 ヤツは、カイルの顔で、私を見ていた。

 その目に、懐かしい優しさが浮かんでいる。

 一瞬。

 幻のように。


「……エリアナ。逃げるぞ」

 ヤツが、私の手を取った。

 カイルの手。

 温かい。

 あの、鍛冶場の熱を持った、力強い手。


 私たちは、走った。

 崩れかけた書庫を抜け、階段を駆け上がる。

 フィーネの怒声が、背後で響く。

 だが、追っては来ない。

 ヤツの放った光が、書庫の入り口を塞いだのだ。


 地上。

 路地裏の冷たい空気。

 私たちは、息を切らして立ち止まった。

 繋いだ手。

 私は、慌ててそれを離した。


 ヤツを見る。

 カイルの身体。

 肩で息をしている。

 その瞳は、もう、いつもの濁った碧に戻っていた。

 怯えと、混乱の色。


「……なんだ、今の」

 ヤツが、カイルの声で、呆然と呟く。

「勝手に、身体が……。魔法が……」


 ヤツは、覚えていない。

 だが、私は見た。

 あの瞬間。

 カイルが、いた。

 ヤツの内側から、カイルの魂が、身体を動かした。


 カイルは、生きている。

 ヤツの中に。

 取り戻せる。

 確信が、冷たい鉄のように、私の芯に突き刺さる。


「……行くぞ」

 私は、ヤツの背中を押した。

「アルクスには、いられない。追っ手が来る」

「……どこへ」

「わからない。だが、手がかりはある」


 私は、懐から一冊の本を取り出した。

 『異界の魂と器の適合』

 あの混乱の中、無意識に掴んでいた一冊。

 ここに、答えがあるかもしれない。

 カイルと、ヤツを、分かつ方法が。


 私たちは、夜の闇に紛れて、魔導都市を後にした。

 硝子の迷路は、私たちの背後で、冷たく輝いていた。

 左腕の瑕疵が、静かに疼く。

 それは、痛みではなく、鼓動のように。

 私の戦いは、まだ終わらない。

 カイルの魂が、呼んでいる。

 その声が、私の唯一の道標だった。

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